「江戸思想」を再び読むための序章
- 2016年 4月 8日
- スタディルーム
- 子安宣邦
日本の近世社会の幕開けとともに儒教(儒学)は公開的な学問・知識となった。学問や知識が中世的制約から放れて公開され、その講究と伝達の自由を支配・被支配の区別を超えて基本的に獲得する体験を、日本は明治近代にいたってはじめて体験したわけではない。1600年に始まる日本の近世社会は封建的政治体制としての制約をともないながらも、学問・知識を基本的に社会的に公開していった。学問・知識の講究者であり、所有者であり、伝達者でもある学者がはじめて社会的に存在するようになった。儒家・儒者(儒学者)がはじめて社会的に存立するにいたったのである。
学問・知識の社会的公開と公開された学問・知識の一般的受用の体験を学問・知識における〈近代化〉の体験というならば、日本人は二度この体験をしているのである。だが明治に始まる近代国家日本で成育し、教育を受けた日本人はそうは考えない。学問・知識の社会的公開とその一般的受用の体験は明治におけるそれだけだと思っている。明治国家の文明開化の過程とは、17世紀日本がすでにもった知識的開化の体験を体制的に忘却する過程であるともいえるだろう。〈脱亜入欧〉とはこの忘却の過程に付けられた呼び名である。
17世紀日本において儒家・儒者(儒学者)がはじめて社会的に存立するにいたったと私はいった。儒家・儒者が社会的に存立するということは、彼らの奉じる儒教・儒学が一般的な学問・知識体系としての性格をもってくるということである。事態に即して正確にいえば、宋代の中国に普遍的な理論体系・知識体系として成立した朱子学(朱子によって集大成された宋代儒学)が、その本来の普遍的な学的体系として受用され、展開されるのは17世紀日本において社会的に存立するにいたった儒家・儒者においてだということである。朱子学はすでに禅とともに受容され、五山の僧たちによって学ばれていた。だがそれは外典の学習をこえるものではない。朱子学という普遍的意味体系を学び、それを人びとに伝えるには還俗し、現世内の儒者にならなければならなかった。まさしく儒家・儒者としての社会的存立が朱子学を普遍的意味体系として再発見することでもある。
人とは何か。人の意味ある存在の仕方とは何か。人の世とはいかにあるのか。人を載せ、人を覆う天地とは何か。人の究極的な意味は天からくるのか。などなどの普遍的な問いの体系として朱子学を見出すのは、そのような普遍的な問いを人に代わって発し、その答えを求めるような儒家・儒者が存立することによってである。17世紀の日本近世社会とはそのような儒家・儒者が社会的に存立するようになった時代であり、社会である。私はこれを日本人あるいは日本社会における普遍的な学問・知識体系の最初の受容体験というのである。
近世日本における儒家・儒者の存立をこのように見ることは、彼らの思想作業の意味を積極的に読み直すだけではない。むしろ彼らの思想作業やその成果を忘却することの上に成立する近代日本の文明開化的な学問・知識体系におけるわれわれの思想的存立を問い直すためである。われわれは何を忘れ、何を置き去ったか。
私はここではまず17世紀に新たに始まる近世社会に儒者(儒学者)としてあること、あるいは端的に儒者となることとは何かを考えてみたい。1600年代の日本には儒者が生まれ、儒者が存在した。中江藤樹であり、山崎闇斎であり、熊沢蕃山であり、伊藤仁斎であり、貝原益軒などなどである。
私の「江戸思想」の読み直しは近江聖人中江藤樹(1608−1648)から始めたい。聖人の教えの体得者、実践者、そして伝達者、すなわち儒者たろうとした近世最初の人物が藤樹である。昭和にいたるまで人びとはこの最初の儒者藤樹の記憶を「近江聖人」として伝えていった。
「中江藤樹=なぜ近江聖人なのか」:
東京教室・昭和思想史研究会
日時:4月9日(土)13時〜16時 会場:早稲田大学14号館1060教室
大阪教室・懐徳堂研究会
日時:4月16日(土)13時〜15時 会場:梅田アプローズタワー14階1404会議室
初出:「子安宣邦のブログ・思想史の仕事場からのメッセージ」2016.04.06より許可を得て転載
http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/archives/57908577.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study723:160408〕
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