眩く灼熱を歩いたのだ ――『空の果てまで』――(2/2)
- 2016年 4月 13日
- カルチャー
- 藤倉孝純
*4/10掲載の第1章~第3章までに引き続きこの4章以下をを掲載しました(編集部)
地 獄 を さ ま よ う 魂
――高橋たか子・洗礼まで――
目 次
【Ⅰ】 作家の特徴 (4/5掲載分)
―『渺茫』によって―
【Ⅱ】 わたしが真犯人なの――?(4/7掲載分)
―「ロンリー・ウーマン」―
第一章 乾いた響き
第二章 なりすまし
第三章 「それは私です」
【Ⅲ】 眩めく灼熱を歩いたのだ(今回掲載分-第4章~第5章/第1章~第3章は前回掲載)
―『空の果てまで』―
第一章 エピソードいくつか
第二章 哲学少女
第三章 第一の犯行
第四章 第二の犯行
第五章 火急の自分
【Ⅳ】 心性への侵犯(次回掲載予定)
―『誘惑者』―
第一章 言いようもない
第二章 私、不安だわ
第三章 ロマンのかけらもない
第四章 なんでもできる
第五章 詰襟の学生
【Ⅴ】 自分探しの旅路
―「奇妙な縁」―
第一章 老女るりこ
第二章 出会い
第三章 幻影
第四章 羽岡フレーズ
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第四章 第二の犯行
誇大で虚偽の大本営「戦勝」報道を信じ込まされていた民衆にとって、大日本帝国陸海空軍の崩壊(1945年8月)は激烈な衝撃であった。天皇制イデオロギーとファシズムが瓦解した後、人びとは自力で自分の生活を支えなければならなかった。食料、住宅、医薬品をはじめとしてすべての生活必需品が欠乏していた。人びとは死に物狂いで一日一日を生きてゆかねばならなかった。その反面、戦後の混乱が、戦中では見られなかった活気を与えたのも事実であった。人びとはボロ服を着、髪を振り乱し、やせた真っ黒な顔で焼け跡を掘起こして小屋を立て、食料を求めて田舎へ買出しに出かけ、駅周辺の闇市にむら群がった。秋庭久緒にも事情は同じだった。小額の手持ちの現金はとうになくなっていた。銀行預金は預金封鎖(インフレ抑制の為一定額しか金融機関から引き出せない)で、思うようにならなかった。久緒は僅かに残った女物の衣類や信次の蔵書を売り払ってどうやら暮らしていた。
ある日、彼女は夏草が丈高く伸びた電車の線路道を一人歩いていた。どこへ向かって歩いているのかもわからないままに、坂を登り、橋を渡り、行き止まりの道を迂回して線路に沿って朝から歩きとおした。夕方近くになって見慣れた街並みを見て、彼女ははじめて自分が実家へ向かって歩いているのに気づいた。
「あんた生きていたの—-」と青黒く痩せきった母親が驚きで卒倒せんばかりに久緒を迎えた。高血圧でときどき倒れる父親は「—–で、洋平は達者か?」、「ご亭主はどうした」と訊ねた。二人が焼死したことがわかると、老父母は嗚咽をこらえながら、奥の部屋からアルバムを取り出し、信次と洋平の姿に見入った。アルバムを手にしてしみじみと話し合っている両親を見て、久緒は突然母親へ「帰るわ」と立ち上がった。「ここで暮らすつもりで戻ってきたんでしょう」とすがりつく母親に、「(いずれ)ハガキ出すわ」と言って、台所にあった大きな握り飯を手にして、そのまま昼来た電車道を戻ってしまった。過去の思い出にすがりついてかろうじて生きている両親のみじめな姿に久緒はショックを受けたのだ。それから大坂郊外で、久緒の天涯孤独な暮らしが始まった。次の引用はその時の久緒の心境を示したものである。
大坂郊外の、焼けのこった屋敷の納屋を借りて、久緒は一人で暮らしていた。何のために生きているのか自分でもさっぱりわからない。だが家が炎上した時、あれほど破局 というものを待ち望んでいた時、その中で自分の存在をゼロにできると思った時、あの時でさえ、炎のなかに飛びこまなかったのだから、いまさら死ぬこともあるまいと思った。(p208)
そうだ、たしかに家が焼け落ちようとしていた時、久緒は「世界の破局が私の命も終わらせてくれる」と自死を願ったのであった。だが引用で明らかなように、彼女は生きのびた。「何のために生きているのか」という久緒の自問には、それ故に敗戦後幸いにも生きながらえた人びとは異なった、格別に重い内容が含まれていたはずである。たびたび繰りかえすように、彼女は夫・子を焼死させた人間である。何のために生きるかという自問の重みは、二人の無念な思いを背負っている。戦後の彼女には、後悔のあまり自殺という選択もありえたかもしれない。あるいは罪を悔いて宗教活動に専念する選択もあったかも知れない。秋庭久緒には、二人を死なせて、なおかつ自分が生きつづけねばならぬ内的必然性がなければならなかった。少なくとも、生きつづける必然性が自覚されていなければならなかった。さもなければ久緒のあの時の行為は、一時の激情にかられた狂気の殺人にすぎなくなる。しかし作家はその内的必然性をここ(本編六章)では展開していない。無意識のうちに実家へ足を向け、老父母の無気力な生き様に落胆して帰阪する、情緒的な久緒を描くだけでは不十分なのである。久緒が何故いま生きるのか、その理由を久緒の深層心理まで分け入って解明しなければならなかったはずである。しかし作家はそこを描かなかった。そこを描く代わりに「いまさら死ぬこともあるまい」と一言語り手に言わせて済ませてしまった。これは、作家の手抜き、いや“敗北”といっても過言ではない。
久緒の生きる内的必然性が明らかにされなければ、第二の犯罪(嬰児誘拐)の意味も曖昧にならざるをえない。以下、第二の犯罪について検討しよう。
秋庭久緒は敗戦の翌年、昭和二十一年夏、浮浪者でごったがえす大阪駅で偶然、落合雪江に会った。雪江は結婚して姓を「野々村」と換えて、赤ん坊を抱いていた。彼女は食糧難が厳しい都会を避けて、夫の実家の田舎で子育てに専念しようと列車に乗りこむところであった。久緒が慌しい雑踏のなかで立ち話だけで済まそうとしたとき、雪江は「買出しにいらっしゃるなら、主人のとこへいらっしゃい」と言葉を添えながら、郷里の住所と略図を書いたメモを渡してくれた。その後、久緒はメモをスカートのポケットに入れたまま忘れていたが、八月末に物々交換の必要に迫られて、「メモ」を頼りに混雑する無蓋貨物列車に乗って、雪江の実家へ向かった。
駅を降りると目的の家は探すまでもなかった。野々村家はこの土地では名望家で知られていて、広大な家屋敷があった。久緒は武家屋敷風の門をくぐり、長くのびた石畳にみちびかれて奥へ向かった。植え込みが終わったところ、庭に面して広々とした部屋があって、赤子を寝かせつけている落合雪江の後姿が見えた。久緒の来訪に気づいていない雪江はか細い声で子守唄を口ずさみながら赤ん坊を寝かせつけていた。久緒は植え込みの脇からその様子を眺めていた。その情景を語り手はこう記している。
戸外から入っていく白い光がその部屋のなかにも漲りわたっている。巨大なシャボン玉のように光が膨れあがって、その透きとおる一つの球体のなかに、母親と赤ん坊との、あまりにもひっそりとした姿が包みこまれている。縁側のところで風鈴が鳴っていた。りんりん、りんりん、と微風に揺らいで、その澄んだ音が光のシャボン玉をかすかに震わせる。
久緒は植込みのわきから長いあいだ眺めていた。闖入していくことがはばかれるほどの密やかさが、その光景をしめていた——(p212)
まるで真空のようなけだるい静謐なひと時のなかで、母子が安らいでいる。イエスを抱く聖母マリアの名画を思わせるような穏やかさではないか。赤ん坊が寝付いたのであろう、ややあって雪江は奥の部屋へ姿を消した。久緒は雪江が出てくるのを待つつもりで、縁側まですすみ、そこへ腰掛けた。午後の強い日射しのなかで、油蝉だけが間のびした感じで鳴いていた。手持ち無沙汰なまま、久緒は物々交換のために持ってきた和服を見ていた。すると、赤ん坊がむずかりだした。赤ん坊が布団からはみ出ていた。久緒は布団へ戻してやるつもりで、部屋へ上がり、赤ん坊を両腕に抱き上げた。眠った子は意外と思えるほど重く、生温かく感じられた。
その瞬間、久緒にとって眼の前の風景が一変した。穏やかな午後は一気に消失してしまった。
ふと久緒は、そのままの恰好(=両腕に子を抱えた—-筆者)で、前方に眼をあげた。縁側のむこうには、庭つづきの広い空地が、真上から射す陽を浴びて、鉱物のように光っている。その眩しい白さが、久緒の眼球と競り合うように、迫ってきて、眼の前でぱあっと砕ける。灼けた地面は大きく拡大していくようにみえる。
久緒はそれをじっと見つめていた。もしこのまま歩きだしたらどうだろう。子供を抱いたまま、あの赫いている地面の拡がりの上を、どこまでも歩いていったなら。もしそうしたなら。(p213~4)
なぜ風景が一変してしまったのだろうか? 作家は何の説明もしていない。この作家は他の作品においても、淡々と推移する日常を突如、非日常的な状況へ飛躍させることを多用してきた。それがあたかもシューレアリスムの一技法でもあるかのように。当該箇所の場合、久緒が寝ていた赤ん坊を両腕にかかえて立ち上がった瞬間、久緒の目の前にある光景が劇変したのである。作家が久緒の心理の変化を説明しないのだから、読者がそれぞれの思いに基づいて久緒の心境の変化を補足する以外にない。
白い光にひっそりと包まれて自足している母子の様子に、久緒が嫉妬したのではない。語り手も子を慈しむ雪江に久緒が「羨む気持ちは毛頭なかった」と記している。焼死させたわが子・洋平を思い出して気持ちが動転したのだろうか? 第一事件では洋平への言及はない。久緒の感情の激変は、このような個人的なレベルに由るものではなかったろう。筆者の想像であるが、母と子が充たされたなかで憩う日常の情景に対して、久緒はこの時敵意を抱いたのではあるまいか。久緒が雪江の子を両腕にかかえて立ち上がった瞬間、日常性に埋没する凡俗に対して、さらには、日常性への埋没を可能にさせる自然の整然たる運行に対して激越な敵意を抱き、それを破壊したいというサディズムに駆られた、と筆者は読みたい。サディズムを介して見た外界の光景こそ、真夏の太陽が大地を灼き、灼かれた大地は遠く、空の果てまで続く荒野と化したのである。本編表題「空の果てまで」はこの荒漠たる大地のイメージと呼応している。
久緒は子を抱いたまま庭へ降りた。熟睡している子を風呂敷に包み、両手に捧げ持つようにして、外へ一歩、二歩と歩きだした。久緒は太陽に灼かれる大地の幻影にとらわれたまま、雪江の家を離れた。灼けつく大地をこのまま「どこまでも歩いていったら、もしそうなったら」、私はどのように変貌するのか、世界はどのように変貌するのか—-。この場面での久緒を、作家は渾身の力をこめて描いている。この場面は素晴らしい! この作品の優れている点は、こうした部分であろう。いっさいの分別の埒を越えて、自己の情念だけを頼りにひたすら突き進む激情—–。次の引用はこの部分を書く作家の激しい息づかいまで伝わる気がする。
灼けた金属の板のようなものがどこまでも続いている。その扁平な拡がりが、果てしない面積ごと、足許でぐらりぐらりと傾く。熱い。熱くて辛いのか、熱くて快いのか、けじめがつかない。赫く反射が眼に覆いかぶさってくる。すべてが有り得ないよう光度できらめいていた。久緒は一生懸命に歩いていく。そんな自分をたえず意識しながら歩いていく。酔っていても醒めている。(p215)
灼かれた大地の照り返しが久緒を灼く。熱くて辛い。熱くて快い。エクスタシーが久緒の心身を領した。久緒はこの想念にとらわれて、このこと以外のすべてを亡失した状態で、街へ向かった。—–嬰児誘拐はこうして起こった。
嬰児を連れ帰った二日後、久緒は子を始末する決心をした。夜になるのを待って、焼け残った工場の水のない用水槽へ子を置いた。これで、日常性に埋没している凡俗に対する一連の復讐劇はサイクルを閉じた。子を捨てて放心のまま、納屋の土間に坐っていると、引き戸の外に誰かいるらしい気配がした。久緒が戸を開けると、見知らぬ老婆が大きな風呂敷をかかえて立っていた。老婆は聴き取りにくい声で、呪文でも唱えるかのように「育てなはれ、育てなはれ」と繰りかえした。
さっきなあ、わてはタマといっしょに歩いとったんじゃ、タマが泣くんでな、食うもんもないし、タマは泣くと、歩くほか仕様もないわいな、そしたら、あんたがこの子を置いて、去っていくのが見えたでな。
老婆は戸外の方へ首だけまわした。
「ちょっちょっちょっ、そうかいな、タマがきたんか」
と気ぜわしそうな嬉しさをこめて言う。
みにくい猫が老婆にすり寄ってきた。下駄にそって足をひとまわりすると、足の甲の上に小さくちぢまった。老婆は久緒に向きなおると、また呟き声をたてはじめた。ずっと以前にうちへ迷いこんできたんでな、ちっとも去りよらんのでな、食うもんもないけど不憫がかかるわいなのう。
「さあさあ、あんたの子じゃ」
老婆は子供をさし出した。
月が雲の裂け目にあらわれたのか、老婆の背後では闇がてらりと明るんでいた。納屋の外の、広い空地には、高く伸びた雑草がその明かりのなかで茫漠と白んでいた。(p218~9)
さて、この老婆の出現は、なかなか興味深い。受洗以前の高橋たか子は西欧的な論理の明晰性を追及した作家であった。明晰判明な論理の追及の最後に何が残るのか、何が現われるのか、これがこの作家の創作のモチーフの一つであった。先に言及した「渺茫」では、男女が生々しい性の営みを拒否して清浄な明るみのうちに存在を保つ時、人々に何が出現するかを確かめようとした。「彼方の水音」では、人がすべての苦悩を越えて堅固な物質にまで至ったとき、真の生命がえられるのであろう、と作家は語った。本編、『空の果てまで』では、エゴイズムを極限まで拡大した時に我々に何が起こるのか、作家はそこを見定めようとしている。
—–ところが、この老婆は西欧の論理とは無縁なところで生きている女性である。老婆の風貌を確かめるためにいささか長い引用になったが、老婆の猫によせる深い愛情には誰しも心惹かれるであろう。「——タマが泣くんでな、食うもんもないし」、「——食うもんもないけど不憫がかかるわいなのう」と呟く老婆には、何のために生きるかを問う前に、ひたすら生きとし生けるものをいとおしむ心情が温かく語られている。肥大化する自我の欲求が、他者との間に不断の緊張を生み出しながら展開する本編の人間模様のなかで、この老婆の登場は読む者にほっとした安らぎを与える。老婆の「育てなはれ、育てなはれ」という呪文は、土着の生活に自足した老婆の口から発せられて初めて意味を持つ。この老婆、実は一人息子は戦争にとられて死に、周囲の者とも死別して孤独な一人暮らしなのであったが。
この場面についていま少し想像力を働かせれば、この老婆は地蔵菩薩の化身であるかもしれない。引用に、赤ん坊を抱いて久緒の前に立ったとき、「老婆の背後では闇がてらりと明るんでいた」と記してある。老婆は光背を帯びて、子とともに久緒の前に現われたのである。六道の苦界に迷妄する衆生を救う地蔵は子供の救済に篤く信仰されている。「育てなはれ、育てなはれ」と唱える老婆の口調には、久緒に対する非難や叱責はない。人として努むべき情理を朴訥に告げているにすぎない。
地域社会の底辺で土俗の伝統に即して生きる老婆は、高橋たか子の作品にときどき登場する。たとえば、初期の作品「子供さま」(『彼方の水音』所収)では、ワラシさまの祠を巡礼してまわる顔の真っ黒な老婆が二人でてくる。「相似形」(同右)にも他人の心を見抜く慧眼の老婆がでてくる。社会の底辺で伝統や因習によって生きる女たちは、高橋文学のなかでどのような位置を占めるのであろうか。先に触れたように、高橋は個我の確立を目指す女性を追求した作家であって、土俗を素朴に受け容れて自足する女性たちとは縁遠いと思われるのだが、注目されるのは、高橋が老婆たちを一様に肯定的に描いている点である。近代と前近代はこの作家の内部でどのように整合していたのであろうか。作家がこのような老婆に主役を与えた作品を、管見にして筆者は知らない。
秋庭久緒は野々山雪江から奪った子を、老婆の猫、「タマ」にちなんで珠子と名づけた。久緒の住まいは母屋のわきに建てられた納屋にすぎず、夏は風呂場のように蒸し暑く、冬は氷室にひとしかった。赤ん坊の肌着もミルクもなかった。日に日に黒ずんで痩せていく珠子に、久緒はヤギの乳を求めて街はずれまで通った。敗戦後の社会混乱が「幸い」して、久緒は場末の開業医から出生証明書を得て、役所への入籍を済ませた。こうして、珠子との生活が始まった。子育ての初めのころ、久緒は赤ん坊に暴力を振るった。虐待のなかに快楽を見いだした時期もあったが、それは自然と収まった。木綿問屋へ勤めたのが縁で、久緒は問屋の社長から借金をして、手持ちの金と合わせて京都の郊外にアパートを一棟建てた。現金収入の道が開かれて久緒の暮らしはようやく安定した。
しかし、久緒と珠子の間にはいつもしっくりと行かないものが続いた。珠子は小学校で友達が作れないまま、いつのまにか“ひきこもり”になってしまった。六年生の時には、珠子は二週間も家出をした。幼少の時期には、久緒の狂気によって育てられた珠子であったが、珠子を連れもどした時には、「この子とはもう離れられない」としみじみ実感した久緒であった。曲折の多かった二人に徐々に平穏な暮らしが始まろうとしていた。珠子は十四歳、久緒は三十三歳になっていた。かつては、灼熱の太陽によって熱く焼かれた地面を一歩一歩踏み歩いて、自我を追求した久緒であったが、今は、庭先を見る久緒の目は穏やかであった。
第五章 火急の自分自身
珠子との間にいくぶん穏やかな暮らしが始まったとしても、友人の乳飲み子を拉致して、いささかの後悔も示さない秋庭久緒に魂の平安があろうはずはない。事件は彼女の心に大きな負担になっていた。とくに、誘拐した児を「実子」として育ててきた珠子の存在は、久緒を毎日、毎日が事件へ向きあわせる日々であった。“あの事件は私にとって何であったのか”という問いは、常住坐臥彼女の心を苛んだ。毎日の散歩の折々、彼女は遠くまで延びた道筋に見とれることがあった。
久緒は或る場所に立って、どこか遠くにまで通じているような気配のある道を眺めるのが好きなのだ。これまでの半生に、通りなれた場所から或いははじめて通る場所から、そんな道をよく眺めたものだった。道があらわしている、なにか遠く密やかなものを、懐かしんだものだった。だが道の気配をじいっと眼におさめるだけで、それを奥までたどって行ったことはない。いつも火急のものが待っていたからだ。火急のもの、それは久緒にとって自分自身だった。(p4傍点、筆者)
“火急のもの、それは自分自身だった”、この点にいささか拘ってみたい。ここに、秋庭久緒という人間の特異性が凝縮しているように思われるからだ。
その日も久緒はなにがなし想いを胸に秘めながら、午前の遅い散歩に出かけた。毎日通いなれた道である。なだらかな登り坂の先に、近頃有名になった寺院の山門がみえる。晩秋の曇り空にもかかわらず、今日も幾組かの人が寺を訪れていた。久緒が杉や松でおおわれた参道を見やった後、再び歩きだそうとした時、女の子を連れた久緒と同年輩の女性が山門から出てくるのが眼に入った。少し派手な和服の色合いや物馴れない足の運びから推して、どうやら参詣を済ませて戻るところらしい。
久緒はゆっくり坂道をのぼっていった。女の子をつれた婦人はおりてくるので、双方の間隔はゆるゆると縮まってくる。大きな塊が奇妙に揺れうごくような感じが、久緒の心の奥から漂いでてきた。しかと定めがたい記憶の塊が、頭に満たされた粘液のようなもののなかで、ぬらりくらりと揺れうごく。たしかに誰かに似ている。(小略)
久緒は胸のなかで小さな叫びをあげた。足許の地面から、濡れた土の、みずっぽい植物的な匂いが強くたちのぼってくるのを、一瞬、嗅ぎとった。
「落合さんでしたね。あなたは落合雪江さんではありませんか」
久緒は婦人が五、六歩前まできた時、正面から見据えるふうにして、そう言った。
婦人は近視の人がよく見ようとする時のように、すこし眼をほそめ、それから、そのうっすらと憂いがかった眼差しをやわらげた。
「ああ、あなたは」
口ごもったまま、婦人は久緒に物やさしい顔をむけている。
「秋庭です」
久緒は正確な声で言った。
「秋庭さん—-そう、秋庭さんね」
落合雪江はわきにいる女の子の頭を機械的に撫でながら、思い出せて安心したというふうに頬笑んだ。
「おひさしぶりでございます」
久緒は感情をおさえて言い、かるくお辞儀のかたちをした。
「ほんとに何年ぶりかしら」
「十三年になります」
久緒はふたたび正確な声で言った。
雪江はすこし驚いたような眼をし、それからまた元の、ふんわりした物馴れた頬笑みへとうつっていった。(p5~6)
十三年前、昭和二十六年夏に、久緒が雪江の夫の実家、野々村家を訪ねて、乳飲み子を拉致した事件は既に述べておいた。世の中でこの誘拐を知る者は、久緒ただ一人であった。実家では白昼赤ん坊が行方不明となったので大騒動が起こった。家族はもちろん近所の人たちたちも総出で、村の一軒,一軒を訪ねまわり、草の茂み、小川や溜池まで探した。警察も出動した。しかし赤ん坊はどうしても見つけることができなかった。敗戦直後、地主と小作の利害が鋭く対立する農地改革問題がどの地方でも紛糾していた。土地の名望家、野々村家がその方面で何らかの恨みを買ったのではなかろうかという憶測が語られた。わが児を失った雪江はショックのあまり心の病に陥り、回復するまでの数年間苦悩の日々を送ったのであった。
秋庭久緒と旧姓落合雪江は十三年ぶりに、思いもよらぬ場所で出会った。本編「空の果てまで」は、この再会場面が第一章の冒頭におかれている。久緒がいかなる経歴をもった、どんな生活をしている女性であるのか、雪江がどういう人間なのか、二人はどんな間柄なのか等々の説明がなにもないままで、二人の再会が読者にいきなり示される。ちなみに、七章からなる本編の各章に筆者なりの見出し(本編に「見出し」はない)を要約ふうにつければ、次のようになる。
第一章;久緒と雪江の再会、久緒、自宅への招待、珠子と晴子
第二章;久緒の少女時代の回想、2~3のエピソード
第三章;雪江からの電話、二度目の二家族会合
第四章;久緒の女子挺身隊時代の回想、久緒の結婚、夫と子の焼死
第五章;雪江からの長文の手紙
第六章;二十六年夏、大坂駅頭での二人の出会い
第七章;久緒と珠子の和解の暗示
お気づきのように、奇数章が作品中の「現在」、偶数章が久緒の「回想」という章立である。この構想は「現在」と「回想」を交互に繰りかえすことによって、久緒の心理の異常な緊迫性を描き出そうとした作家の苦心であったようだが、読者にとってはいかにも読みづらい。というのは、読者には内容の点で関連が見つけられない「過去」と「現在」とが、奇数章と偶数章としてじかに繋がっているからである。その実例を上の引用文から示そう。落合雪江を参道で見つけた久緒は、
—–胸のなかで小さな叫びをあげた。足許の地面から、濡れた土の、みずっぽい植物的な匂いが強くたちのぼってくるのを、一瞬、嗅ぎとった。
前半部分(小さな叫び云々)は前後の文脈から自然に理解できよう。なにしろ十三年ぶりの友人に気づいたのだから、心の中で“あっ!”という叫びをあげるのは無理なかろう。ところが後半部分(みずっぽい植物的な匂い云々)はどうであろうか。雨に濡れた道端の雑草が突然、久緒の嗅覚を強く刺激したのである。雪江を認めた瞬間から久緒の全感覚が異常に鋭敏になったことを、作家はここで言いたかったのであろう。しかしこの部分をはじめて読む読者には、なぜ久緒がそうまで緊張せねばならないのか理解できない。全編を読んだ後になってもう一度ここへ立ちもどると、事情が納得いく。十三年前に赤ん坊を誘拐されたたその当の母親が雪江なのであるから。
もう一例示そう。第一章冒頭一行
雨はあがったが、空は白く沈鬱である(p3)
「雨はあがった」は客観描写であるから、誰しも受けいれられる。だが後半「空は白く沈鬱—-」はどうであろうか? これは本編「語り手」(より正確には作家)の主観が捉えた久緒の心象風景である。作家は第一章で3回も同じ情景を語って、久緒のただならぬ精神状態を強調しているが、読者の方はなんの情報もないままに、作家が描く久緒の心象風景を読まされることになってしまう。これも全編を読み終えて、はじめて「沈鬱」の言葉の重みが分るのである(中村真一郎vs高橋たか子対談 本編差込付録参照)。こうした作家の手法は読者をいたずらに混乱させるだけで、文学的効果は期待できない。この点を考慮して筆者は本拙稿では、秋庭久緒を時系列で追う形で批評を試みた。
さて、十三年ぶりの再会場面へ戻ろう。
場面は薄い霧がかかったような晩秋の午前である。華やかな紫の和服を着た女性に眼をとめた久緒が、「あっ」と胸のなかで声を上げた。作家が意図して書いているのでわれわれも注意して読まなければならないのだが、久緒と雪江は出合いがしらにばったり出会ったのではない。出合いがしらの邂逅なら避けようがないが、かなり間隔をおいて久緒は落合雪江を認めたのである。気づいたこの時、久緒には、雪江との邂逅を避けたいという心理が働かなかったのであろうか? 雪江の子を拉致して「実子」として育ててきた久緒には、自分が犯した重大犯罪を心中深く秘匿しておきたいという気持ちが働くのは、自然の情理というものであろう。先方が久緒にまだ気づいていない“今”なら、久緒は物陰にそっと身を寄せて、先方を遣り過ごすことも可能だったはずである。雪江と対面するとなれば、思い出したくもない忌まわしい自分の過去をいやでも思い出さざるを得まい。—-となれば、雪江に会わずにおいたほうがいい。いやむしろ、あの和服の女性は雪江ではなかったのだ、と自分自身へ言い聞かせた方がより無難であろう。人間、四十歳近くにもなれば、こうした分別は当然ありうる。こうした分別なくして、どうしてこの世の辛酸を長きに堪えられようか。
だが、久緒はそうはしなかったのである。久緒は五、六歩まで近づいた雪江に、「落合さんではありませんか」と自分の方から声をかけた。しかも雪江を正面から見据えるようにして正確に言ったのである。ここに、秋庭久緒という人間の「火急な自分自身」が露骨に表れているではないか。久緒には雪江に対する後悔の念も謝罪の意思もない。ここにあるのは久緒の「自分自身」、つまりわが児を失った雪江がどんなふうに“私に応対するのかその様子を見届けたい”という、極めて陰湿で下劣なエゴイズムがあるにすぎない。
再会の場面をさらに追う。
久緒は母親の雪江に言うのではなく、雪江が連れている小学校四~五年になる女の子(晴子)へ向かって、
「うちはすぐ近くですのよ。ちょっとお寄りになりませんか。お嬢ちゃん、うちにももうすこし大きな娘がいますから」(p10)
と言った。久緒は,避けることも不可能ではなかった雪江との出合いだけに満足しなかった。雪江親子を自宅へ招待して、「実子」として育ててきた珠子に引きあわせようと思いついたのである。しかもその招待は、「ぜひともきていただきたい」という強い口調であった。ここにも、久緒のエゴイズムが露骨に出ている。再確認は不要であろうが、雪江親子と珠子が実の肉親であるのを知っているのは、久緒以外にいない。久緒だけがその秘密を握っている。久緒はその秘密の陰に隠れて、雪江親子と珠子がどのように対面するのか、その様子を見たいのである。いや、もっとはっきり言ってしまえば、三人の対面がどのような情景をともなって展開するのか、その様子を愉しみたいのである。この企てには、他者の内面世界を覗き見したいという不潔な心性がある。ここには、他者の内面世界へ泥足で踏み込もうとする卑しいサディズムがありありとしている。
筆者は第三章で、信次(久緒の夫)と洋平(二人の子)を死へ追いやった久緒の行為を検討して、彼女の「悪」を世界の終末と関連させて論じた。この立論が妥当か否かは先輩諸兄姉にお任せするのだが、筆者は久緒の悪を形而上学的次元において解釈しようと努めてきた。二人を焼死させたあの時の久緒の熱狂と比較すると、この再開場面での彼女の卑劣さはどうであろうか。なんの落度もなくて乳飲み子を奪われ、ようやく平穏な生活になじんできた雪江を珠子と引き合わせることは、雪江の心を弄ぶことになる。ここには、哲学も宗教もない。あるのは、久緒の個人的な“悪意”だけである。秋庭久緒の「火急な自分自身」とは、おおよそこうした内容なのである。
ここで作家について一言言っておいた方がよかろう。秋庭久緒というアンチ・ヒロインを創造して、徹底したエゴイズムがいかなる悲劇を生むにいたるのか、そこを見極めたいというのが作家の創作イデーであったろう。そのイデーには賛同できる。しかし、秋庭久緒のような特異な女性を、人間類型の一つとして文学のなかに定着させるには、よほどの大きな構想もった大河小説が必要ではあるうまいか。
再会の場面のクライマックスは以下のように記されている。
二階の客間にいる雪江と晴子(雪江の第二子)に、久緒と珠子が茶菓子を持って上がった。出窓になった南側の障子を透して晩秋の日射しが部屋を明るくしていた。雪江が顔を上げて久緒と視線が合ったと、久緒には思われたのだが、雪江の視線は久緒を越えて珠子へ向けられていた。母親に促されて珠子がぎごちなく「いらっしゃいませ」と一言言って、テーブルから身を離して坐った。
そんな珠子を、雪江は何も言わずに、眼を細めるふうにしてじいっと眺めている。
障子紙に濾されてつたわってくる日射しが、部屋いっぱいにけだるいほどの仄白い明るさをひろげていた。それが雪江の色白の顔を、さらに漂白したような色合いにしていた。そのためか雪江の顔は、白昼夢でもみているように、ぼうぼうと曖昧にかすんでいく。なにか顔全体がたえまなく蒸発していくかのようだ。そんな気配を、久緒は凝視していた。雪江が何か言いだすのを、息を詰めて待っていた。
一瞬のことだったのかもしれないが、途方もなく長い時間に思われた。一瞬のなかに、久緒は一つの深淵をかんじる。それを早く渡りきることを望んでいるのか、渡りきらないことを望んでいるのか、けじめがつかないままに、辛いような快いようなその一瞬を受けとめた。
「どうかなさいましたの?」
久緒は雪江がいつまでも黙っているので、相手を揺さぶるような口調で言った。
「ちょっと頭がふらっとしましたの。障子をとおした光って、なんだか妙に明るいですね」(p20)
雪江はじっと珠子を見つめている、珠子に挨拶を返すのも、久緒へ言葉をかけるのも忘れて。仄白い部屋の明るさが雪江の顔の表情を曖昧にさせている。—–と言うより、作家はあえて雪江の表情の変化を記さない。障子越しの明るさにことよせて、作家は雪江の顔の表情だけでなく、この場の雰囲気全体を「ぼうぼうと曖昧」にしてしまっている。作家は久緒にだけ焦点を合わせて記述を進めていて、雪江に関する描写は最低限にとどめている。こうしたところに、作家の視野の狭さを感じないわけにいかない。すこし不自然な沈黙が流れた。沈黙を破ったのは久緒であった。久緒の気遣いに雪江は、「ちょっと頭がふらっとして」と応えた。雪江はこのとき軽い貧血でも起こしたのであろうか。
作家は、珠子を見つめる雪江の顔の変化も、心の動きも記述しないままに再会場面の筆を進めている。だが、この瞬間、すなわち雪江が珠子を見た瞬間、雪江には“はっ”と胸を衝かれるような思いが無かったのであろうか。十三年前のこととはいえ、自分の腹を痛めて産んだ子を目の前にしたこの時、閃きに似た直感に雪江は胸打たれなかったのであろうか。あらかじめ筆者の判断を示しておけば、雪江が珠子を見た瞬間、「なぜだろう、この娘さんにはどこか不思議な—–」という思いが無かったはずがない。そのところを、珠子と晴子の動きによって論証してみよう。
珠子は親子としての心の通い合いがないまま久緒によって育てられた。そのため母親のいるところではいつも、萎縮しているか無気力でいた。雪江・晴子が訪れたときも、珠子は学校の制服を着たまま茶の間にじっと坐っていた。母親に「お客様にご挨拶してください」と促されて、母親とともに雪江がいる二階へあがっていった。物おじしたぶっきらぼうな口調で「いらっしゃいませ」と言った珠子には、来客にたいする関心はなかった。親同士二人があれやこれやの話に集中している間、珠子は晴子を誘って自分の部屋へ向かった。雪江が帰り支度をはじめるまで、子供二人は珠子の部屋で「よりそって頭をならべて」植物図鑑に見入っていた。家庭でも学校でも平生他人と打ち解けることのない珠子には、これはついぞないことであった。珠子は晴子を見るとすぐ仲よくなり、二人は少女らしい会話に夢中になったのである。この二人の少女は会った瞬間から、うまが合うというのか、言葉で言い交わす必要もないままに、またたくまに親しくなってしまった。言うまでもないことだが、作家がそのように意図して書いている。
再会のあった数日後、先日参詣からもらしてしまった寺々を見学に「もう一度ご一緒いただけたら—-」という雪江の申し込みが久緒にあった。その折雪江は「珠子さんもごいっしょにね」、「晴子が楽しみにしていますので。珠子さんが大好きなんですって」(p97)と重ねて頼み込んだ。ここで、二家族四人が寺の庭園を散策した様子は省略する。散策の後、珠子は晴子に樫の実を拾いに行こうと言った。四人はタクシーで近くの山裾まで出かけた。日ごろから閉じこもりがちで会話の少ない珠子が、自分から話を切り出すのはこれまでにないことであった。勝手知った珠子が晴子の手を引いて坂道を駆け上がっていった。娘たちはわずかな間にそこまで親密になっていたのである。この親密さはたまたま気が合った偶然さ故なのだろうか。それとも人としての本能がどこかで働いた所以なのであろうか。
上のように珠子と晴子の親密さを確認しておいて、再び雪江が珠子を見た瞬間の場面へ戻ろう。
軽い貧血でも起こしたのか雪江が「ちょっと頭がふらっとしましたの」と言った後、久緒は、一人娘でなんとかここまで育ててきましたと、改めて珠子を雪江へ引き合わせた。
「十四?」
と、雪江はぼんやり呟いた。まるで微笑でもしているような、悲しみのこめられた眼差 で、珠子をあらためて見つめる。
「十四ですか。あの子も生きていたら、ちょうどそのくらいになっていますでしょうに」
雪江はそう言って、やっと視線を久緒にむけた。(p21)
二人の子供たちは親密さをましている。くどいようだが、作家は意図してそのように書いている。それにひきかえて、雪江の反応の希薄さはどうしたものなのか? 雪江は「悲しみのこめられた眼差しで」珠子を見た。珠子をみて雪江はどんな印象をもったのか、どんな感じの子として珠子を見たのか? だが、雪江は珠子に関して何も言っていない。二人は上の引用のあとすぐ昔の話へ移ってしまう。珠子に対して、雪江にはなにか感ずるところがなかったのだろうか。参詣帰りの途中十三年ぶり会ったにしては打解けない久緒の対応ぶりに雪江は気づいていたし、久緒と珠子の母子らしからぬぎすぎすした間柄にもすぐ気がついた。こうした雰囲気を雪江は敏感に感じとっていた。そんな雪江が、自分の腹を痛めて産んだ赤ん坊をわずか数ヶ月の短い期間とはいえ育てたのに、珠子を見て何の感触も持たなかったというのは、あまりにも不自然であろう。
テレビ・新聞等で中国残留孤児の対面場面が賑わすことがある。肉親と生き別れて二十年、三十年経った後、対面会場で会った瞬間に、「あっ、お前」、「お兄ちゃん」と言って抱き合う再会場面はいくたびか報道された。この場合、会った瞬間に相互に直感が働き、生き別れた肉親であることが当人同士で確認される。DNA鑑定等はその直観を科学的に証明するにすぎない。雪江と珠子の場合、珠子には母親の記憶がないから相互の確認は不可能であるが、雪江はわが児を失ってからわずかに十三年しか経っていない。その分雪江の記憶は鮮明なはずである。珠子を見た時、“どことなく晴子に似ているところがある”とか、“首筋から肩へかけての線は夫の野々村に似ている”といった程度の感触があっても不思議ではあるまい。しかし、雪江はなにも語らない。作家が雪江に語らせないのである。
筆者は再会場面での雪江についてくどく書きすぎたかもしれない。だがこの場面は、この小説の最大の山場をなしている。と同時に、この小説の根幹をなすプロットでもある。一人の女が、友人の子を誘拐し、その子を「実子」として育て、十三年後に実の母親に引き合わせたが、その後その女にはなにごともなく平凡な日が続く、そして女は半年後に「完全犯罪の円環は閉ざされた」(p251)と読者に告げる—–,これは、筆者にはあまりにも不自然すぎてありえないこと、としか考えられない。プロットに無理がありすぎる。筆者は第一章で久緒の「偽手紙」事件をコメントして、そのプロットが成立しない点を明らかにした。本編作品の根幹をなす誘拐事件もプロットとして成立しない。作家が雪江になにも語らせない以上、本拙論で不成立を直接論証できない。それに代えて、筆者は珠子と晴子の親密な関係を傍証として挙げておいた。
作家はこの作品を創作するに当たって、まず、このプロットに関心を寄せたのではあるまいか。最初にプロットの設定があって、次いでプロットに合う物語を考え、最後にその物語に適した諸人物を配したのではあるまいか。諸人物の動きが狭く、硬いのはそのためであろう。創作のイマジネーションが溢れるほど湧き上がって、諸人物が躍動するあまり、プロットの枠を突き破ってしまうような生き生きとした諸人物の動きが、ここにはみられない。アンチ・ヒロイン、秋庭久緒を介して“悪”を見つめる作家の創作イデーには、筆者は先に一応賛同を記しておいた。悪の追求は、近代文学の普遍的な課題の一つであるが、しかしこのテーマを追求するには、『空の果てまで』の世界は、あまりにも狭すぎる。この作品では秋庭久緒以外の人物は、点景をなす役割しか与えられていない。そのため秋庭久緒を相対化する人物がいない。悪の追求という大きなテーマにはさまざまな性格と生活と思想を持つ諸人物が織りなす人生ドラマが必要であろう。出来上がった作品は、狭小にすぎた。これも、作家がプロットに固執したためである。
作品全体を一語で、“生硬なでき”と評しておこう。
最後に、久緒と珠子のその後の様子を記して、本拙稿を終える。
雪江親子との対面が無事に終わった後、久緒はこころなし珠子に優しくなった。おそらく久緒に心の余裕ができたのだろう。翌年の春のある日、久緒は裏山へ登った。草木が芽吹いていた。中腹で一休みしていると、珠子も登ってくるのがみえた。二人は頂上に立って、京都の市街を見下ろした。珠子が「春あさく 水ぬるむ 小川の波に、」と歌をうたいだした。久緒もそれに合わせて歌った。永い、永い「火急の自分自身」の追及の果てに、久緒に、今、魂の「平安」が訪れたらしいことを示唆して、この長編は終わっている。
作家は最後にハッピー・エンドを用意して筆を擱いた。しかしながら、しかしながら、夫・子を焼死せしめ、友人の嬰児を拉致して育て、事件の秘密を一人胸中に深く隠しているこの女に、魂の平安があるであろうか。あろうはずはなかろう。そして、あってはならないのだ! 秋庭久緒は人倫によって永遠に罰せられねばならないのだ。作家はこの女を、灰色に塗りこめられたうつろな空間を永劫に、『空の果てまで』歩ませるために、本編を書いたのではなかったのか。(了)
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