北一輝と二つの龍巻―中国革命と2・26事件(現代史研究会用レジュメ-補足修正版)
- 2016年 4月 20日
- スタディルーム
- 古賀暹
はじめに
北一輝の研究は様々な形で行われてきたが、それらの研究は北を超国家主義者として扱かう視点からのものであり、彼の姿を捉えたものとは必ずしも言うことが出来ない。私は前著『北一輝―革命思想として読む』に於いて、この点について思想の問題として明らかにしてきたが、この報告においては、具体的な、北の政治活動や彼の実生活について考えて見たいと思う。
しかしながら、彼の日記などの具体的な史料が残されているわけではなく、私たちに与
えられている事実は断片的である。そのため、それらの事実を繋ぎ合わせつつ、そこから
北の姿を浮かび上がらせねばならない。この作業は、本来ならば、想像力の世界でしかな
し得ないことであるが、今回のレポートは、事実を明らかにしつつも、それを、どう繋ぎ
合わせるのかという私の仮説を提示することにしかならないだろう。
敢えて、そうしたフィクションとも事実とも定かでない仮説を提示するのは、皆様のお
知恵をお借りしたためである。ここで、あらかじめ、私の問題意識を提示しておくと、次
の三点に集約されると言える。
1、多くの北一輝研究では、中国革命にかかわった北一輝と『改造法案』、2.26事件へと向かう北一輝の活動は分断されて捉えられている。しかし、中国革命において活躍した北と2・26事件に向かっていくさまざまな彼の活動の間には、連続性が存在したのではないか?
2、北は神がかりの日蓮宗徒であるとされるが、彼の理論と日蓮宗の教義との関係はあまり問題にされていない。唯一、北が、神がかったカリスマ的指導者だとされる根拠は『霊告日記』くらいである。―北の思想と法華経・日蓮宗との関係は?
3、巷に流布されている北への誹謗は財閥に財政的な援助をされていた。だから、北は財閥の手先であったという考え方であるが、財閥援助があったとしても、その「援助」なるものがなになのかついて触れたものは少ない。―北は帝国主義の手先なのか。彼の資金源はなになのか?
第一章 北一輝の中国革命参与と黒龍会(内田良平)との関係
竹内好によると、北一輝は、黒龍会と左翼(片山潜、幸徳秋水ら)の間を動揺していたというが、そうではない。黒龍会派に対する警戒の念をもって、北は、宋教仁、譚人鳳らと手を組んでいる。(興中会、華興会、光復会の聯合と分解)
中国革命に対する北の立場、態度
イ、辛亥革命の路線と現実
孫文の外国依存―武力革命路線に対して自力革命―大衆を基盤路線にした革命路線を対置。
『革命方略』(孫文)「軍政―訓政―憲政」と辛亥革命の現実。「訓政期に於いては、県自治の成立を先にし、国家機関の成立を後にすべきであるにも係らず、臨時約法においてはこの順序が転倒している。其の誤謬たるや真に救うべからざるものである」(中国革命史、孫文全集下巻)
ロ、日本と中国
軍部ならびに内田良平ら黒龍会の路線、「大ローマ主義」路線との相違
北一輝は、対ロ防衛(満州)、中国革命支援の路線で一貫している
清藤幸七郎宛「国家の中心点たる年少者が日本的思想を有し、日本的風采に化し、日本的行動をとりつつある。だから、『新興国に対して侮りが見えたら最後、日本はボイコットされるのだ。永久的にボイコットだ』内田宛も同様。
『支那革命外史』においては、南京落城に際して次のように言う。「最も熾烈な大ローマ主義者内田君書を送り以て憂国の情を訴えざる得ざりし。、、、日本何ぞ、独り史上永遠の覇ならむ。国運の盛なるに驕りて、、、慢態驕姿、戒める所を知らず、殆ど亡清の後を追うが如くなるは何ぞや」
これらの事実から見ると、北一輝がコスモポリタンとナショナリズムの間を動揺していたとする竹内好説は誤謬。北に於いて、日本的思想、日本的行動について説明されている箇所は殆どないに等しい。
ハ、『支那革命外史』は内田良平一派に対する決別宣言
二、21箇条の要求と北一輝・吉野作造
山東半島問題に対する吉野作造
「既存利権と云ふのは、従来独逸が山東省に於て有して居った利権を言うのである。此利権は、戦勝の結果として、将来日本が独逸と平和条約を結ぶに際し、必ず承継すべきものであるが、それに就いては支那政府の承認を得る必要がある。一体普通の考え方から言えば、講和条約を結んでから、支那の承認を求めるのが普通である。、、、、」
黒龍会系、中国の完全な保護国化が目標
北一輝、 譚人鳳、大隈重信会談を設定
ハ、第二革命―宋教仁暗殺後の反袁闘争・・・敗北、亡命
陳其美(上海)、黄興(南京)、李烈均(江西省)、譚人鳳(湖南)、柏文尉(安徽省、孫文系)、譚延闓(元立憲君、湖南省)、胡漢民(広東)、善後大借款反対
二、第三革命―袁世凱の帝制打倒
孫文;中華革命党を東京で組織。党首孫文の命に絶対服従の鉄の規律。黄興
に入党を再三依頼するが拒否される。党員300と言われるが、中国
国内における勢力は陳其美のみ。吉野作造の『中国革命小史』によれば、
「孫文の傍に怪しげ人物がいる」と言われ、人気がない。
黄興;黄興はアメリカに去って直接に指導はしないが、中国人同志と連絡をとっている。時事研究会―緩やかな文化・政治両面にわたる連絡組織
李根源、章士釗、蔡元培、陳独秀、岑春煊、胡適ら。蔡元培は章炳麟とともに入獄した人、北京大学学長となり5・4運動、新文化運動(陳独秀、劉少奇)。蔡鍔,唐継堯(雲南省)、陸栄廷らと連絡を取る、かつての立憲君主制派とも提携。
ホ、孫文の広東政府、護法政府、章炳麟、干右任(宋教仁直系)、張継らも参加、軍艦で上海を出港(第一艦隊) 北も賛成
第二章 法華経と北一輝
イ、北一輝は法華経を信仰するが、「吾、日蓮の門徒に非ず」としている。井上智
学や石原莞爾らとの相違。 日本中心主義ではない。
ロ、北は法華経信仰の動機を自ら明らかにしていないが、理論的には、章炳麟の
『五無論』との関係に注目すべきだと考える。また、心情的には宋教仁の暗殺も一因だろう。
章炳麟の『五無論』は小乗仏教の立場に立つもので、世界の無に至るものとして、共和国の建設を位置づけ、ついで、村落の無へといたる仏教的アナーキズムである。北は、章炳麟と幸徳秋水を結びつけようと試みるが、章は近代的アナーキズムとあわない。 北一輝の日蓮宗の見直しは、章炳麟との対話のなかで始まった。章炳麟とは、光復会の中心人物であり、反孫文派の急先鋒であった。孫文に対する怒りは激しく、彼が日本を去るや否や、党首室に残された写真を引きははがし、香港に送ったほどである。
その章炳麟の言っていることを私なりにまとめると、
「君の考えも、幸徳さんたちの無政府主義も僕に言わせれば、徹底していないと思えるのだよ。君は、たしか、あの書の中で、機械文明が更に発展していけば、食料さえも、鉱物から採れるようになり、我欲がなくなり、いずれは、無政府共産の幸せな世が訪れ、人間は神に近い『類神類』になるというようなことを言っていたよ」「仏教の哲学思想から見ると、実在する者はないんだよ。国家や政府は、我欲を持つ人間たちが作り出した幻想にしか過ぎない。君も書いているだろう、小さな集落が他の集落を征服し、次第に、大集落、国家を形成したことを。進化論的に言えば同化だよな。その同化の結果、どうなったか、争いは拡大し帝国主義的な大規模な殺戮になっていったじゃないか。その基本には人間の我がある。これを絶滅しない限り、真の幸福、涅槃はやってこない。われわれは有の世界の只中にある。その有の世界の論理を用いて無に近づく。それが、共和制。そして、無政府、無集落、ひいては無人類、無世界の世をめざすわけだが、そのためには、共和制を有の世界の中で実現しなければならず、次に、無集落―無政府ということになる」(五無論の要約)
北の図式と正反対。北の場合、実在の人格である国家、それの聯合、世界政府、人類の神類化。
「わが友北輝次郎はかつて化学が日に日に精密になれば、人々は鉱物をまぜて飲食することができ、動植物は勝手に自ら生きることができる、排泄の道や性交の道が断たれるところまで進めば、人は天神と変わらなくなる、と期待した」(章炳麟、305)「法が貌を与えて、五作根が洞穴を開き枝茎をのばすので、振りたてて欲望をとげねばおさまらない」、「我見」
ハ、北の『国体論及び純正社会主義』は、人類が類紳類に近づくのであって、 神になるまで進歩を遂げる進化論である。
ニ、法華経の議論では、序品編にあるように、世界のあちらこちらに教えを説く仏が立ち現われる。それが教えをそれぞれ説くことにより仏の世界へと導こうとする。北の類神類論への近似性、ならびに、一国主義ではない。
ホ、仏教については、禅宗の自力成仏論、一向宗などの他力本願論があるが、法華経の場合は、仏と菩薩と縁覚や独覚の三者の区別が存在する。他力、自力で救済される存在と菩薩・仏の相違。声聞、縁覚、独覚などは、仏的世界に目覚めた入門段階。次の段階は他者のために尽す菩薩〈宮沢賢治「雨にも負けず」〉段階(依他起性)。その次が仏。
ヘ、釈迦牟尼仏などの仏は永久存在。入滅はしない。他の経典との相違。他の経典は方便。
昭和4年9月16日「方便にて進め」10月「方便と書きて握れる手首」 昭和6年9月18日「海に上に城現はる。一城づつ現はれて消ゆる。後虹現はる。其処動くな 鉄舟」(満州事変が起こった日)
ト、方便論と依他起性論。空論
チ、北一輝の国家改造法案は方便論の一種か? 化城論に近い
リ、『零告日記』について。死刑判決の根拠として利用されている。北のカリスマ化と関係がある。
第三章 西田税の登場と略歴
イ、西田税(1901)明治34年、生まれ。北一輝(1883)明治16年。18歳の差。鳥取県米子出身。
大正3年(1914)小学校卒業。広島陸軍地方幼年学校に進む。
大正7年(1918)9月陸軍中央幼年学校(士官学校予科)。
大正9年3月卒業。同年、4月士官候補生として羅南の騎兵第27聯隊(上等兵)勤務、三好達治
10月 陸軍士官学校入学
大正11(1922)年 7月卒業、秩父宮とひそかに会合
8月、羅南騎兵隊に見習士官 10月、騎兵少尉に任官
当時の士官学校、6,5,2,2制度。一般(6,5,2,3制)、(陸軍大学校は隊付き将校の後に入学)
大正13年7月 広島転任のため羅南を去る
大正14年3月 秩父宮來陰。松江
5月 肋膜炎を理由に依願予備役となる
ロ、西田税が大陸問題に目覚めたのは、中央幼年学校時代(17-18歳)。初期は単なる愛国的アジア主義者であったが、北一輝との接触、羅南での朝鮮体験が彼に変化をもたらす。(雑誌「日本」における二つの論文。中国人士官学校生徒の21カ条批判、朝鮮問題)
A、「彼(中国人留学生)は言う―日本政府、日本人民、皆な貧乏である。貧乏人、、、野心ある。日本人、唇歯輔車、日支親善叫ぶ。目的、利権ある。二十一箇条条約的證拠ある。中國それ恐ろしい。中國国是、遠交近攻決定已む得ざるである。日本人さとらない」、、、、西田の付言「実に此の学生の言う如く、二十一箇条の不法出鱈目なる強要が、如何に支那人の脳裏に排日心を刻み込んだかは、今更論ずる要のない明白な事実である。死んだ大隈は当時首相であったが、新聞記者団に対して唯々一言「要するに支那をとるんであると喚いたそうだ。然も時の外務卿として直接局に当たれるもの、実に今の首相加藤高明子である。」
B,朝鮮問題
西田の朝鮮問題に対する見解は、北と同様に朝鮮のおかれている地理的関係、文化的堕落を取り上げて日韓合併を止む得亡きこととするが、日本の朝鮮支配の実情を踏まえて憤りに満ちたものとなっている。
「不肖は、在鮮五年長からず雖も、所謂不逞鮮人の巣窟と言わるる」地に身を置いたことがある。
「今や大多数の鮮人は生活の不安になやまされつつあり。彼らは、、、家宅財物を若干の旅費に換へ、老幼相いいたわりつつ日々幾群となく或は日本内地に向け或は満州に向け或は関島西利亜方面に向けて、殆ど流浪に等しき旅に上がる。不肖の在住せし咸北辺陬に於てすら清津の港頭を是くの如くにして波上に漂ひ去る」「外の侵入者によりて齎されたる生活の不安よりして墳墓の地を、、、何たる悲壮ぞ」
「土地開発請願書が、後れて提出されたる日本人に何ら正当の理由なくして先ず許可せられ、先に提出せる鮮人に不許可となしたる幾多の事例。一事業企画するも鮮人に対する日本官憲の態度は、、、残酷無道。対等の係争も常に鮮人の不利に終る驕暴。― 一鮮人が是くの如くの事実を泣いて不肖に憤叫したる、、、」
「ガンジを印度の救世主なるかに礼賛する日本人は何故に独立運動に心命を捧ぐる鮮人を志士として崇敬せざるか」
「西洋人とし言はば無二無三に盲拝死、、、、亜細亜人に対しては疎外と軽侮の念を寄する反動的誤謬」
ハ、秩父宮から宮中の事情を聴いていたものと思われる。反宮内省、反牧野伸顕、反大川周明
二、2・26事件直前の西田
「赤字公債の増発は国家破産であると云う。この国家とは現状維持派の国家権力のことである。彼らの経済的思想的組織―今日においては所謂資本主義―が破産しても日本その者は破産せねばならないほど彼等と同一ではないのだ。滅ぶるのは資本主義経済組織に立つ彼等の財政である」(大眼目=相沢公判の頃に出された機関誌)
第四章 北、西田とさまざまな「恐喝」事件
イ、安田共済生命事件 朝日平吾の安田善次郎暗殺事件
大川周明と北一輝の不仲の直接的理由、皇太子妃問題による山縣有朋の没落と牧野伸顕派(薩摩派)の台頭。大川は牧野伸顕に接近、大学寮。安田共済生命事件は牧野―大川グループへの北一派の挑戦
ロ、15銀行事件 宮内省が多額の預金をしている銀行の不正貸し付け問題。この銀行は二年後に倒産
ハ、宮内省怪文書事件(西田税が主導)この間、料亭で2カ月あまりも北は「豪遊」。その理由は?
これらの事件は、反大川―牧野からはじまり、宮内省、君側の奸への直接的攻撃とし考えら
れる。
第五章 北一輝と蒋介石の北伐
イ、北一輝は政友会、民政党の対立を煽って、地主とブルジュアジーとを対立させ、革命の機会をうかがっていたという見解(矢次一夫)がある。少し、穿ちすぎ。
ロ、北一輝―森恪、小川平吉(鉄道相)ら政友会。昭和4年10月1日「獄窓、小川平吉氏の悄然たる顔、格子の外より法華経を入れる。」 同年10月18日「獄中、小川氏の顔、法華経を開き居る。」
昭和7年9月30日「森かく氏の平癒を祈る」-「妻の頭を病む不思議を語り合う時。朝早朝森家より電話。病状報告」
―永井柳太郎、中野正剛ら民政党
ハ、大正14年12月 孫文北京で死す。蒋介石と北一輝の関係
蒋介石は孫文とは陳其美を介して接触した。陳と北との関係(支那革命外史) 蒋介石は、7回も孫文の政策に対立して、職を辞している。
「民国以後の第二、第三革命で、先生は日本がわが党を助けてくれると考えられ、対日外交に重き点をおかれたが、日本は袁世凱を助けたではないですか。1918年に、先生は海軍を率いて南下された時は対米外交に重点をおかれた。しかし、広東では部内が紛糾して統一せず、これに乗じて英国が妨害を試みたが、少しも頼りにならなかった。ソ連の国内団結は・・・」(宮崎世龍、遺稿集)
大正15年1月20日、広州で蒋介石のクーデター、
7月 国民革命軍北伐開始
昭和2年 9月28日―11月7日、蒋介石、張群を伴って来日、田中義一と会
談、不調に終わる。
田中義一と東方会議、中国分割、植民地化路線。吉田茂の意見書
「他国領土に国力の進展を企画するに当り、相手方国民官民の好意のみ訴えて成功せる例あるを知らず。、、、、相手方に不評なればとて躊躇逡巡すべきに非ず。英の印度政策は固より印度人の好意を以て迎ゆるところに非ず。仏人はアルジェリアに人望なければ、、、米人は中央亜米利加に於て蛇蝎視されつつあり。、、、独り我は対支対満政策を遂行を期する一面に支那の排日感情を恐る。真に了解を苦しまざるを得ず。」(吉田茂(牧野伸顕の娘婿、対満政策私見)
二 北伐の再開、日本軍山東出兵、済南事件。張群の再来日の目的は外交交渉に持ちこむこと。
「5月4日、東京に着いたとたんに、その前日、すでに済南事件が発生したことが知らされた。、、、、、、彼ら(松井石根、有田八郎)との会談きわめて強硬論を主張していることがわかった。、,、翌5日田中義一と会い、現地軍の交渉にまかせず、外交交渉に移すように提案した。その時は田中はこの提案を拒否したが、間もなく方針が変わり、松井石根を現地に行かせると私に通知してきた。8日、私は再び首相官邸で田中義一と会談、、、。」(張群、『日華・風雲の70年』
へ、張作霖、北京を放棄、6月3日、張作霖爆殺事件。永井柳太郎、中野正剛が田中義一追及、
「万一、動乱、満蒙に波及し治安乱れ同地方に於ける我が特殊の地位利益を侵害される虞あるに於いては其何れの方面より来るを問わず之を防護し且つ内外人安住発展の地として保持せられるよう気を逸せず通常の処置に出ずるの覚悟を有す」
(東方会議後の声明)
ト、中野正剛の満州某大事件への国会での追求
「軍の空気は本当に緊張してきた、観兵式の大将は本当の戦争の如き空気に対して、貴方は腰を抜かして罷り下られた。治安維持の声明は一種の威嚇であって世界の世論の前に、此圧迫の下に、また、軍の行動の前に貴方は腰を抜かして、満蒙に対する征策を一変された」(中野正剛の発言)
中野正剛は、ここから、張作霖爆殺事件の真因を暗示。
事件の追求の重点は、事件が満鉄と京奉線の交差地点で起きたこと。満鉄線路周辺の治安維持任務の管理は日本にあるが、張作霖の爆殺の時期には、なぜ、日本軍はその任を中国側に譲ったのかを追及。
「私の承知致す所に依りますと、東三省は支那の一部分である、日本とは特殊の関係を有して居りますが、支那の一部分である。この支那が全体的に統一された暁には、全体的に日本と親善関係、善隣の誼を徹底せしむべきものと私は信じております」中野正剛
ト、昭和4年6月3日、中国国民政府承認。7月1日、田中内閣総辞職
昭和4年3月 梅谷庄吉、2年間の訪中。孫文像(高さ3・6メートル、7トン)を中国各地に建立。
チ、昭和6年10月、北一輝、梅谷庄吉の中野桃園町にある別邸に転居。
第五章 北一輝の資金源
北が財閥の手先だったというように、信じている人が多いが、どこから彼の生活
費が出ていたのか謎に包まれている。ここでは彼の住居問題を中心に考察する。
イ、北一輝の最終的な日本帰国後の住居
1、大正九年一月 猶存社(牛込南町)(五カ月間)
2、同年 六月 千駄ヶ谷 山本唯三郎邸へ―永井柳太郎の紹介(八年間)
3、昭和三年六月 牛込納戸町〈三年間〉
4、昭和六年 大久保百人町(半年間)
5、 夏 岩田富美夫方に同居(二、三カ月間)
6、同年 一〇月 中野区桃園町 梅谷庄吉の別邸(四年間)
「10月6日、「妻」うたた寝、軍服の人二人、玄関の前、梅屋の方に向ひて立ち入る。右腰に拳」銃。」
昭和一一年 二・二六事件
ロ、長期間にわたるのが、2,6、ついで3.
2、について.永井柳太郎は民政党の代議士、ベルサイユ会議に渡欧して上海にも立ち寄る。山本唯三郎は、鈴木商会ほどでないが、戦争成金、船成金の代表者ともみなされた人物。虎大臣とよばれた。彼が朝鮮に数十人の友を連れて虎狩りに出かけたため。
6、について。梅谷庄吉は香港で写真館を開き、孫文と知り合う。以後、孫文を財政的に支援。「君は革命をやれ、僕は金をつくる」と孫文に言ったとか。この人物は、活動写真をはじめ大成功。当時の映画は軍需産業とならぶ大産業で、自己の映画会社を含め三社を合併、日活の社長となる。孫文には多大な援助。孫文と宋慶齢との結婚も媒介。
昭和4年に、国賓として2年間訪中。銅像の寄付。(蒋介石の覇権確立に寄与)。帰
国に、北と接触したのだろう。
以上の2件から、いずれも、中国との関係が浮かび上がってくる
3については不明。
ハ、譚人鳳からの資金提供 一時帰国時代(北夫人の北京行)、上海時代(北夫人の手記)
二、直接の現金収入として分かっているのは、安田共済生命事件、15銀行事件による数万円ずつの解決金。
ホ、昭和9年以降、二年間にわたる三井からの献金。三井は中国本土進出に積極的で、辛亥革命当時から革命派に武器を売却していた。当時は内田良平が仲介料。また、孫文とも深い関係。三井の献金の目的は中国との円滑な関係を求めてのものと思われる。
三井の主たる目的は、漢冶萍の鉄鉱石、石炭であったと考えられる。孫文の失脚問題、21カ条の要求問題。
以上まとめて考えると、主として、中国から直接、間接に資金を得ていたと考えられる。
第6章 北一輝、西田税と皇道派(メモ)
イ、 西田税の天剣党―― 将校たちに不評。同志たちの離散を招く。日本国民党を組織
菅波三郎(陸軍)昭和4年ごろから麻布三連隊に勤務、安藤中尉など青年将校に接触するともに、秩父宮とも数度にわたって会う。
藤井斉(海軍-王師会) 井上日召と接触(那珂湊)
郷詩会(10発事件後に郷詩会)、西田委員長で陸、海、民間の結合。西田を中心に菅波、大蔵栄一、末松太平らの第一次2・26派の結集
ロ、北一輝の『維新革命論』(大正15年)
皇軍
「戒め置く、国軍を皇軍と改称せるの一事を以て国軍を国民の不可侵的存在と考ふるは龍袖に隠れて国軍の不義を維持せんとする尊大なり、国家国軍を革命的維新すること自体が国家国軍の再建統制の唯一の道なり。」
思想
「古今凡ての革命運動は実に思想の革命にして兵火の勝負に非ざるを知るものなり」
「古今革命が上層階級より起れることなし」「近代革命は軍部志士民間浪人志士の団集とに依りて維新の中核は作らる」
暗殺と軍隊運動
「革命者は卑怯なる暗殺者に非ずして大殺戮の義人たるを要す」
「革命は暗殺に始まり暗殺に終る」(「維新革命は戊辰戦争に決せずして天下の大勢は頻々たる暗殺の為に決せられたり」)
「国家の革命が軍隊運動に依るは歴史的通則なり」「近代革命は軍部志士と民間浪士志士の団集とに依りて維新の中核は作らる」改造法案のクーデターの主体。「国家の革命は軍隊の革命を以て最大とし最終とする」天剣党規約
天皇と明治維新
「薩摩、長州の大名等が徳川氏に代りて封建制を維持せしならば単なる倒幕と云い得べくも、尊王の本義即ち中世的階級を一掃して一天子を国民的大首領としたる民主的大統一を見る能はざりしは論なし」
「明治大皇帝が国民の身命と財産の所有権者に非ずして貴族政治打破の国民運動に号令を鼓舞し計画し其の渇仰の中心たりしなり、民主的革命家が同時に専制統一をの君主にして亦同時に復興せる信仰の羅馬法王たりし三位一体的中心」
対外的侮蔑心
「殿様の前に立てる武士及び武士の前に立てる劣弱者を侮蔑する心は侵略者に拝跪する奴隷の心なり、米人に凌辱されて一拳を加へざる卑屈は支那の覚醒を侮慢し成敗により国士を笑罵する尊大なり。」「拝跪する奴隷の心は階級の下なる者にむかって増上尊大になる。・・・・希くは一切の対支那侮蔑観より脱却せよ」
付言
「われわれも、天皇陛下万歳を三唱しましょうか」
目隠しのまま、背の高い西田が北に話しかけた。
小柄な北は、その身体のわりに大きな頭をかしげちょっと考える風をしたが、
「いや、わたくしはやめます」
北は頭をまっすぐのばした。
銃声が重々しく鳴り、白煙が風に流れた。 (立野信之、『叛乱』)
立野信之の小説『叛乱』が新東宝で『叛乱』で映画化され大好(評を博したのは昭和29年のことである。最後の銃殺シーンで、
「北が、われわれも天皇陛下万歳をやりましょうか」と言うのに、西田が
「いや、私はやりません」と答える場面がある。
(須山幸雄著『西田税 二・二六への軌跡』)
真実は、北一輝は「座るのですか。之は結構ですね。耶蘇や佐倉宗五のやうに立ってやるのはいけませんね」。西田税は「死体の処置を宜しくお願いお願ひします」(2.26事件秘録、第4冊)
三好達治の昭和天皇退位論、荒牧退助の岸信介首相刺傷事件
第294回現代史研究会
日時:4月23日(土)1:00~5:00
場所:専修大学・神田校舎5号館4階541教室(新しい校舎)
JR「飯田橋」駅より徒歩10分、または地下鉄・東西線「九段下」駅より徒歩5分
テーマ:「北一輝と孫文の中国革命」(仮題)
講師:古賀 暹(元『情況』編集長)
コメンテーター:丸川哲史(明治大学教授)
資料代など:500円
参考文献:『北一輝 革命思想として読む』(御茶の水書房)
現代史研究会顧問:岩田昌征、内田弘、生方卓、岡本磐男、塩川喜信、田中正司、(廣松渉、栗木安延、岩田弘)
主催:現代史研究会
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study730:160420〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。