思想・良心の自由を制約して、秩序維持をとった「民事19部判決」
- 2016年 4月 20日
- 時代をみる
- 澤藤統一郎
昨日(4月18日)、都教委との訴訟において久しぶりに敗訴の判決を得た。敗訴は辛い。辛いが、励まし合い、知恵も元気も出し合って闘い続けなくてはならない。少しでも真っ当な社会を築くために。
負けてもめげないという点では、都教委を見習おう。なにしろ12連敗しても、少しもへこたれず、反省のかけらすら見せずに、居直り続けているのだから。
昨日敗訴の事件は、「再雇用拒否」第3次訴訟と名付けた事件。東京都立学校の元教員3名が、定年後の非常勤職員の選考での不合格を違法と主張して、東京都に計約1760万円の国家賠償を請求した事件。東京地裁民事19部(清水響裁判長)の判決言い渡しのその瞬間までは、勝訴判決があるものと思い込んでいた。都教委も、12連敗の次の13連敗目を覚悟していたに違いないのだ。なんとなれば、まったく法的争点を同じくする「再雇用拒否」第2次訴訟では、昨年5月東京地裁の別の部(民事36部)が、元教員22人が起こした別の訴訟の判決で全面勝訴して約5370万円の損害賠償を命じる判決を得ている。しかも、この判決は東京高裁でも1回結審で控訴棄却となっているのだ。都教委も、「どうして勝ったんだろう?」といぶかしんでいるに違いない。
2次訴訟も3次訴訟も、原告らはすべて卒業式で「君が代」斉唱時に起立しなかったことだけを理由に定年後の再雇用を拒否されている。懲戒処分を受けただけでなく、定年後年金支給時までのブランクは経済的に厳しい制裁となるのだ。「日の丸・君が代」不服従に対する、懲戒処分以外の制裁措置として実効性のあるこの再雇用拒否は都教委の大きな武器である。この武器をいったんは押さえ込んだと思ったのだが、昨日の判決は、この武器の使用を認めてしまった。だが、判決をよく読むと、裁判官が自信をもって書いた判決とは思えない。勝敗は紙一重。しかも、極めて薄い紙によって分けられたというほかはない。
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まずは、原告団・弁護団の声明を掲載しておきたい。
声明
1 本日、東京地裁民事第19部(清水響裁判長)は、都立学校の教職員3名が卒業式等の「君が代」斉唱時に校長の職務命令に従わずに起立しなかったことのみを理由に、定年等退職後の再雇用である非常勤教員としての採用を拒否された事件(東京「再雇用拒否」第3次訴訟)について、原告教職員らの訴えを棄却する不当な判決を言い渡した。
2 本件は、東京都教育委員会(都教委)が2003年10月23日付けで全都立学校の校長らに通達を発し(10.23通達)、卒業式・入学式等において「君が代」斉唱時に教職員らが指定された席で「日の丸」に向かって起立し、「君が代」を斉唱すること等を徹底するよう命じて、「日の丸・君が代」の強制を進める中で起きた事件である。
都立学校では、10.23通達以前には、「君が代」斉唱の際に起立するかしないか、歌うか歌わないかは各人の内心の自由に委ねられているという説明を式の前に行うなど、「君が代」斉唱が強制にわたらないような工夫が行われてきた。
しかし、都教委は、10.23通達後、内心の自由の説明を一切禁止し、式次第や教職員の座席表を事前に提出させ、校長から教職員に事前に職務命令を出させた上、式当日には複数の教育庁職員を派遣して教職員・生徒らの起立・不起立の状況を監視するなどし、全都一律に「日の丸・君が代」の強制を徹底してきた。
原告らは、それぞれが個人としての歴史観・人生観・宗教観や、長年の教師としての教育観に基づいて、過去に軍国主義思想の精神的支柱として用いられてきた歴史を背負う「日の丸・君が代」自体が受け入れがたいという思い、あるいは、学校行事における「日の丸・君が代」の強制は許されないという思いを強く持っており、そうした自らの思想・良心・信仰から、校長の職務命令には従うことができなかったものである。
ところが、都教委は、定年等退職後に非常勤教員として引き続き教壇に立つことを希望した原告らに対し、卒業式等で校長の職務命令に従わず、「君が代」斉唱時に起立しなかったことのみを理由に、「勤務成績不良」であるとして、採用を拒否した。
3 判決は、「君が代」斉唱時の起立等を命じる校長の職務命令が憲法19条及び同20条に違反するかという争点については、2011年5月30日最高裁(二小)判決に従って、起立斉唱命令が原告らの思想・良心及び信仰の自由を間接的に制約する面があるとしながら、公務員としての地位及び職務の公共性から、必要性・合理性があるとして、憲法19条及び20条違反と認めなかった。
4 また、判決は、都教委による10.23通達及びその後の指導について、卒業式・入学式等における「日の丸」掲揚、「君が代」斉唱の実施方法等について、公立学校を直接所管している都教委が必要と判断して行ったものである以上、改定前教育基本法10条の「不当な支配」に該当するとは言えないと判示した。
5 さらに、判決は、原告らに対する採用拒否は、都教委の裁量権を逸脱・濫用したものではないとした。非常勤教員の採否の判断につき,都教委は「広範な裁量権を有している」として、原告らの非常勤教員への採用の期待は、「事実上の期待でしかない」とする。その上で、本件採用拒否が「不起立を唯一の理由」とするものであり、「原告らが長年にわたり誠実に教育活動に携わってきた」ことを認定しながら、「本件職務命令が適法かつ有効な職務命令であるとの前提に立つ以上、原告らが本件不起立に至った内心の動機がいかなるものであれ、職務命令よりも自己の見解を優先させ、本件職務命令に違反することを選択したことが、その非常勤教員としての選考(本件選考)において不利に評価されることはやむを得ない。」とし、前記2011年最高裁判決に従い、「本件採用拒否が客観的合理性及び社会的相当性を著しく欠くものとはできない」とした。
6 しかし、本件と同様の事件(再雇用拒否撤回第2次訴訟)において、東京地裁民事第36部(吉田徹裁判長)は、2015年5月25日、東京都の採用拒否について、裁量権逸脱として違法とし同事件の原告らの損害賠償請求を認め、同事件の控訴審においても、東京高裁第2民事部(柴田寛之裁判長)は、2015年12月10日、東京都の控訴を棄却している(東京都は上告中)。上記判決においては、「再雇用拒否は本件職務命令違反をあまりにも過大視する一方で、教職員らの勤務成績に関する他の事情をおよそ考慮した形跡がないのであって、客観的合理性や社会的相当性を著しく欠くものといわざるを得ず、都教委の裁量権を逸脱・濫用したもので違法である」と判示している。本判決は、これらの判決にも反する極めて不当な判断である。
7 原告らは、本不当判決に抗議するとともに、本判決の誤りを是正するために、直ちに控訴する。われわれは、引き続き採用拒否の不当性を司法判断にて確定するために努力する決意である。
以上
2016年4月18日
東京「再雇用拒否」第3次訴訟原告団・弁護団
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判決の理由を見てみよう。判決理由は「本件の争点」として、以下の5点を挙げる。
1 10・23通達及びこれにもとづく起立斉唱の職務命令が、憲法26条、憲法13条、憲法23条及び旧教育基本法10条1項(現教育基本法16条1項)に違反するか(争点1)
2 同通達及び本件職務命令が「市民的及び政治的権利に関する国際規約」18条に違反するか(争点2)
3 原告らが本件選考において不合格とされたことは思想良心、信仰に基づく不利益取扱いとして憲法19条及び憲法20条に違反するか(争点3)
4 本件不採用に都教委の裁量権濫用・逸脱があるか(争点4)
5 原告らの損害額(争点5)
この争点1~争点3こそが、教員側の主たる主張だが、現実的に勝敗を分けるのは、「争点4」の裁量権濫用・逸脱の有無である。2次訴訟では、この点で教員側が勝っている。このテーマであれば、最高裁判決に縛られることなく、下級審裁判所が自分の頭で判決を書ける。ここで、現実に教員側勝訴の判決が続いているのだ。
その「争点4」について、本件判決はどう書いたか。下記は判決書きのうちの「当裁判所の判断」中の記載の抜き書きである。念のためだが、原告の主張の抜き書きではない。
争点4(本件不採用に都教委の裁量権濫用・逸脱があるか)
「証拠(甲1,甲4ないし甲6,甲50,甲51)及び弁論の全趣旨によれば,平成19年度から平成24年度までの非常勤教員の合格率は約96%から98%で推移しており,不合格となるのは少数に限られること,また,非常勤教員は再雇用制度の廃止に伴い,再雇用職員が担ってきた業務を担う役割を果たすものとして設けられたものであって,再雇用・非常勤教員採用選考実施状況(甲4)に照らし,現実にも,非常勤教員制度は,再雇用制度廃止の受皿としての機能を有していたものと認められ,これに反する証拠はない。かかる事実によれば,原告らにおいて,定年退職後も非常勤教員として勤務することができることを期待したとしても,そのこと自体は理解することができる。」
「進んで,本件不採用の理由について検討するに,…証拠(甲57から甲59まで,原告各本人)によれば,原告らは,それぞれ都立学校に在職中,定年退職に至るまでの間,教師として誠実に職務に取り組んでいたことが認められ,本件職務命令違反に係る本件不起立も原告らの歴史観ないし世界観等に基づくもので,積極的な式典の妨害行為をするような態様のものではなく,証拠上,本件職務命令違反に係る本件不起立以外に,原告らにつき,本件不採用に係る不合格の理由となるような事情は見当たらない。したがって,本件不採用は,専ら原告らが本件職務命令に違反したということをその理由とするものと推定され,これを覆すに足りる主張立証はない。」
「そこで,このような理由により本件不採用をしたことが裁量権の濫用・逸説となるかどうかについて検討するに,…原告らが地方公務員であると同時に教師であり,本質的に子どもとの直接の人格的接触を通じ,その個性に応じて行わなければならない教育に携わる者として,一定程度の教授の自由を有していたと考えられることが考慮されるべきものであり…、確かに,原告らが長年にわたり誠実に教育活動に携わってきたことに鑑みると,本件選考に係る都教委の裁量権の行使に当たっては,専ら原告らの本件職務命令の違反という事実だけを重視するのではなく,原告らの長年にわたる教師としての能力や適性,実績についても同程度あるいはそれ以上に重視して慎重に検討すべきとの考えもあり得るところであり,この点については,人事政策的見地からの当否の問題は残ると考えられる。」
結局、判決は、迷いながらも、「法的見地からみた裁量権の濫用・逸脱の問題としては,被告(都教委)に著しい裁量権の濫用・逸脱があったとまでは言い難い。」と結論した。上述のとおり、「人事政策的見地からの当否の問題は残る」と明言しながらのことである。裁判官は、「都教委のやったことは相当ひどいが、それでも違法とまでは言いにくい」としたのだ。越えてしまえば、なんでもない一線。行政を批判する勇気に欠けたと批判せざるを得ない。
2次訴訟における「民事36部の原告勝訴判決」と、3次訴訟における「民事19部の原告敗訴判決」とを分けるものは、まさしく人権感覚の差である。憲法感覚の差と言ってもよい。個人の尊厳、思想・良心の自由を出発点として果たしてこれを制約するに足りる必要があるかと発想するのか、それとも秩序維持の必要性を出発点としてこの秩序を凌駕するものとして個人の自由の価値を認めるべきかとの発想の落差である。
裁判官の資質としてもっとも重要なものは、何よりも人権感覚である。個人の尊厳への畏敬の念である。生身の人間への共感能力でもある。難波判決・大橋判決・宮川少数意見、そして吉田判決と、一連の「日の丸・君が代」訴訟は、何人もの真っ当な裁判官を見てきた。残念ながら、昨日はハズレ籤だった。気を取り直して、原告団と弁護団と支援の運動全体で控訴審に取り組む決意をかためよう。考えようによっては、まだ12勝1敗ではないか。この1敗で、へこんではおられない。
(2016年4月19日)
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2016.04.19より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=6753
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〔eye3399:160420〕
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