ピキテーの「経営者の社会」のために
- 2016年 4月 4日
- スタディルーム
- 河西 勝
バーナム(1941、武山訳1965)『経営者革命』によれば、経営者支配の社会とは、資本主義社会でもなく社会主義社会でもない。経営者革命による社会的移行は、資本主義的、ブルジョア的とよばれる型の社会から、経営者的と呼ばれる型の社会への移行である。その移行期間は、第一次大戦と共に始まり、新しい型の社会が固まるにつれて、おそらく爾後だいたい50年、ないしはそれ以前に完了すると予期される。この移行において起こりつつあることは、経営者という社会グループないし階級が、一次大戦以前の資本家階級に代わり、社会的支配、権力と特権、支配階級としての地位をもとめる一つの運動である。この運動は成功するだろう。
この移行期が終わった時には、経営者は、国家を支配することによって、間接的に国有化された生産手段を支配し、生産物の配分に当たって、特恵的な処遇をかちとるとともに、事実上社会支配を達成し、社会における支配階級になっているだろう。ソ連邦ロシアは、このような経営者社会にほぼ完全に到達し、ナチスドイツは、ますますこれに近付きつつあり、他の多くの国々ではこのような展開がかなり進んでいるし、またニュデールのアメリカにおいても、他国におけると同様、国営企業においてこれらの展開がみられる。
バーナムの「経営者革命の理論」は企業の国有化によって完結する一つの過渡期社会論である。この過渡期社会は、生産手段が資本(利子うみ固定資本)であり、それを資本家が所有して(あるいは資本を所有する者を資本家といい)生産過程を支配するというものではない限りで、もはや経済的に「資本主義的」ではない。一方で、この過渡期社会は、資本とは言えない生産手段を私人として(ただし私的利益でなく公共のために)経営者が支配するというのであるから、一般の労働者階級が生産手段をコントロールするといった意味での社会主義的経済でもない。ソ連邦でも現実的に特権的な経営者支配が相当に進んでいる。ソ連邦が労働者国家であり社会主義国家であるというのは、元トロッキスのバーナムにとっては欺瞞以外の何物でもない。
バーナムの議論で問題になる点は、この経営者支配の社会、経営者による生産手段の特権的利用が認められる社会は、生産手段の国有化によってのみ保証されるとしている点にある。バーナムのいう経営者支配の社会が、旧ソ連邦型の生産手段国有化・社会化事例を前提にしている限りにおいて、その体系的な誤りははっきりしている。いうまでもないが、二次大戦の敗戦国としてナチズムは崩壊し、戦勝国として続く冷戦の一翼を担ったソ連邦は、1980年代以降世界中の国有企業私有化の新自由主義の流れの中で崩壊した。東ドイツも、まず工場など生産手段の「所有」をみとめ、続いてそれを私有化した。中国も自らを「改革開放」し、少なくとも形の上では(生産手段について「所有」そのものを認めない)社会主義的所有とは真逆の国有株式会社が発展してきた。それ故に、「経営者支配社会」成立の根拠づけにおいて、バーナムのように主要生産手段の国有化・社会化を十分条件とする必要性がないこと、あるいはむしろ所有と経営の関連は現状分析の課題になることを明確にすれば、バーナムの「経営者支配社会」論が、一次大戦以後、現在に至るまで、イギリス、アメリカ、ドイツ、日本の、あるいはロシアや中国などの経営者支配社会に対しても、適用可能になることを意味する。国有化論を措く「経営者支配の社会」はトマ・ピキテーの『21世紀の資本』における一次大戦以降の「不労所得者社会から経営者の社会への移行論」(資本の安楽死)と完全に符丁している。
では、大戦間におけるソ連邦の強大化という時代的環境のもとで、なぜ、バーナムは、「経営者支配社会」の根拠付けを、主要生産手段の国有化の完成に求めることになったのか、そしてその国有化・過渡期論を捨て去る場合に明確になる脱資本主義的「経営者支配社会」とはいかなるものか、以下それらの点について、明らかにしていこう。
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近代産業の発展と共に、大規模の「公的会社形態」(公開株式会社)が成長する。アメリカでは、高度な訓練と技能・資格を要し、現実的に生産手段を管理する独立した「経営・経営者」のグループがあらわれる。「経営・経営者」とは、「生産過程の技術的方向づけと総合調整(「経営」)を「遂行する人」(経営者)である。生産過程では、多岐な仕事が組織され、総合調整されることによって、始めていろいろな資材、機械、工場、労働者が、適当な場所と時間で、そして適当な数量で、すべて利用可能になる。経営者は、生産担当マネージャー、業務担当重役、工場管理者、本部付き技師など(あるいは政府事業では長官、委員長、局長など)とよばれ、それぞれ上から下まで何十人、何百人というヒエラルキー(官僚制度)を構成している。バーナムは、以上の経営者グループ(以下のイ.経営者グループと同じ)を含め、(アメリカの自動車会社を事例にして)株式会社の構成に関して、次の四つのグループを区別する。
イ.経営者グループ。現実に生産手段を直接占有・管理する純然たる経営者のグループ。かれらは、個人としては自分が勤める会社の株券(会社に対する法律上の所有権)をほとんど持たない。バーナムは「経営」「経営者」という言葉を、以下のロ.グループと明確に区別するために、このグループに限って用いる。
ロ.財務担当執行役ないし執行役のグループ。アメリカでは、最高の地位の、最高級の会社役員職員がこのグループに属する。かれらは、収益を上げる価格で最適な数の製品を売る機能、原材料と労働に対する支払い価格を交渉する機能、会社の金融条件を調整する機能など、会社が収益を上げるように指揮する、いわば「利益創出」機能を担う。このグループに属する人々は、大株主、少数株主として、会社に対する所有権について実質的な法律上の利害関係をもつが、株主としてのその地位は、以下の二のグループと同じく、受動的なものである。
ハ.金融資本家グループ。会社の取締役の多くと現実にこの取締役を任命する銀行家および大金融家などから成るグループ。彼らは、会社および会社資産に含まれる生産手段に対する所有権をもつ法律的地位にあり、流動資金やその他の財源を自由にできる。このグループは、とにかく株主であり、法律的な意味では過半数株を所有しないが、法律上の意味をもちうるかなりの株数を所有すると共に、必要とあれば、少数株主から、十分な数の「委任状」を取得し、過半数投票権を獲得できる。彼らの直接の関心事は、生産の技術的プロセスではないし、会社の利潤でさえない。かれらは、持株会社、他会社との取締役兼任、銀行などの仕組みを通じて、自社の金融的側面のみでなく、その他多くの会社や多くの市場操作(M&Aなどのための株や社債の発行)に関心をもつ。彼らは、税金上、自分の会社の利益を引き下げるために、あるいは投機上、利害関係を有する原材料供給会社の利益を引き上げるために、その原料の納入価格を引き上げるかもしれない。
二、最後に、大多数の株主のグループ。会社に対する自己名義の株式証券をもち、正式、かつ法律的に同社の「所有者」である特定の人々。その大多数は全体として同社株の事実上過半数をこえる法律上の「所有者」であるが、会社に対する関係は、まったく受動的なものであり、彼らの権利といえば、取締役会で決められる配当を受け取るだけである。
バーナムの理論を(曖昧な点を補足する意味で)ややふへんしながら整理すると、一次大戦以前にみられた「所有とコントロールの同一性」を維持する株式会社については、次のような一般的な(代理法人統治の)理論モデルが可能になる。上記の四グループのうち、イ.経営者とロ.財務担当重役は、社内取締役をなし、ハ.取締役と金融資本家は、株主総会の代理人としての社外取締役をなす。ニ.大多数の株主グループをふくむ株主は、株主総会を成立させる。社外取締役は株主総会の代理人として、株主が所有する資本・生産手段の利用を社内取締役会に対して提供する。社内取締役は、資本・生産手段を占有・管理しつつ、実際にそれを利用し、利用の対価としての配当(地代)を、株主の代理人としての社内取締役に支払う。地代は資本還元して、利子生み固定資本がうむ利子となる。
ここにおいては、「法律上は生産手段の主要所有者である大資本家・大株主は、社会的優越性の最終的な源泉であり基礎でもある生産手段(の利用)からは、現実の生活では、ますます遠ざか」っている。しかし「大資本家が産業生産から金融へと撤退」し「生産過程の直接的な監督は他人に任」すようになったとしても、そのことは、「生産手段に対する支配がいささかなりとも減ずることを意味しない。むしろ反対に、金融資本家的な方法によって、今だかつてないほど広範に経済分野が大資本家(上記四グループのうちのハ.金融資本家のグループ)の支配下に、これまで以上に厳格に服することになる。」この意味で、株式会社においても、資本家的企業に一般的な「所有はコントロールを意味する」という関係が成り立っている。つまり、「資本・生産手段の所有者は、現実にこれらの資本・生産手段への接近に対して支配権をもち」(所有権に基づいて、生産手段の一定期間の利用を売るという支配権―契約上の権利と義務―を有し)、「その生産物の配分にあたって特恵的処遇を」(つまり利益を配当として)「受けとる人間である」。
一方で、このような株式会社(資本家的企業)の存在は、バーナムによれば、「契約ないし債務の履行を励行させたり、すわり込みストライキーこれは生産手段への接近に対する資本家的支配を否定するーを停止させるように行動」し、「生産手段とその運営に対する大資本家の支配、つまり資本主義的私有財産権に基礎をおいた支配」を「法律、裁判所、警察などをつうじて」支持する国家(ブルジョア国家)の存在を前提にしている。それ故、ブルジョア国家は、政府がその活動を比較的狭い政治的分野―軍隊、警察、裁判所、外交―に限定しているように、「必然的に制限された国家」であり、部分的にせよ、自ら資本家的企業経済に代替して、経済活動を行うことなど原則的にあり得ない。以上のようにバーナムは、「所有とコントロールの同一性」の最終的な保証をブルジョア国家の存在に求める。ブルジョア国家による株式会社の所有とコントロールの同一性、である。以上のブルジョア国家と株式会社(所有とコントールの同一性)との事実上の段階論的関連付けは全く正しい。
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さて、バーナムによれば、バーリ&ミーンズ・モデルには、「経営者革命の理論の正当性を間接に強力に裏付ける」ものであるが、「所有とコントロールの分離」や「経営者層支配の概念」に関して、「ひとつの基本的な欠陥がある」。「所有というのは本来コントロールを意味する」。つまり「所有とコントロール」とは本来的に相互の同一性を意味しており、バーリ&ミーンズのいう「コントロールから分離された所有」ということは、どんな社会形態に関しても一般的に、「無意味なフィクションである」。従って、経営者支配社会における生産手段に対する経営者(社内取締役)の占有・管理(つまり経営者による労働生産支配)とは、その完璧な意味では、社内取締役(経営者)が、今や社外取締役(資本家の代理人)ではなく、企業を所有する国家の代理人たる官僚・政治家との関連において、経営者の経営と所有との真実の同一性を貫徹することである。企業の国有化は、バーナムにとっては、バーリ&ミーンズにいう「所有とコントロールの分離」の「フィクション」を回避する不可避的な要因をなしている。
原理論を欠くバーナムには、資本家的企業としての株式会社(資本家的企業)の「所有とコントロールの同一性」はあらゆる社会形態に通じる経済原則の「私有制と価値法則」による実現に根拠を有すること、ブルジョア国家はこの私有制を保証するものに過ぎないことが理解できなかった。それゆえに、国家と「所有とコントロールの同一性」の関係を、封建社会など非資本主義社会にも当然のことと類推して、「経営者支配社会」に直接的図式的に適用したのである。つまり資本主義社会では、国家が保証する所有A(資本家による資本・生産手段所有)=B(資本家の経営者を通じての労働生産支配)、である。ゆえに、バーナムにとっては、完成した経営者支配社会では、国家が保証する所有A`(国家による生産手段所有)=B`(経営者を通じての国家の労働生産支配)、である。このように、資本としての生産手段所有から非資本として生産手段所有への移行、同時に資本家による労働生産支配から経営者による労働生産支配への移行、要するに資本主義社会から経営者支配社会の移行は、バーナムにとっては、封建社会から資本主義社会への移行ほど長期的なものではないにしても、しかしその移行と同様に過渡期間を有する、ということになった。
三段階論を無視する先験的で形式論理的な短絡革命理論は、もちろんバーナムだけのものではない。それは、経営者を労働者に置き換えれば、資本と資本家を殲滅したロシア革命を世界史的に正当化する、マルクス主義の一般理論に他ならなかった。その意味では、過渡期社会論としてのバーナムの「経営者革命」論も、時代がもたらすドグマテイズムに深く囚われていたのであり、ソ連邦などの崩壊と共に、その失敗は明々白々のものにならざるえなかったのである。しかし、「経営者革命」論の豊かな内容を原理論・段階論に対する現状分析の位置に据えなおすことは、なお可能であり必要でもある。
バーリ&ミーンズの提起した「所有とコントロールの分離」の問題は、単に株式所有の分散化による所有権力の喪失と経営者支配の確立に還元できない資本主義の運命にかかわる重大問題を含んでいた。一次大戦以後、財政膨張(法人所得税と補助金)を通じて、国家の企業経済への介入が広く深く進んだ。ブルジョア国家のレッセフェールの下でこそ作用した私有制と価値による経済原則の実現(資本主義社会)は、もはや不可能になった。所有とコントロールの分離は、あらゆる社会形態の存続の根拠をなすこの経済原則の実現が、ブルジョア国家を超える国家(超主権国家)と、資本の代理人としての経営者を超える(資本所有をも犯し得る大幅な自由裁量権を有する)経営者との政治政党の仲介による協働(一次大戦以降の世界市場から世界政治経済への大転換)によるものでなければならないことを示していた。
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バーナムは、以上の誤った短絡論理にはまり込む一方で、バーリ&ミーンズのいう「所有とコントロールの分離」について、それは、一次大戦以後に進行中の事態としてみるならば、「接近に対する支配と配分にあたっての特恵的処遇に対する支配との分離」を意味する、と「再解釈」する。つまり、接近に対する支配(つまり財産・支配権)をもつはずのものが、すでに国民所得の配分において特恵的処遇を受けておらず、「財産の二つの基本的権利」(財産権とそれに基づく支配・契約関係、すなわち所有とコントロール)の「関連性」(同一性)が、「失われている」。「本来株主のものである会社」に対する「経営者支配」の結果として、一般の普通株所有は、「配当や(株価の)保障」において、(イノベーションなど)「産業上の最高の効率」の恩恵に浴せないばかりか、むしろ非常に多くの困難な状態におかれている。
バーナムによれば、バーリ&ミーンズ・モデルの「経営者支配」(注)とは、次のことを意味する、上記ハ.グループ(金融資本家)から成る社外取締役によって事実上(法形式上)支配されるロ.グループ(財務担当執行役)が、ごく少ない比率の自社株しか持たない一方で、「実際のところ自己永続的に、会社の政策や取締役会を支配し、委任状を通じて、名目的な所有者つまり株主の過半数の票を意のままに操縦できるような状態」を作り出している、と。アメリカの電話電信会社は「経営者支配」の「典型」である。
(注)バーリ&ミーンズの「経営者支配」は、ロ.グループ(財務担当執行役)によるものであり、イ.グループ(経営者)によるバーナムのいう「経営者支配」によるものとは意味が異なる。この相違は、後に触れるように、後者が「経営者革命」の完成としての「主要生産手段の国有化」論を背後に秘めていることによるのである。
以上、バーナムにとっては、経営者支配とは、かなり正確に、企業を資本家的企業たらしめる所有にも基づくコントロールの終わりを意味した。一次大戦以後、経営者支配は、資本家的企業の終わりであり脱資本家的経営者支配の始まりであった。それは、生産手段の国有化によって、最終的に裏打ちされなければ始まらないというような性格のものではない。実際にバーナムは、経営者支配の実体的な根拠を次のように、宇野のいう意味での経済原則の実現に求めている。
バーナムによれば(おそらく自己金融の肥大化を暗黙ないし無意識の前提にした上でのことだろうが)、純然たる技術的観点からいえば、次の関係が成り立つ。イ.グループ(経営者)が担う生産過程にとっては、ハ.グループ(金融資本家)も、ニ.グループ(大多数の株主)も必要ではないし、ロ.グループ(財務担当重役)についても、その本来の利潤追求機能の多くは剥奪しえ、イ.グループ(経営者)の経営技術過程の内に統合されうるものである。ところで、「生産手段は社会的優越の座である。これを名目的でなく、事実として支配するものは、社会を支配する。なぜなら生産手段は社会がそれによって生活する手段だからである。」以上、経営者は、経営者社会では、生産手段の占有・管理を通じて、あらゆる社会に通じる経済原則を実現することによって、はじめて社会の支配階級となる、と事実上バーナムは主張していることになる。
イ.グループ(経営者)は、生産手段を事実として支配し、「たとえば、生産の技術的プロセスの組織化とともに、最も重要な雇用、解雇の大権―これこそ生産手段への接近に対する支配の確信であるーも、このグループに任される」。しかし、二.グループ(財務担当執行役)、ハ.グループ(金融資本家)、ロ.グループ(大多数の株主)は、国家により保全される「資本主義的な財産関係と経済関係」(財産と契約)「に依存している」。だから、純粋に「技術的地位」に依存するイ.グループにとって、たとえば、ナチスドイツの「経営者的方法」が実際に示すように「失業問題の解決は、ごく簡単なことである」。だが、「資本主義的諸関係に依存する」ロ、ハ、二のグループの「地位」は「大量失業の持続にも依存している」のであるから、経営者支配の発展に根本的に対抗せざるをえない。
こうしてバーナムは、事実上、経営者支配による(宇野が明確にした意味での)直接的な経済原則の実現(生産手段による労働生産力の実現)によって、すでに不要・腐朽している資本主義的諸関係の「廃止」つまり経営者の国家支配による生産手段の国有化を根拠づけるのである。しかし、(代理法人統治のもとでの資本家支配とは、資本家の代理人としての社外取締役と経営者としての社内取締役との間の平等な契約関係に他ならないことを想起せよ)、「所有とコントロール」の同一性の崩壊による経営者の支配創出と資本家の支配喪失は、最終的に生産手段の国有化によって根拠づけされなければならない論理必然性はどこにもない。全く逆である。ソ連邦や中国の共産主義の場合に、その経営者支配は、生産手段の国有化(所有の全否定としての人民所有という曖昧さ)故に、けっきょくは崩壊した。西側の自由主義・民主主義諸国では、経営者支配は、国家の様々な介入に媒介されながら、「所有とコントロールの分離」という精妙なバランスにおいて、経済原則を実現したゆえに、その根本的な崩壊を免れたのである。
この意味においては、バーリ&ミーンモデルにおいても、資本主義の高度な発展段階としてでなく脱資本主義社会としての「所有とコントロールの分離」に対する「経営者支配」の事実は、「現状分析的」に多様に存在し得よう(それゆえモデル論など一切の一般理論が排除される)。バーナムは、「バーリ&ミーンズの分析の背後に横たわっている」、脱資本主義社会のもとでの、社会と経済に対する「経営者支配」の現象とその意義について、(バーナムにとっては、それらの現象は短期的なもので、結局はソ連邦型の生産手段の国有化に収斂していくことが決定的に重要であるが、それはともかく措いて、つまり過渡期社会の特徴付けとしてでなく、脱資本主義社会の経営者支配の現状分析的特徴を示すものとして読み替えるとすれば)社会・経済・国家・世界政策にわたる豊富な現状分析を提案していることになる。ピキテーとバーナムの再読を期待したい。
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ソ連邦や中華人民共和国のいわゆる社会主義圏の発展に対して、マルクス経済学者としての宇野弘蔵が直面したジレンマは、マルクス経済学はもはや用済みになるのではないかということであった。マルクス経済学は何よりも資本主義批判として、社会主義革命の歴史的必然性を明らかにするものと考えられていたからである。この観点からすると、社会主義社会がいったん成立し発展していくことになると、マルクス経済学は何の役にも立たないことになる。
宇野のこの問題に対する解答は、いわゆる三段階論に集約される。原理論と段階論は、労働用益の商品化と生産手段としての固定資本(生産手段)用益の商品化により、あらゆる社会形態の存在根拠をなす経済原則を私有制と価値法則を通じて実現する(これが資本主義社会の原理論・段階論上の定義)ことを明らかにする。一次大戦以降の世界的政治経済の発展は、原理論と段階論を標準とする現状分析として明らかにされる。その焦点は、所有とコントロールが分離する(労働用益と生産手段用益とが多様な形で結びつく)脱資本家的株式会社と世界政治経済を通じて、いかにそれぞれの国家社会の経済原則が実現されるべきかに置かれる。
世界が「グローバル資本主義」に向かっているので、マルクス経済学の批判主義としての有効性はますます高まっているとか、しかしそれは19世紀のものとはかなり異なっているので「変容論的アプローチ」が必要とか、あるいはまた反対に、マルクス経済学はいつもいつも間違いばかり犯してきたので、もはやいかなる意味でも無用の長物だとか、これら無学者の幻想は宇野理論によってとっくの昔に打破されていることに気付くものはいない。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study721:160404〕
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