眩く灼熱を歩いたのだ ――『空の果てまで』―― (1/2)
- 2016年 4月 10日
- カルチャー
- 藤倉孝純
地 獄 を さ ま よ う 魂
――高橋たか子・洗礼まで――
目 次
【Ⅰ】 作家の特徴 (4/5掲載分)
―『渺茫』によって―
【Ⅱ】 わたしが真犯人なの――?(4/7掲載分)
―「ロンリー・ウーマン」―
第一章 乾いた響き
第二章 なりすまし
第三章 「それは私です」
【Ⅲ】 眩めく灼熱を歩いたのだ(今回掲載分-第1章~第3章まで、残りは次回掲載)
―『空の果てまで』―
第一章 エピソードいくつか
第二章 哲学少女
第三章 第一の犯行
第四章 第二の犯行
第五章 火急の自分
【Ⅳ】 心性への侵犯
―『誘惑者』―
第一章 言いようもない
第二章 私、不安だわ
第三章 ロマンのかけらもない
第四章 なんでもできる
第五章 詰襟の学生
【Ⅴ】 自分探しの旅路
―「奇妙な縁」―
第一章 老女るりこ
第二章 出会い
第三章 幻影
第四章 羽岡フレーズ
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本編は刊行にいたるまでに、若干の曲折があった。高橋たか子の年譜をたどると次のようになる。1964年(作家32歳)、後に『空の果てまで』として出版される原稿を某出版社へ持ち込み、編集部から書き直しを要求された。66年に書き直したものを編集部へ持っていくが、再び没になる。作家が71~72年に精力的に発表した短編が徐々に評価され、そのうちの数編が芥川賞の候補にノミネイトされて、作家としての地位が確かなものになった73年に、本編はようやく刊行されて、田村俊子賞を受賞した。作家の年譜(清水良典氏作成)だけを追うと、作者が小説家として認められるにおよんで、本編が世に出たという印象を受ける。
本編には構成上、いくつかの難点がある。まずプロットに難点がある。はたしてこのプロットは成立するのか。作家は、主人公秋庭久緒の特異な性格を大胆に描くが、読者が共感するには難しい点もいくつか見られる。また、主人公が前面に出すぎるために、久緒の周辺にいて久緒を相対化する人物の影が薄い。作家は意図して作中事件の時系列をひんぱんに前後させている。その手法が成功したのか、どうか。
しかしながら、それらの欠点にもかかわらず、作家は荒々しいまでに自己の想いを、本編に叩きつけている。手法はともあれ、技法はともあれ、胸中にあるものを表現せずにはおれないという作家の情念が本編に熱気を与えている。
なお、本論稿では秋庭久緒を年代順に追う形で、この作品の論評を試みた。
第一章 エピソードいくつか
本作品第二章では、秋庭久緒の小中学校時代の特異な行動がいくつか紹介されている。少女期特有の潔癖さ、残酷さを伴ったこれらの行動は年齢を重ねるにつれて“反社会”へ向かう。
久緒は小学の低学年の頃から、クラスで目立った存在であった。体育をのぞけばどの科目でも抜群の成績だった。可愛い子で、頭の回転も速かった。歳の割には大人びたところがあって、周りの友達から一目も、ニ目も置かれる存在であった。だから出来の良すぎる久緒に級友は羨望を感じながらも、近づきにはならなかった。久緒の方でも級友から孤立することに自尊心を満足させていた。
五年生のとき、「醜くて、ぺったりとやさしい」(『空の果てまで』 新潮社 p48 以下同じ)少女美代子が田舎から転校してきた。その子は豆粒ほどの小さな眼をきょときょとさせ、ゴム草履をぺたぺたさせて歩き、必要以上に顔を寄せて話す癖があった。そのため生温かい息が強く臭う。都会育ちの久緒はのっけから感覚的に美代子を拒絶していた。ある昼休みの時間、親友のいない美代子が久緒と一緒にブランコに乗りたいとせがんできた。やだと断ってもへらへら笑って頼みこんでくる。ほんの形だけ相乗りして、さっさと降りてしまった方がよかろうと思い、久緒は高学年用のブランコをこぎだした。
久緒は美代子と交互に腰で漕いで、初冬の冷たい空気のなかを行ったり来たりした。美代子の顔がすぐ眼の前にある。すこし背の高い久緒を、豆粒ほどの小さな眼で見あげていて、眼のなかにはうれしそうな色合いが控え目に瞬いている。はあはあ口で喘いでいて、牛乳のような匂いのする生温かい息が、正面から久緒の顔におおいかぶさってくる。
久緒はその時、ふいに憎しみを感じた。理由はよくわからない。息の匂いのせいかもしれないし、媚びへつらうような眼差のせいかもしれない。それとも久緒の存在に触れんばかりの近くにいて、ブランコを降りないかぎり近くにいつづける他人のなまなましい存在というものが我慢ならなかったのかもしれない。(p49)
久緒はすぐ降りるつもりでいたが、美代子に「あたしは久緒さんとこうして二人っきりでいたいの」とせがまれて、久緒は「無茶苦茶に漕ぐから。知らないわよ」と言って、他の友人達のブランコの振幅をはるかに越え、いまにも枠の上を一回転してしまいそうな威勢でブランコを漕いだ。
「とめて、とめて」
その声で、久緒は眼の前にある、怯えたような美代子の顔を見た。あんた、まだそこにいたの、と思った。うるさいわね、どうして私のそばにいるの。久緒は美代子を無視して漕ぎつづけた。(略)
「こわい。久緒さんがこわいわ」
ちっぽけな声が言っている。美代子の顔は青ぐろく縮んだようになっていた。その小さな躯が硬ばって一層小さくなっていた。どこかへ消えうせろ、と久緒は思った。だいたい私と二人っきりでいたいなんて考えついたのが間違いのもとよ。誰だって私のそばに長くいることは許されないのよ。そばにいれば、きっとこんな恐い目にあう。恐ければ、消えうせろ、落ちてしまえ。
「あ・ぶ・な・い」
と美代子は放心したような声音で、一音、一音区切って、妙なことを口走った。たちまち美代子の両手が鎖からはなれた。躯が宙に浮いた。一瞬、哀願するような眼がじっと久緒を見つめ、それから垂直に落ちていった。(p50~1)
当時久緒は小学校五年生である。上の引用文に加えられている高度なコメントは、後年、語り手による解釈である。しかし、その点を割り引いたとしても、このエピソードには後々の秋庭久緒の思考や行動、あるいは性格を予想させる何かがある。
前段の引用で、美代子がうれしそうにブランコに興じているのを見て、久緒が美代子に突然「憎しみ」を感じたとあるが、この年齢ではめずらしいことではないようだ。自分の優越感が、相手にたいする蔑視やらその延長線での憎しみを生む。これらはおうおうにして一過性の感情で、いずれは毎日の生活の中で忘れてしまう。こうした経過を幾度かへて人と人との上下関係が自然に成立する。だが、引用後段の久緒には特異なものが目につく。「あんた、まだそこにいたの」、「誰だって私のそばに長くいることは許されないのよ。そこにいれば、きっと恐い目にあう。恐ければ、消えうせろ,落ちてしまえ」——。後々の久緒の行動を考えた時に、なにやら思い当たる所がある。誰にしたって、「私」に長く付きまとうことはできないという久緒には、美代子のような少女に対する優越感を飛び越えて、久緒を取りまく周囲の者すべてに君臨しようとする特権者意識がほの見える。
放心したような声音で妙なことを口走って美代子はブランコから落ちた。脳震盪を起こして何時間か昏睡状態にあった美代子は、病院で意識を取り戻した。久緒はブランコの一件を考えて、美代子の行為にどこか腑に落ちないものを感じた。美代子を振り落としてやろうとしたのは久緒であった。恐怖にかられて美代子はブランコから転落した。ここまでは久緒にとって思ったとおりの結果であった。——しかし見方によっては、「美代子は私の心を見透した」うえで、自分から手を離したのではあるまいか。その想いが数日久緒を苦しめた。久緒は入院中の美代子を見舞った。
「ごめんね」
美代子は分厚い唇をかくすふうにして、蒲団を鼻の上までひっぱりあげたまま、そう言った。
「どうしてあんたが謝るの?」
久緒は訝りながら、花束をさしだした。あの不可解な落ちかたと、自分から逆に謝るという態度とは、どこかで結びついているようである。
「久緒さんは降りたがったのに、あたしが無理につづけたんだもん」
「あんたこそ降りたがったじゃない」
「そんなことないわ」
美代子はなぜか強く言う。(p51)
こんな二人の会話から久緒の疑惑はますます深まった。美代子は恐怖にかられて思わずブランコから手を離したのではなくて、強者として美代子に君臨している私の内心を読みとって、それに復讐しようとわざわざ転落したのではあるまいか。久緒は「敗者になりきることは、勝者の心のからくりを盗み見ることで償われる」(p51)とまで考えた。
小学校の学童がニーチェの「ルサンチマン」の思想を思いつくはずはない。「敗者――」云々は、無論語り手の後々のコメントではある。転落事故の真相がどうであれ、またルサンチマンまで持ち出すのが適切だったかどうか、それらについてこれ以上の考察はここでは必要ない。このエピソードには、“誰であろうとも私の心を見透してはならない。私の心中は何人たりとも立ち入りを許さない聖域なのだ”という、後年の秋庭久緒の固い生活信条が萌芽の形で確認できる。
次に紹介するエピソードは、久緒が他者の精神を冒涜しようとして、「完全犯罪」を狙った事件である。後々秋庭久緒が犯した犯罪を考えるうえでこの事件は示唆に富む。
久緒は京都府立第一高女に入学した。第一高女は京都で最も有名な学校で、生徒たちは独特な誇りをもって通学していた。女子高にはよくあることだが、下級生は上級生のだれそれに憧れて、放課後のクラスはそんな話で持ちきりであった。同じクラスに村瀬正子という、神経質だが、妙に甘ったれたところがある生徒がいた。母親との二人暮らしで、母・娘は強い愛情で結ばれていた。母親はいつも生徒を正門まで送り迎えした。正子は母親を深く敬愛していた。と言うのは、村瀬正子は美文調の作文を書く名手で、作文にはかならず母親が登場して、母親のこまやかな愛情を謳いあげていた。正子は指名されて自作を朗読する時に、母親のさわりに来ると感極まって大泣きするのが常であった。
その正子は、バスケット部員でややボーイシュな上級生、谷住江とSの間柄であり、そのことはクラス全員が周知のことで、正子は谷住江から貰った手紙をクラスの仲間に見せたり、読ませたりしていた。また、正子自身は毎日美文調のラブレターを住江へ送っていた。語り手は言及していないが、久緒は正子にそれとなく妬み心を持っていたようである。成績ではクラス一番でいつも注目される久緒ではあったが、クラスの人気では正子に敵わなかった。「自己陶酔などというものは、もしそれが必要ならば、闇夜に隠れてなすべきことである」と彼女らしい理屈をつけて、久緒は正子に反感を募らせていた。
ある日、久緒は誰にも見られていない瞬間をねらって、村瀬正子の鞄に一通の手紙を滑り込ませた。「手紙」は大略次のようなのもだった。
私は貴女のことをこれまで昼も夜も思いつづけて参りました。でも、どうしてでしょう、私は突然、貴女のことを何とも思わなくなったのです。私にはそういう所があるのです。どうかこれ以上、偽りの交際を続けることを私に強制しないでください。これが私のいちばん正直な告白なのです。 村瀬正子さま 谷住江
久緒は「手紙」を谷住江の筆跡に出来るだけ近い字で書いたが、その点は自信がなかった。
久緒はさらに、谷住江宛の同じような内容の正子の手紙も作った。運動部の部活動の私物を入れるロッカーは校庭のプールの階段席の下にあった。ロッカーには部員の名前がそれぞれ付けてあった。久緒は正子の「手紙」をそっと谷住江のロッカーへ差し込んだ。村瀬正子と谷住江はそれとしらずに、相互に絶交状を突きつけることになったのである。二人はいずれ筆跡がおかしいと気づいて騒ぎ始めるだろう、と久緒は予想していた。しかししばらくの間にせよ、二人に対して秘かな支配者になれる、このことに久緒は無上の悦びをみつけていた。「他人の精神を破壊の方向へ向かって支配することにまさる快楽はない」(p62)というわけである。
この事件はクラス全体を混乱させた。筆跡のおかしさに気づいた二人は、誰がそれを書いたのか、犯人探しをはじめた。ニ、三の者が疑われた。しかし、品行方正で、成績抜群の級長をしている久緒には、だれも疑いの眼をむけなかった。逆にクラス全員は、解決を求めて久緒のもとに集まった。久緒は内心たじたじとなったが、ふとその時、村瀬正子の母親の娘を見る想いつめたような姿が、久緒に浮かんだ。久緒は正子を一人呼んで、「あなたのお母さんがしたんじゃないの」、「母性愛などというものはエゴイズムの変形にすぎないのよ」と落ちついて言った。級友は久緒のこの意見に納得したのか、事件はまもなく収まった。
この「偽手紙」事件は「ブランコ」のエピソード以上に、秋庭久緒という人間の暗い、陰湿な性格を浮き彫りにした。他人の内面を一時的にもせよ支配する、それも破壊の方向へ向かって支配することに無上の悦びを得るサディズム、これが久緒の性格の基本である。緊縛のように身体的な苦痛を与えるサディズムとは異なり、他者の精神を支配しようとするサディズムは手のこんだ、いわば「高踏」なものである。前者に比べその内実は陰険で、いわば人知れず味わう残酷な歓びである。本拙稿の後段で見るように、久緒はいくつかの大きな犯罪を犯すのだが、それらの犯罪の動機も目的も久緒のサディズムに因る。
久緒のサディズムについてはもう一点明らかにしておきたい。彼女のサディズムは反社会的な性格を帯びた方向へ向かう。筆者はサディズム一般が社会の良識に反する不道徳なものであるという認識は持っていないが、この作家が創造した人物が反社会的、すなわち既成の秩序に対して攻撃的である点は明らかである。前章で論じた放火犯を演じた山川咲子(『ロンリー・ウーマン』)はその好例である。だが、作家の「反社会」は反権力へはつながらない。この作家は、自己の孤高な精神を犯す存在としての社会に対し、“個”として対峙する。高橋たか子が「内向き」の作家といわれる所以である。この作家のサディズムが反社会的であっても、反権力へ向かわないのは何故であろうか? その理由はおそらくこの作家の人間観に基づく。高橋たか子はサディズムのなかに人間の悪、—-原罪といってもよい—-を見ているのである。“サディズムのなかに人間の悪をみる”、これこそ本編、『空の果てまで』の主題にほかならない。
作家は後々のプロットの展開を考えて、偽手紙のエピソードを使って、秋庭久緒という人物の基本的性格を、早い段階で明らかにしたかったのであろうが、いかにも後味の悪さが残る。首謀者久緒は事件を傍観する立場を装って、もっともらしい「解決」策を示してクラスを納得させる。彼女は自身を安全な場において、谷住江と村瀬正子の友情と、村瀬母子の情愛を混乱させようと画策し、あわせてクラス全体のリーダーの位置を確かなものにしようとした。他人の精神の領域を犯そうとするものは、もしそれが許されるとするならば、最低限自己の精神に対する峻厳な批判、すなわち自己批判がなければなるまい。このエピソードでは、久緒一人が安全圏にいて、事態の展開に満足している。ここが、何とも後味が悪いのである。
こまかい点ではあるが、このエピソードには構成上欠点がある。久緒は二通の手紙は正子の母親が書いたものだとクラスのみんなへ言った。仮に、正子の母親が村瀬正子と谷住江の筆跡を無難に真似することができたとしよう。母親は娘に読ませるために、正子宛ての住江の偽手紙を、娘の鞄の中へ差し込む。これは容易に出来る。しかし、逆に住江宛の娘正子の偽手紙を住江に読ませるのは難しい。なぜなら、バスケット部員の谷住江は学校のプールの階段席に私物を入れるボックスを持っている。住江に宛てた正子の偽手紙を母親が、学校関係者や生徒に見られずに、住江のボックスへ差しこんでおくのは、ほとんど不可能とみていい。作家はここに気がつかなかったのであろうか? 作家はこのエピソードにいわば惚れこんで、綿密な検討を怠ったのであろう。「偽手紙」エピソードは本長編のわずかな部分にすぎない。筆者はここに深くこだわるつもりはないが、これと類似の欠点が、本編の最も重大な事件においても見られるので、あえて言及した。作家は本編の最後において、「完全犯罪の円環は閉ざされている」と記したのだが、筆者の見るところでは「偽手紙」と類似の欠点を持っている。
第二章 哲学少女
秋庭久緒のクラスに岡克子という早熟な哲学少女がいた。寡黙なうえにもっぱら哲学書、宗教書を好んで読む十七、八歳の生徒であった。時代はおりしも、日本帝国主義が中国大陸へ軍事侵攻した年(1937年)であった。世間では出征兵士の壮行会や南京陥落の提灯行列が華々しく行われて、「万歳、万歳」の声が街中を埋めつくしていた。久緒と岡克子はそうした時代の趨勢にすこし距離をおいて暮らしていた。二人は決して反戦的ではなかったが、軍国主義が横行する時代の流れには漠然とした不満を抱いていた。二人はそれぞれの思索に耽って、内面生活を大事にする点でクラスでは目立つ存在であった。こうした共通の傾向が二人を近づけたのであろう。
ある日、二人は西欧近代科学の基礎を造ったといわれる錬金術について話し合っていた。岡克子の意見に拠れば、錬金術師がほんとうに造ろうと欲したものは、金ではなかった。世界は神によって創られたものなのか、それとも神と悪魔の共作なのか、そのことをレトルト(フラスコの一種)のなかで証明しようとしたのが錬金術師であった。世界の実体を巨細に研究することによって世界観が確立されるのではなく、逆に、世界をどの様に理解するかによって、世界の実体が新しく見えてくる。だから「秋庭さん、わたしたちはある小さな観念によって世界の観方を変えることができるのよ」と、克子は熱っぽく語った。こんな抽象的な話をながながとした末に、克子は突然、「この都市に飲料水を供給している浄水場に毒を投げ込む」計画を久緒に打ち明けたのであった。久緒には、錬金術の話と浄水所へ毒を投げ込む事とがうまく結びつかなかった。しかし、浄水所に毒を投げ入れて、連戦連勝で浮かれている世間の人々を一瞬「あっ!」と恐怖に陥れるイメージが、鮮やかな炎を放って久緒の心臓を鷲ずみにした。二人は毒物混入についてながながと話し合った。決行の日を五年生の新学期が始まる前日と決めた。浄水場の下検分をし、夜間の浄水場の警備についても調べることも決めた。克子は双眼鏡を使って、フェンスの破れた個所をみつけた。いよいよ決行当夜、克子は大量の青酸カリを持って来た。左翼運動をしている兄の部屋から持ち出したらしい。満開の桜が咲く宵闇の中を、二人の少女が雑草を掻き分け、岩に足をとられたりしながら目指す貯水槽へたどり着く細かな情景は、本論評では省略する。二人は目指す浄水槽にたどり着いた。
昭和十三年以降日本を取り巻く内外の情勢は、戦争の長期化が避けられないものとなっていた。戦争の長期化に備えて、政府はあらゆる経済活動を政府の命令下に置く「国家総動員法」を制定した。軍需産業はもちろん、それを支える電力、水資源の管理は厳しい監視下に置かれた。また、「国民精神総動員運動」が始まったのもこのころであった。内務省が中心となって全国津々浦々に「隣組」、「愛国婦人会」を組織して銃後の戦意高揚と非協力的な住民に対する監視の眼を強めた。このような厳しい監視社会の中で、果たして、二十歳に満たない二人の女性が、秘密裏に青酸カリを浄水場に投げ入れることができたのであろうか。もしも二人の計画が当局によって把握されたならば、二人は国家に対する重大犯罪人として逮捕されたであろう。
しかしながら、二人は青酸カリ投入がどれほど危険な行為なのかについてはたいした関心を払わなかった。それでは、これほどの大胆な行動を起こす二人の目的は何であったのか—-。このエピソードの興味深いところは、後に明らかになるが、計画の実現性にはない。この計画を思いついた二人の時代に対する、あるいは時局に対する“醒めた眼”にある。二人は浄水場の現場で、こんな会話を交わしている。
「秋庭さん、どうしてこんなことする気になった?」
岡克子が太い声で、唐突に言った。
「あなたがすすめたからじゃない」
久緒は斜面の途中の、すこし平らになった足場で、岡克子がそこへたどりつくのを、後向きのまま待っていた。
「他人からすすめられたことを、そのまま鵜呑みにして実行するような秋庭さんじゃない」
久緒は岡克子がそんなふうに追究してくるので、また蔓草を引っぱりながら昇りだした。
「どうしてこんなことをする?」
岡克子の声がしつこく背後からくる。
「復讐だわ」
久緒は短く答えた。短い答え、久緒にはそれでじゅうぶんだった。
「何にたいする?」
岡克子はわかっていることでも一つ一つ念を押す。そのようにして、久緒が簡単に断ち切ってすませている間に、岡克子はいつのまにか長い論理を組み立てていく人なのだ。
「凡庸さにたいして」
「凡庸さがいったいどういう関係があるのよ?」
「世間の凡庸さをこういう形で罰するのだわ」
「秋庭さん、幼いわね」(小略)
「凡庸さなんて、復讐の値打もないものよ」
岡克子は振りかえった久緒の気配を下から押しかえすふうに、強く言った。
「あなたはいったいどうなの?」
「秋庭さんの論理は幼い。そんなことのために悪を行えば、悪はすこしも赫かないわね」
「あなたの目的は何? あなたこそ何のためにこれをやるの」
久緒はこの行為については、錬金術の話をしたことと、具体的な実行計画をたてたことのほか、まだ岡克子自身の目的らしい目的を聞きだしていないことに、いまになって気がついた。
「私は善を否定する。これによって善というものが否定できる」(小略)
「その善とやら。私にはそんなものはわからない。それは一つの観念でしょ。眼には見えないし、殴りつけようもないでしょ」
「あなたは世間を殴りつけようというの?」
「世間といってわるければ、人間といいかえてもいい。私には眼に見えるものを殴るしかできないわ」
かなり垂直に近い斜面なので、それに土が濡れているので、足許に力をいれていなければずるずると滑りそうになる。踏みつけられた雑草の、青臭い匂いが、闇の層を染めていくようだ。
「秋庭さん、悪が対抗できるものは善しかないのよ。悪と対等な相手は善だけなのよ」
岡克子の眼鏡の玉が、空の星明りを映してか、闇のなかで鈍く光る。彼女の厚ぼったい唇が、一匹の生きもののようにねばっこく動く。
「あなたはまわりにうようよしている人間たちというものは勘定にははいらないのね。あなたはいつも本ばかり読んでいる。本の外にあるものを見ようとしない。憎悪というものはあなたにはないんだわ」(小略)
「なるほどね、あなたのエネルギーは憎悪なの」
岡克子はふうっと長い息を吐いた。
「あなたが憑かれている悪の観念よりは確かなものよ」
「憎悪ね」
岡克子は自分に納得させるようにして繰り返した。
「私は単なる一つの観念などのために危ない橋をわたったりしない。いつの場合にも私はやむにやまれぬ感情から動くのだわ」
しばらく言葉が途絶えた。その空隙へむかって闇がながれこむ。
「危ないな、秋庭さん」
「何が?」
「あなた、いつか自分を亡ぼすわよ」(69~73)
省略した部分は、語り手が足場の悪い浄水場へむかう二人の緊張した様子を、春の宵闇の情景をおりまぜながら丹念に描いた部分である。
悪だ、善だ、憎悪だと言う二人の青臭い議論にいちいち立ち入るつもりはない。若者たちはいつの時代でもこんな抽象的な議論に陶酔して、青春を想い出深いものにするものなのである。おもわず長い引用になった理由は、二人の抽象的な議論そのものではなく、議論を通して明らかになった秋庭久緒と岡克子の立場の違いを確認しておきたいがためである。二人の立場の違いを明らかにしよう。
秋庭久緒は“憎悪”が、したがって“感情”が行動へ駆りたてる原エネルギーだと明言している。本作品を読む上で、これは記憶しておきたい言葉である。久緒は本作品で、この先いくつかの許しがたい犯罪を犯すのであるが、それらはいずれも「なぜそうまでするのか?」という理由がはっきりしない。久緒は自己の昂ぶった感情を抑えきれずに、対象に対する嫌悪や憎悪をむきだしにして犯行へ突きすすむ。恋愛問題や社会問題に関連して自己の感性に忠実に生きた女性は、明治以降の文学に少なからず登場している(たとえば、有島武郎『或る女』の早月葉子)。久緒はそれらの女性たちの一人に属する。読者の立場からすると、久緒の感情の昂ぶりに共鳴できれば秋庭久緒という人物は理解しやすいが、逆に、彼女へ感情移入できないと、読者には「なぜそこまで—–」という疑問がついてまわる。今回のエピソードでは、久緒は克子へむかって、「私は単なる一つの観念のために危ない橋をわたったりしない。いつの場合にも私はやむにやまれぬ感情から動くのだわ」と語った。“やむにやまれぬ感情”、これが秋庭久緒という女性の基本的立場である。久緒のこのスタンスに対して克子は「危ないな、秋庭さん」、「あなたは(その立場によって)いつか自分を亡ぼすわよ」と警告した。この警告は後に実現する。作家高橋たか子は果たして、読者が共鳴できるようなかたちで秋庭久緒を描ききれたのか。
憎悪、それは誰かに対する憎悪、何かに対する憎悪という形で具体化する。したがって憎悪のありようは対象に規定される。それに対して抽象的な概念としての“悪”、つまり哲学や宗教でとりあげる悪は対象を必要としない。秋庭久緒は世間の凡庸さに対して復讐するのだと言って岡克子の計画に参加した。その秋庭久緒に対して、岡克子は「秋庭さん、幼いわね」と応じた。克子は個別の対象に規定された憎悪や悪意にこだわらない。克子は上の引用で明らかなように、「私は善を否定する」、「悪と対等な相手は善だけだ」と主張して、形而上学的な悪こそが彼女の思索の対象であることを明らかにした。仔細に検討すると、「悪が対抗できるものは善しかない」という彼女の評言には、悪に対する消極的な姿勢が見られる。彼女のこれだけの言明からでは、彼女が善悪二元論の立場に立つのか、それとも善による悪の克服を思索しているのか判然としない。しかしながら岡克子が、本編作品で悪それ自体を課題にした意義は大きい。高橋たか子という作家は、これまで社会から疎外された女性、社会に敵意をもつ女性を描いてきた。その傾向は反社会、反倫理と要約できよう。作家は本編で、岡克子という女性を創造することによってはじめて、悪それ自体、すなわち存在論・認識論を射程に収める哲学の立場を確保したのである。しかし作家のこの新しい立場は十分に強固ではない。いやむしろ、ようやく端緒についたと言ったほうがいいのかもしれない。と言うのは、岡克子はこの作品ではわずかな役割しか与えられていないからである。克子はこの場面で大きな役割を果たした後活躍する場がなく、本編の最後、二十年以上の歳月が経過した後に、商家のおっとりした主婦となって秋庭久緒に再会するのである。岡克子が主人公となって登場するには、『誘惑者』の鳥居哲代を待たねばならない。
さて、話題を毒物混入へ戻す。浄水場の中央についた二人は用意した多量の青酸カリを水槽へ流し込んだ。「大それたことをしたという酩酊感」に満足して、二人は帰路についた。しかし、翌日も、翌々日も新聞やラジオは飲料水についてなんの異常も報じなかった。水量に比べて毒物の量が不足だったのか、不審に感じた久緒は克子を問いつめた。すると克子は落ち着いた様子で言った。
「秋庭さん、あの翌日ね、あなたは水道の水飲んだ?」(小略)
久緒はそのときになってはじめて自分の迂闊さに気がついて、内心たじろいだ。自分の家の水道に、あの毒物が流れこんでいるはずだったなどと考えてもみなかったのである。
「そうそう、秋庭さん、そうなのよ。あなたにとってもあれは抽象的な犯行だったのよ。すこし分った?」(p76)
克子は青酸カリではなくて、白い粉砂糖をタンクへ入れたのであった。毒物混入のエピソードはここで“おち”がついた。克子は最初から無害な粉末を用意して、それを浄水タンクへ入れただけなのであった。—–とすると、岡克子は自分の気晴らしのためにこんな危険な芝居をしたのであろうか? それとも秋庭久緒をからかってやろうとして、こんな手の込んだ悪戯をしたのであろうか? 上の引用の最後で、克子は実に含蓄に富んだ内容を久緒に伝えている。「あなたにとってもあれは抽象的な犯行だった」(傍点、筆者)と。“抽象的な犯行”、この一言が大変興味深い。二人は行動の日時を決めて、粉末を用意して、現地の様子も事前に調べ、そして深夜浄水場へ向かった。ここまでは、「投入」へ向けての具体的な予備行為である。戦時下という時代状況を考慮すれば、この行為だけで重大な刑事罰の対象である。では、どこが「抽象的」なのか。岡克子の計画は最初から“実害”を予定していなかったのである。実害が発生したならば、こうもあろうか、ああでもあろうかと頭の中で空想する次元での「犯行」にすぎなかった。その意味で、犯行の核心部分は観念的で、抽象的なのであった。それならばこの毒物混入事件は、やはり岡克子の遊戯にすぎなかったのか。
筆者はこの事件を時代の趨勢に抗う精神の冒険と解したい。この解釈は本作品のエピソードから離れた筆者独自の感想である。
時代は先に記したように日中戦争の勃発直後である。戦勝に酔いしれた国民は、バンザイ、バンザイを連呼して提灯行列で戦果を祝していた。克子はこういう時代の流れに同調できなかったし、傍観者として無関心を装うこともできなかった。彼女は一個人として良心の次元において、時代の趨勢にささやかな抵抗を試みたのである。彼女のささやかなこの抵抗を、知性の隠微な自慰行為とみなしてはなるまい。精神の次元において時代の流れに抗する、これも知識人の抵抗のひとつのあり方である。ヘーゲルは「ミネルヴァのフクロウは夕暮れに飛び立つ」の名言を残した。しかし、逆もまた真なりである。精神の構築が時代に先行することもありうる。ピューリタン革命にピューリタニズムが先行したように,フランス大革命にエンサイクロペディアが先行したように。時代に抵抗する精神が、次なる新たな時代の到来を用意する。
第三章 第一の犯行
秋庭久緒は生涯で二度、残酷な犯罪を犯した。二度目の犯罪については、次章で考察する。最初の犯罪はどのような事件であったのかを本節で考察するのだが、この事件に対する筆者の視点を予め明らかにしておこう。“秋庭久緒はどのような理由からこんな大それた犯行におよんだのか”、この一点に尽きる。事件の内容に入る前に、秋庭久緒の経歴について簡単に整理しておこう。
作品中では、彼女は昭和九年、府立第一高女へ入学し、十八年に卒業した母校の同窓会から要請を受けて、女子挺身隊として大坂のある工場の作業に従事した。彼女はここで後に問題となる落合雪江と出会った。十六年に両親のすすめでお見合いをして婚約したが、相手は五ヵ月後に召集を受け、中国戦線で戦死した。久緒は出征する婚約者と駅頭で別れの握手をしたが、それが彼女が婚約者に触れた最初で、最後であった。十九年二月、二十三歳で武山信次と結婚し、翌年子供が生まれた。なお、作品の冒頭で、久緒は十三年ぶりに大阪駅で落合雪江に再会したとあるから、本編の「現在」は昭和三十一年(1956年)、久緒が三十五歳ころと思われる。久緒の生年は大正十年である。
こうしてみると、久緒は日本軍国主義の対外侵略の歴史とぴったりと重なる。久緒は太平洋戦争時期に青春を送った戦争世代の一人であるが、興味深いのは、彼女が「愛国少女」とは無縁の生き方をした点である。彼女は「(私の人生は)戦争に沿ってながれてきた時間ではあったが、戦争とはなんの関係もないものだった」(p27)と述懐している。あの激動期に、時代と積極的な接点を持たずに生きた。彼女はどんな戦中、特に敗戦末期を暮らしたのか、それに答えるには、彼女と夫、武山信次との結婚生活をみなければならない。
友人の法律相談に同行して、久緒は弁護士の武山信次にはじめて会った。彼女は武山の理路整然とした語り口に魅了された。その瞬間が久緒を武山に結びつけた。二人は二ヵ月後に式を挙げて新居を構えた。信次は仕事の面でも、家庭生活でも実直誠実で、規律を重んじるタイプであった。自己の内面をあけすけにさらけ出すことがなく、いつも冷静で、冴えた精神の持ち主であった。それだけに久緒の存在を大きく包み込む雅量には乏しかった。二人の間には眼には見えない薄い膜のようなものがあったらしい。それを証明する2~3のエピソードを紹介しよう。
結婚して八日目に問題が起こった。久緒が夫の書斎を掃除していたとき、本棚から革表紙の本を取り出そうとした。その時「本に手を触れるな」と鋭い声がして、信次が部屋のドアーに立っていた。
「どうしてですか」
「ぼくの本だろ」
「あなたの本は私の本でもありますわ」
「君がそんなことを言うのか。個人の限界を知っている君が」
信次は久緒が持っていた革表紙の本をむしり取るようにした
「その本、誰かにおもらいになったのね」(p138)
久緒ははじめて知る信次の硬い態度に驚くとともに、漠然とした疑惑にもとらわれた。その本の中に、“私が知らない秘密があるのでは—–”。
結婚してまもなく久緒は妊娠したが、その時の信次の対応にも久緒は不安を感じた。
「産みたければ産んだらいい。ぼくはあまり子孫というものは考えていないが、君に子供がほしいという気持があれば、それは尊重したい。問題は君の気持だ。」(p141)
「産めよ、育てよ、皇国民」が家庭のモットーとされた戦時下において、信次の対応は物分りがよすぎるというか、淡白すぎるというか。久緒は男子を産んだ。その後夫婦の間で子供の名前について、何日もの間対立がつづいた。久緒は「敏明」、信次は「洋平」にこだわった。子供の名前は結局洋平に落ち着いたのだが、これがこの夫婦の最初の深刻な諍いであった。
「あなたは洋平とお呼びになれば。私は敏明と呼びます。子供は右を見ると洋平といわれ、左を見ると敏明といわれ、そう、あなたの説にしたがえば、名前によって自己形成していくんですから、子供はいつのまにか右と左が違った顔になりますわ。おもしろいこと」
久緒は笑いだした。
「ばかなことを言うものでない」
信次の青い顔は、怒ると血の気がのぼるどころかさらに青くなる。
「私はばかですから」
久緒は自分の笑い声が神経的に高まっていくのを聴いていた。
「その笑いかたは何というざまだ」
「笑いだすと止らないのよ」
「ぼくを嘲笑するのだな」
「私自身を嘲笑してますの」(p148~9)
次の瞬間、信次は久緒に暴力を振るった。久緒はつと立ち上がると、財布を取り出してそのまま家を飛びだしてしまった。この諍いは、家を飛び出した久緒を追って信次が路上で荒々しく愛撫する場面で終わったが、その詳細はここでは触れない。それからというもの、久緒は夫の冷え冷えとした眼を意識した。
たしかに、二人の家庭生活には円滑さに欠けるところはあったが、信次は仕事に熱心で、また育児にも積極的に協力する夫であった。太平洋戦争の末期、日本全土が空襲で焦土と化しつつあった時、好き合って結婚し、律儀な夫がそばにいて、子にも恵まれ、幸せな家庭生活に満足できる条件が久緒には揃っていたといってよい。上に紹介したエピソードなど、どこの夫婦にもある小さな行き違いにすぎない。こんな家庭内のトラブルが、あの大な事件の直接の原因であるとは考えられない。
事件は米空軍の空襲から始まった。 二人は大阪市内の信次の事務所に近いところに家を借りて暮らしていた。昭和二十年六月中旬、ある日、B29の大編隊が大阪を無差別爆撃した。焼夷弾の炸裂音が信次の住まいの方へ近づいてきた。赤ん坊の洋平がむずかりだした。久緒は洋平にたっぷり乳を飲ませて、防空頭巾を被せて茶の間の奥の寝室へ横たわらせた。信次はそばにおいておいた防空頭巾をつかむと、素足で防空壕へむかった。久緒も非常持ち出しの防空鞄を二つ取り上げて、信次の後につづいた。
一つの火の玉が正面に不意に現れた。その火の玉はまるで狙いを付けた生き物のように、信次の家の真上で止まった。それからゆるやかな速度で落下した。信次の住まいは一瞬にして炎が噴きあがった。
「洋平はどうした」
信次が大きな声で言った。
久緒は炎の鮮やかな朱色を、終末の華麗な色彩というふうに意識しながら見つめていた。
「洋平はどこにいるんだ」
信次が久緒の躯をはげしく揺さぶっている。
「洋平? ああ、洋平ね」(中略)
「洋平ですか。奥の部屋ですわ」
久緒は信次の眼を強く見かえした。
「なんだって?」
信次は戸惑うような顔をした。
「聞えませんの?」
久緒はいらいらとして叫んだ
呆然とした、間の抜けたような、信次の顔がそこにあった。(p170~1)
この引用にある「久緒は炎の鮮やかな朱色を、終末の—–」はこの時の彼女の心理を鋭く表しているので後に取り上げる。さて、上記の引用である。これを読めばだれしも久緒の言動に不自然さを抱かざるをえないであろう。米軍の爆撃機が至近の上空に達している最中に、生後六ヶ月ほどの乳飲み子をわざわざ茶の間の奥の寝室へ寝かせたのが、久緒である。このことだけ一つを取り上げても、久緒は、不可解を越えて非常識な行動に出ている。一般の読者なら誰しも、“久緒という女はいったい何を考えているのだ”と思わざるを得まい。彼女は洋平に乳をたっぷり飲ませて、防空頭巾を被らせている。ここまでは、赤子に対する母親らしいこまやかな配慮といってもよかろうが、爆弾の炸裂音が急速に信次の住まいへ迫ってきた時、久緒は赤ん坊を部屋に寝かせたまま、非常持ち出しの防空かばんを両手に持って、夫を追って防空壕へ向かったのである。久緒は、寝室へ寝かせたままの洋平の存在を忘れてしまったとでもいうのであろうか。米軍の無差別攻撃の最中に、わが子を部屋へおいたまま母親が逃げ出す、こんな事は通常ではありえない。いかに危急の際とはいえ、自分の子を忘れるほど久緒の気が動転していたのだろうか。「語り手」は、久緒が防空壕へ逃げる前に、赤ん坊に乳をふくませ、頭巾をかぶせたとはっきり書いている。久緒が前後を忘れるほど空襲に怯えていた、とは考えられない。
久緒の不可解な言動はさらに続く。信次が「洋平はどうした」と聞いたとき、「洋平ですか。奥の部屋ですわ」と答えた。その時に、久緒は「信次の眼を強く見かえした」と「語り手」は記している。「語り手」は久緒の行動が、ある“確信”に基づいている点を示唆している。
この緊急時に、洋平に関して、事態はさらに危険な方向へ進む。しばらく作品にそって読みすすもう。
「あなた、行ってください」
落着きはらった自分の声が、そのように命令するのを、久緒ははっきり聞いた。(中略)
「縁側はもうだめだな」
どこから入るべきかを思案しているらしい信次の、防空ズキンで二倍ほどに膨れあがった頭の形が、黒く立っている。
「応接間の窓から入れば」
久緒は近づいていき、そう言った。
「何でもないじゃありませんか」
久緒は信次の背中を右手で強く押した。信次は振りむいた。
「あんなに可愛がってらしたじゃありませんか」
「———」
「洋平が焼け死にます。あなたは助けにいかないのですか」
「———」
信次は何か言いそうに口許をうごかした。いまは凶暴な眼附きは消えはてていて、まるで音もなく慟哭してでもいるような眼差しで、信次は久緒を見つめているのである。
「君は」
そう口ごもった。
「何ですか」
久緒は冷たく言った。
「それを、それを、望んでいるのか」
「早く、早く。話をしている間なんかないのよ」
久緒はふたたび信次の背中を強く押した。(171~2)
B29の直撃弾によって信次の住まいは炎上している。屋根を支える支柱に火がまわって、屋根が崩落しかかっている。もはや手のほどこしようがない状態になっている。そのことを、久緒も信次も十分分っていた。にもかかわらず、久緒は信次に命令する、「あなた,行ってください」と。炎にあおられてためらう信次に対して、久緒はさらに「何でもないじゃないの」と、信次の背中を強く押したのであった。繰り返すまでもあるまいが、部屋に取り残された洋平を救う術はもはやないのである。それを分っていながら久緒は信次に“火中へ飛び込め”と命じたのである。引用文にあるように、信次は死を覚悟して炎の中へ飛び込んだ。法律に弱い筆者には刑法について深く論ずることはできないが、久緒の行為はおそらく「未必の故意」に由る殺人であろう。
ここで本節冒頭の筆者の問題提起へもどる。久緒はなぜ赤ん坊を部屋に置きざりにしたのだろうか? 久緒はなぜ救出不可能となった火炎の中へ夫を追いやったのだろうか? 久緒の一連の不可解な行動はどう解釈すればいいのだろうか。そして、常識をはるかに越えた異常な行動をする久緒をとおして、作家は一体何を描きたかったのであろうか? 上記の二つの引用や本編全体の流れから推測して、二つの仮説が可能であろう。一つは、久緒の終末意識である。他は久緒のサディズムである。「語り手」は久緒の終末意識について記している。
久緒は炎の鮮やかな朱色を、終末の華麗な色彩というふうに意識しながら見つめていた。(170)
ついに破局がきたんだわ。あれほど私が待ち望んでいた破局。猛火と轟音とがいま私をおおいつくして、私の存在をゼロにしてくれる。私が自分で自分の命にとどめをさす代りに、世界の破局が私の命を終らせてくれる。(同上)
これが、爆撃によって炎上する自分の家を見ながら久緒を捉えていた意識であった。久緒は米空軍の低空爆撃によっておびただしい数の死傷者が出、街全体が焦土と化しているこの惨状を、「終末」と見ているのである。「終末論」はキリスト教のそれがよく知られている。終末論は世界および人類の究極の運命に関わる教説である。キリスト教ではイエスが人類の罪の救い主とされ、イエスの再臨時が終末と考えられている。終末の時地球上に一大天変地異が起こり、人類の善悪に対する神の審判が下され、義人だけが終末後の新しい神の国=千年王国に召され、悪をなした者たちは大火のなかへ投ぜられる(良い実を結ばない木は、皆切り倒されて火に投げ込まれる。—マタイ福音書— )。
久緒には大坂の街が炎上し、多くの人が死傷する様相は、罪ある者の神による審判と映ったのであろう。そしてそのことは、彼女にとって悦ばしいことであった。米軍の爆撃が激しければ激しいほど、人びとの罪に対する神の怒りの激しさが現わされていた。しかも次の点が重要である。久緒が見る終末の業火は鮮やかな色彩をもった華麗な火炎なのであった。彼女は終末を人類が受けるべき大きな試練として受けとったのではない。彼女は終末を「華麗な」美としてみている。彼女の終末意識には審美感がみてとれる。久緒の終末意識には、神の審判の後に現われる「神の国」に関する期待がない。人びとの悪行に対する神の怒りの激しさを久緒は、「ついに破局がきたんだわ。あれほど私が待ち望んでいた破局。猛火と轟音とがいまに私をおおいつくす」と語っているが、破局の後に立ち現われるはずの新しい神の国については、彼女は沈黙しているのである。このように久緒の終末観を考えれば、夫・信次と子・洋平を死へ追いやった久緒の行為は一応筋が通る。つまり二人は、久緒によって終末の儀式を飾る生贄にされたのであった。はたして、この解釈がどこまで正しいのか—-。
だが、この解釈には無理があるようだ。なるほど久緒は終末・破局という言葉を用いてはいるし、ここからキリスト教の終末論を想起するのは自然ではある。しかし、秋庭久緒とキリスト教はどこで、どのように結びついたのであろうか? 彼女が信仰心の篤いキリスト者だったという記述は、これまでのところない。「語り手」はこの場面で突然、「終末の華麗な色彩」を持ちだしたのである。夫・信次と子・洋平が終末の儀式の生贄にされた、と言う解釈は短絡すぎる。
では第二の論点、久緒のサディズムはどうであろうか。「語り手」はこれまで久緒のサディズムについてかなりな言及を重ねてきた。また作家も、プロットの構成に留意しながら久緒のサディズムを強調した(cf;拙論稿「第一章」ブランコのエピソード)。
筆者はサディズムやマゾヒズムを人性に悖る反道徳とは認識していない。人、だれしも濃淡の差はあるが、加虐・被虐の性向を内包している。この意識は社会経験や教養等によって差があろう。特に時代の転換期、あるいは危機の時期には、この意識は顕在化する。ただしサディズムが他者に対して攻撃的であったり破壊的であった場合は、事情は異なる。久緒のサディズムはどうであったろうか。彼女のサディズムの特徴を確認するために、本文から一つだけ引用をしたい。以下の引用は、先に筆者が引用した「洋平はどうした」と叫んだ信次と久緒の会話のなかで、筆者が省略した部分に相当する。火災現場で信次の存在をうとましく思っていた久緒は、
ああ、この人、まだ私のそばにいるのね。私のそばにいないで欲しいとあれほど言ったのに。私のそばに存在する者は、誰であろうと、そばに存在するというそのことだけで、私の憎悪をまぬがれることはできないのよ、とあれほど言ったのに。(p170~1)
猛火に包まれて轟音とともに崩落する信次の住まいを目の前にして、洋平の安否を訊ねた信次に、久緒が示した反応が上の引用である。「ああ、この人、まだ私のそばにいるのね」、「私のそばに存在する者は、誰であろうと、私の憎悪をまぬがれることはできない」というこの激越な心の叫びはどうであろうか。夫であろうと子であろうと、肉親であろうと恩師、恩人であろうとも、久緒の視界内にいる者は久緒の憎悪の対象にならねば済まないし、それ故に、彼女によるなんらかの精神的・肉体的な加害行為から逃れられない。久緒の「憎悪」すなわち彼女のサディズムが夫と子を死へ追いやったのである。
彼女が少女時代からサディズムの性向をもっていた点は論証しておいた。当面する火災現場の久緒をみると、その憎悪が対象に向かう残酷な攻撃、破壊を伴っているのがわかる。小学校時代のブランコ事件のときでも、高女時代の偽手紙事件でも彼女の憎悪には攻撃性があった。だが今回は、自分の夫と子供を焼死させるのである。彼女は周囲の人びとと常に対峙し、つねに社会と敵対している。彼女の内面生活は憎悪という悪によって絶えず緊張を強いられている。「つねに私自身の(行動の)ばねであった加虐」と、久緒は言っている。その緊張が信次・洋平の場合、米空軍により爆撃で一層激成されて、ついに夫と子を殺すにいったのである。
この時、すなわち彼女の攻撃本能、破壊本能が満たされたとき、彼女に性的快感がなかったとは言いきれまい。加・被虐と性的快感がデリケートに絡み合っているのは周知のことである。久緒が炎上する大坂の市街を「終末の華麗な色彩」として見ている以上、そこにエロスが絡まないわけはない。俗っぽい言い方をすれば、“ああ、これは何て美しい光景なんでしょう、うっとりするほど美しい!”と彼女は見ていたであろう。ここに、性的エクスタシーが伴ったと見るのは自然である。しかし第一の事件では、サディズムとエクスタシーの絡みについて、作家は触れていない。第二の事件(嬰児誘拐)ではこの点がしっかり書かれている。
本節冒頭の筆者の問題意識へ戻る。秋庭久緒が夫と子を焼死させた理由を、彼女のサディズムに求めることは、久緒の性格や言動からして納得がいくし、本編の流れにも沿っている。焼死させた理由を、終末意識に求めるよりもはるかに説得力がある。だがこれで問題がすべて解決したわけではない。焼殺の理由を久緒のサディズムに求めたとしても、なぜ彼女のサディズムが最愛の夫と子を殺すほどに激烈であったのか、久緒が抱えていたはずの内面の苦悩が、本編では語られていない。「偽手紙」事件(本拙論第一章参照)の場合も、久緒のサディズムには他者に対する攻撃性が著しかった。しかしこの事件は羨望,妬み、独占欲などが絡み合った思春期の少女によく見られるいわゆる「シスター」トラブルにすぎなかった。久緒のサディズムが向かった対象は2~3人の女子高生であり、実害が生じたとしてもそれは青春の一齣として忘れ去られる程度のものであった。
夫と子を死に至らしめた今回の事件は、「偽手紙」とは次元が違う。夫と子を久緒は殺したのである。彼女の内面に余程深刻な苦悩が蓄積されていなければ、これだけの大事件は引き起こせない。秋庭久緒の心中を領した精神的な苦悶、懊悩等は、一体なんであったのか—-? 本編ではそこが語られていない。本編について全てを知悉しているはずの「語り手」も、その「語り手」の背後にいる作家も、そこは沈黙している。そして、沈黙しているがために、焼死事件は久緒のサディズムによって、突然起こったという印象をまぬがれがたい。
この場面での秋庭久緒の“突然”には、大方の読者が戸惑うのではなかろうか。なぜ彼女はこうまでしなければならなかったのか、そのところが分らないのである。作家が秋庭久緒の内面を語らないかぎり、この事件は読者に生々しく迫ることはできまい。なぜ作家は久緒の内面を描かなかったのか。拙論の筆者は作家の“若書き”より、端的に言えば作家の創作技法の未熟さにあったとみている。
本章冒頭で触れたように、この作品が刊行されるまでにはいくつかの経緯があった。本編は作家がまださかんに同人誌に短編を発表していた1964年ころ執筆された。刊行されたのはおよそ十年後の1973年(作家41歳)であった。したがって既述の「渺茫」(70年発表)や「ロンリー・ウーマン」(74年発表)より先に書かれている。筆者の推論になるが、同人誌時代の作家の未熟さが原因となって、秋庭久緒の内面の苦悩を欠落させたのである。そして、作家の未熟さとは、基本的には作家の“悪”をみる思索の不十分さ、認識の甘さに由る。
人が生きてゆくためには、動植物を殺して食さねばならない。仏教の殺生戒が唱道される所以である。人は罪を負うて生まれる、これがキリスト教の原罪の基本義である。すなわち、存在すること自体が悪であるという認識に至ったとき、悪は宗教的な、哲学的な次元へ昇華される。この次元において悪は、個別の対象から開放される。秋庭久緒の「悪」は、言い換えれば語り手=作家の悪の認識はこのレベルに達していない。久緒の憎悪が発現するには、夫と子を必要とするし、戦争末期という時代の危機を必要としたのでる。悪についての語り手の認識の甘さが、秋庭久緒の内面の苦悩を描きいれなかった原因である。
“突然”へ話を戻せば、作家は“突然”という手法をたびたび用いている。自分の感情が、考えが突然変わる、あるいは自分を取りまく環境、社会相が突然変わってみえる等はわれわれが日常よく体験する現象である。われわれにとって“突然”の究極の形態はひとの死であろう。高橋たか子という作家は計測不可能なひとの思考や行動、換言すれば生の不条理を、非日常的な場面転換によって描こうと努めているらしいが、本編では成功しているとは言いがたい。この点については、次章でも若干触れる。
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