絵画空間と対話性
- 2016年 4月 10日
- カルチャー
- 髭郁彦
東京ステーションギャラリーで開かれているジョルジョ・モランディ展に行く。「同じ言葉であっても、それが繰り返されたときには、もう同じ意味のことが語られてはいない。」正確なフランス語は覚えていないが、パリ第五大学教授だったフレデリック・フランソワはおよそ20年前、言語学の講義の中でこのように述べていた。初めて見るモランディの絵を前にして、フランソワのこの言葉が思い出された。モランディの作品が、同一性、差異、類似性という問題を喚起させたからである。
1890年にイタリア北部のヨーロッパで最も古い大学がある都市ボローニャに生まれ、1964年に死去するまでそこを離れることがほとんどなかったモランディ。彼の作風について、「ジョルジョ・モランディが特定の流派に属しているとは明確に断定できないが、セザンヌの作品に大きな影響を受けている。たとえば、形態の荘厳さや濃密な色彩部分はセザンヌに近い。この画家は芸術的本質への接近を展開している。極めて洗練された形態的感覚に導かれ、彼は現代風の様式を鑑賞者の目に呼び起こしながら、色調とデッサンの微妙な繊細さを彼の描く風景や静物にもたらしている」とフランス語版ウィキペディアの解説箇所の冒頭には書かれている。それが正しい評価かどうか、美術専門家ではない私に、はっきりとは判らないが。私にとって問題であったのは、モランディ作品の半数以上を占める静物画における対象としてのモノの存在性の問題であった。
モノの存在性
モランディの静物画には、花瓶、水差し、燭台、壺といった同じ物体が繰り返し描かれている。しかし、この「同じ」とは一体何であろうか。「同じ」という語はある事象の同一性を示しているが、実際にはその同一性がいかなる側面から語られているのかは問われていない。「同じ」という言葉の反意語である「違う」に対しても同様のことが述べられる。生物に比べて無生物はその存在の同一性が確実であるように思われている。原理的には時間と共に変化しないからである。変化しない即自存在であるモノはその存在意味を問うことがなく、他のモノを見つめることもない。だが、モノが存在している世界は不変ではない。また、モノは存在の意味を問い、それを見つめる主体と対峙しなければその存在性を問われることはない。世界内存在という古典的な概念は主体と世界の関係から語られる場合がほとんどであるが、モノと世界との関係からも語られる必要性がある。同一と見なされたものも、見つめる主体の前で、同じであると同時に異なっているのだ。
さらに、モノ自身の同一性が堅固なものであったとしても、世界は変化する。モランディは仕事部屋に置かれた作品のモチーフとなるオブジェの上に溜まった埃を払うことを禁じていたという。不変であるはずの物体に刻印された世界の変化の痕跡を見つけ出すためだろうか。同一性の神話は脆いものだ。同じモノと言った瞬間、われわれはその対象が安定しており、いつまでも変わらないと信じているが、それが存在する空間と、それが同一だと信じている見手が時間と共に変化してしまう以上、モノの不変性が保障されている訳ではない。この事実を確認するには、ある対象の上に知らぬ間に溜まった埃を見るだけ十分であろう。同一とは変化を抱えた同一であるが、もしもあらゆる差異を認めれば、存在の条件は砕け散り、存在の基盤は破壊される。だからこそ、差異の中にある同一性が要求される。同じモノが同じではなく類似しているだけにしか過ぎなくとも同じであると信じる必要がある。
ベンヤミン、バフチン、モランディ
岡田温司は『モランディとその時代』(人文書院、2003) の中で、美術批評家のアルカンジェリの仮説に依拠しながら、モランディが同一のオブジェを連作的に描く場合であっても、「形成されたフォルムの極」と「不定形なフォルムの極」との弁証法的な展開を提示すると述べている。対象の形態が具体的であるか、抽象的であるかによってテーゼに対してアンチテーゼが対立させられ止揚するという定式からモランディの作品を解釈することも確かに可能なのかもしれない。だが、こうした正統的な弁証法のみを彼の作品展開に見出そうとするならば、岡田がこの本の中で何度か提示している過去の歴史を救済するために語られたベンヤミン弁証法は、モランディの作品とは無縁なものとなってしまうのではないだろうか。モランディの絵に論争的 (ポレミック) な弁証法的展開を発見しようとすることには大きな問題があるように思われる。なぜなら、ベンヤミン弁証法はマイナス要因の中にプラス要因を段階的に探りながらレベルチェンジしていくものであり、対立による進歩というポレミックな展開を示すものではなく、事象の多声的 (ポリフォニック) な側面の探究だからである。それゆえ岡田もモランディ作品を語るためにベンヤミン弁証法を用いたはずである。モランディの絵はポレミックではなくポリフォニックなのだ。
ポリフォニーは、あらゆる言語活動が対話的であると主張しているバフチンの理論を支える根本概念である。「空間的にも時間的にもお互いに隔たっていて、お互いに何の接触もない二つの言表が、意味的に対比されることによって、また、何らかの意味的収斂があるときに (テーマや観点がわずかに共通するだけかもしれないが) 対話関係が現れ出る」というバフチンの言葉を思い出そう。ここにはベンヤミンの述べている過去の歴史の救済に連結するベンヤミン弁証法と交差したポリフォニーの問題が示されている。このポリフォニーという概念は言語記号だけに関連する問題ではなく絵画記号にも深く係わる概念であり、絵画的ポリフォニーの実践をモランディの絵の中に見出すことは可能なのではないだろうか。「形成されたフォルムの極」と「不定形なフォルムの極」への揺れは、描かれた対象が対立し止揚され本質へ向かうというものではなく、ポリフォニックな展開としてのモランディのモノとの絶えざる対話を表しているのではないだろうか。
換入による意味生成
「現実以上に超現実的で抽象的なものは何もないと思う」とモランディは1955年のインタビューの中で語っている。この言葉は次のような考えを呼び起こす。モランディの静物画に登場するモノは先ほども述べたように机の上に置かれたその多くがセラミック製の器で、色もほぼ単色であるといった類縁性を帯びている。だが、連作の静物画を比較するとよく判るが、描かれた対象の位置が少しずれたり、明度が少し変わっていたりしている。その差異の提示は換入による音素の決定のような働きをしているように思われる。モランディの絵画制作がまるで有限な単位から無限の意味を組み立てていく作業に見えたのである。
換入は言語学における基本単位である音素や記号素を決定するために用いられる重要なテストである。おおよその手続きを示せば、たとえばフランス語において、[ bal ](球)~[ mal ](悪) という最小対は、語頭の [ b ] と [ m ] のみを換入することによって、二つの音連鎖の差異が意味の違いという別のレベルの差異を生むことを示している。この作業の結果から、各言語の音的単位つまりは非意味単位である音素が導かれる。音素はラングの最小単位であり、共時的に見て、言語ごとに音的特徴が固有で有限個であり (その数は言語ごとに異なり、多くても三十程度である)、音素が連続することによって無限の意味単位が生成されていく。ただそこにある即自的な存在から意味を表す形態へ、モランディの静物画の中に描かれた対象の位置や、色調や、タッチなどのわずかな違いは、換入作業を思い起こさせる。弁証法的に本質に向かうのではなく、有限個の基本単位を抽出し、その単位を連続させ、差異化することによって多彩な意味を構築していく。モノとのポリフォニックな関係から導き出される意味の広がりは、このように作り出されていくのではないだろうか。
同じモノの反復は同じモノの単なる繰り返しなのではなく、差異の出現である。だが、われわれは無数にある差異の枠組みの中で、しばしば、差異よりも類似しているということに焦点を合わせ、同一性の中に安住することを望む。モランディ展を見終えたとき、「本当のものは目には見えないんだ」というフランスの実存主義作家の言葉ではなく、「目に見えれば何だって描ける」というモランディの言葉が強く響いてきた。彼の絵画制作はモノローグ的行為ではなく、ディアローグ的行為なのだ。私はそう確信した。
初出:「宇波彰現代哲学研究所」2016.04.08より許可を得て転載
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