心 性 へ の 侵 犯 —–『誘惑者』—-(2/2)
- 2016年 4月 21日
- カルチャー
- 藤倉孝純
地 獄 を さ ま よ う 魂
――高橋たか子・洗礼まで――
目 次
【Ⅰ】 作家の特徴 (4/5掲載)
―『渺茫』によって―
【Ⅱ】 わたしが真犯人なの――?(4/7掲載)
―「ロンリー・ウーマン」―
第一章 乾いた響き
第二章 なりすまし
第三章 「それは私です」
【Ⅲ】 眩めく灼熱を歩いたのだ(4/10、13掲載)
―『空の果てまで』―
第一章 エピソードいくつか
第二章 哲学少女
第三章 第一の犯行
第四章 第二の犯行
第五章 火急の自分
【Ⅳ】 心性への侵犯(今回掲載分-第4章~第5章/第1~3章は4/18に掲載済み)
―『誘惑者』―
第一章 言いようもない
第二章 私、不安だわ
第三章 ロマンのかけらもない
第四章 なんでもできる
第五章 詰襟の学生
【Ⅴ】 自分探しの旅路(次回掲載)
―「奇妙な縁」―
第一章 老女るりこ
第二章 出会い
第三章 幻影
第四章 羽岡フレーズ
第四章 何でもできる
織田薫には「悪い血」が流れている、と作家は書いている。薫の家系は室町時代にまで行きつくらしい。さすがの古都、京都でもそこまで辿れる家柄はめったに見つからないらしい。悪い血といえば、近親者同士の長い婚姻関係によって形成された精神的な、肉体的な衰微、「廃血の澱み」を指すのであろう。作家はその面についてほとんど語らない。
薫と哲代は同志社女子専門学校以来の友人で、薫は同志社大学へ、哲代は京大へと進んだが、交際は続いていた。敗戦直後のことで、砂川宮子も哲代もよれよれの布製ズック靴しか履けなかったが、薫は高価な革靴を履いていた。彼女の華奢な指はピアノを上手に弾いた。赤い口紅を引き、髪は胸まで伸びていた。だがその髪はコークスのようなざらざらした黒さで、くすんだ肌の色と重なって体全体に暗い印象を与えていた。話す時に、いちいち語尾を“キーン”と上げて、自分の言辞を聞き手に押しつけてくる癇症の強さがあった。他者にたいしてアグレッシブなその織田薫が、哲代にたびたび「私、死にたいわ」と訴えるのである。薫はこれまでに二回ブロバリンを飲んで死のうとした事があった。なぜ彼女は死にたいのだろうか? 哲代の問いに、「理由なんて他人に言えるものと思う?」と繰り返すだけであった。三原山の火口で死んだ砂川宮子の場合、自殺は既述のように実家の母親がどうの、意に沿わぬ縁談がどうのと、とりとめのない理由であった。織田薫の場合、強いて想像すれば明治以来の古い家系のしがらみとか、戦後の社会変動に対応しきれずに凋落する実家の有様が、多少とも絡んでいるのかもしれない。
薫はここ四、五日、哲代とも宮子とも連絡が取れない事情を正確に推測していた。話し相手の心の内部へずかずか入りこむ例の刺々しい口調の薫の問いに、哲代は「砂川さんは死んだわ」と告げた。すると薫は生々しい痣としか思えないような生気のない頬笑みをうかべて、
「その話をしましょう。繰返し繰返しあなたとその話がしたいわ。私にはわかっていたの、あなたは人を死なせることができる人だってことをね」(p199)
砂川宮子は死の直前になってはじめて、鳥居哲代が死の誘惑者であることを知った。宮子とは逆に、薫は哲代が死の誘惑者であることを、まえもって知っていた。薫は哲代が人を死なせることができる人だと知ったうえで、哲代を自殺幇助者に選んで、これから三原山へ向かうのである。ここが宮子と薫の大きな相違である。実はこの相違には重大な問題が存在していた。上の引用に続いて、薫は
「あなたと宮子さんが辿った道を、私はあなたと歩いていきたい。是非そうしたいわ」
「他人を死なせてくれる人と、すでに死んだ人のたどった道と、そして、死にたいと思う人と、これだけあれば、もう充分じゃない」(p202)
と話す薫に対して、哲代が返した言葉は、宮子のときに見せた哲代自身の心のためらいが、まったくみられない。
「ああ、そう。つまり遊戯をしようというのね。ルールがすでにあるんだから、それに従って、ちょっと危い芸当をしてみようというのね。芸当なんだから、何でもないことね」(p203)
“遊戯”、“ルール”、“芸当、”---こういうゲーム感覚の軽い言葉ひとつひとつに、薫の若い命が懸かっている。宮子の際には、哲代は幇助者という自分の役割に疑問を抱き、良心へ問いかえすときもままあったが、ここにはその哲代はいない。また、死にたくもないが、と言って特段生き続けたいとも思わないというニヒルな哲代もいない。ここには、他者の死を弄ぶ鳥居哲代がいるだけである。哲代の精神の内奥に伏在していた“悪”が、この瞬間に、顕現したのである。彼女の場合、悪はいかにして現われたのか。
織田薫は身の回りの物を全部整理して、日記も燃やしてしまい、二十一歳の誕生日に自殺する決意をした。彼女は「何もかも宮子さんの時と同じにしてね。ちょっとでも違ったらダメよ」と、哲代に強く求めた。二人はこうして、宮子が乗った京都発に二十三時五十四分発の急行列車に乗ることになったのである。今、哲代は宮子の時そうしたように、京都駅で薫を待っている。
「変てこな旅行だ」
と、鳥居哲代は呟いた。
砂川宮子の場合は真面目さそのものの含む陰気なものがあった。だが今回は、どこかあっけらかんとしている。(p228)
「変てこ」と思い、「あっけらかん」と感じているのは哲代である。確認するまでもなく、ここには死に赴く薫に対して、一片の共感もない。しつこく繰り返すのだが、宮子の時に見せた哲代の逡巡はない。やはり、一度目は悲劇、二度目は喜劇というべきか。哲代は砂川宮子の死以後、どうにも答えの出しきれない問題を抱えていた。その問題とは、「自分が砂川宮子を殺したのかもしれない」という深い想いであった。
この意識はまっとうなものである。ここには自己の良心への真剣な問いがある。この意識がこのまま深化すれば、やがてその先に、生命の尊厳、死の厳粛さに想い至るであろう。実際、鳥居哲代はその方向へ一歩踏みだそうとしかけたのである。彼女は大学ノートの余白にこう書いた。
「人間は人間自身で知ることのできない領域をもつ存在だ」(p204)。
元来、哲代は自分で納得できない事を自分が認める人間ではなかった。論旨が煩雑になるのでその論証は避けるが、彼女の世界観は西洋合理主義に基づいていた。その彼女が宮子の自殺について考えるなかで、“私は自分の中に、自分で知ることのできない部分を持つ”という認識にまで到達したのである。もしも哲代がこの問題意識をさらに深化させれば、あるいは彼女は近代合理主義の限界を克服して、神秘思想や宗教へ至ったかも知れない。もしそうであれば、彼女のその後の人生は大きく変わったはずである。だが、哲代はその方向へ思索を進めなかった。別の言い方をすれば、作家は鳥居哲代に別の任務を与えた。その任務とはなんであろうか? その任務とは、宮子の死についてもっと掘り下げて考える必要があるから、哲代は
そのためには織田薫を砂川宮子の死に巻き込むことも一つの方法であるだろう。鳥居哲 代は、自分が自分で納得できないような事態であるものを、逆手にとってやろう(p200)
と思いはじめたのであった。哲代は薫の死を「一つの方法」として扱おうと決意したのである。一個の生命が弄ばれようとしている。このように決意した哲代がこの瞬間、西欧近代合理主義によって自己の人格を形成し、論理の必然的展開を尊重する従来の立場を放棄している点に注目したい。作家は哲代の心の襞を覗きこんだかのように記した。
鳥居哲代は、その時、奇妙な感覚が薄い粘膜のように自分をくるんでしまうのを感じた。砂川宮子においてしたことを、いままた織田薫において反復しているかのような、そんな反復というもののもつ、けだるい感覚である。(p196)
「薄い粘膜」は哲代の内部にわずかに残っていた社会的良識を密閉してしまった。もはや良心に煩わされることはない。「遊戯」であり、「芸当」なのだ。だが密閉したことで、哲代は死の誘惑者の役割に確信を得たわけではない。彼女は「けだるい感覚」でその役割を意識したにとどまる。「けだるい感覚」、ここに死を興味本位に扱おうとする自己への軽い嫌悪感を読みとってよかろう。織田薫の自殺においてもまた、「自殺の論理」は究明できないのではあるまいかという暗い予感が、「けだるい感覚」となって現われている。薄い粘膜で自己の良心を覆い、「けだるい感覚」に身を委ねながら、それでも鳥居哲代は自殺幇助の「反復」を決意した。ここには知性からの彼女の後退が歴然としている。
論点を京都駅へ戻そう。砂川宮子の時と同様に、鳥居哲代は早めに駅へ着いて改札口前の行列に並んだ。哲代は織田薫が来ないのではあるまいかと不安に駆られたのも、宮子のときと同じであった。ところが薫は、自殺に旅立つ人とは思えない威勢のよい足取りで、当時の女性としては極めてめずらしいのだが、煙草まで吸いながら中央ホ-ルからやって来た。薫が自分のそばに立った時、哲代は訊ねずにいられなかった。
「私がこないのではないかとは思わなかった?」
織田薫は鋭い眼をせせら笑うふうに柔らげただけだった。
「私がこなかったとしたら、あなたはどうする?」
鳥居哲代は重ねて言った。砂川宮子との場面にふくまれていたことを探りだせる気がした。
「私がきたかこなかったかで、一切が始まるか始まらないかが決まるのよ。あなた一人では何もできない。さあ言ってよ、もし私がこなければ、あなたは、つまり、あなたのこれからの生涯というものが、どうなるんだろう?」(p230)
「私がこなかったとしたら、あなたはどうする?」と問いかけた哲代には、“もしあなたが自殺を翻意するならば、これが最後の機会なのよ”という言外の意味を持たせている。哲代には、宮子の最後の言葉、「あなたがいなければ、私は死ぬことはないんだ」が耳にこびりついて離れないでいるのだ。宮子の時のわだかまりが、こう言わせたのだ。
だが哲代にはそれとは別の心理も働いていた。薫は三原山へ行くにあたって、砂川宮子とまったく同じ行動を要求していた。したがって、哲代が京都駅へ現われなければ、薫の自殺行はない。だから哲代は「それでは、私がいま帰るとしたら」(p233)という含意を十分匂わせながら、もし「私がこなかったとしたら、あなたはどうする?」と問いかけたのであった。この問いには、あらゆる権力者がつねにそうであるように、とりわけ他者の生命を左右しうる立場にあるものがそうであるように、サディズムが露骨に見えている。哲代が薫の生殺与奪の権を握ったとき、もともと哲代の内部にあったサディズムがいっそう強く意識された。後に明らかにするのだが、哲代は自殺幇助者の立場から、強要者のそれへと移行する。その心理的伏線はここにある。
だがしかし、哲代のその問いに対する薫の返答は、哲代が予想もできなかったほどの烈しい内容であった。上の引用の最後、「あなた一人では何もできない。さあ言ってよ、もし私がこなければ、あなたは、つまり、あなたのこれからの生涯というものが、どうなるんだろう?」、これが哲代に対する薫の反撃であった。哲代の内面世界が今、何によって支えられているのかを、薫は正確に把握していた。ここは、二人の関係を考察する上で大事な所なので、薫の反撃をもう一つ紹介しておこう。
「あなたはいま帰るなんてできないわ、あなた自身ができないというのよ。いま帰れば、あなたは何をする? 何も、この世で何も、することがないという事態にぶつかるのよ」(p234)
織田薫という女性は砂川宮子と異なり独自の世界を持っていた。性格の面では、癇症が強く、潔癖で、他者に対してアグレッシブであったが、自己の内面に対しても潔癖で、曖昧さを許すところがなく、論理的思索と洞察力に優れていた。彼女の精神基盤はおそらく、鳥居哲代と同様に、西欧合理主義であったろう。薫と哲代は形而上学や深層心理に強い関心を持ち、これが二人の共通するところであった。筆者は先に哲代と宮子の関係を分身関係と規定した。哲代と薫の関係はどうであろうか? 二人は性格も共通するとこが多く、思索の関心方向も共通している点を考えると、“ライバル関係”と見ておきたい。既に論評しておいた『空の果てまで』には、太平洋戦争末期、貯水池に青酸カリを混入するエピソードがあった。織田薫は、この場面に登場する早熟な哲学少女「岡克子」を彷彿させるものがあって興味深い。
哲代へ戻って、彼女は薫の鋭い反論にあって、目の前がぐらぐらするほどのめまいを感じた。いまここで薫と別れれば、薫の言うように、「自分という無があるだけなのだ」(同上)。薫の反論はまさに哲代の急所を正確に衝いたのである。自分という無に我慢できないのであれば、哲代には薫を死へと導く「仕事」しかない。換言すれば、哲代はこの時、他者を死に至らしめる事を生き甲斐とする人間として、今、ここにいる。「帰ろうか、行こうか」(p235)、哲代は迷った。迷っているうちに、駅員の誘導で改札が始まった。
織田薫と鳥居哲代は、哲代と宮子がたどった道順を忠実に再現しながら大島へ向かった。宮子に同行した前回は知識不足から、いったん山手線田町駅で下車して芝浦桟橋へ歩いて向かったが、それが間違いと気づき、二人は再び田町駅まで戻り東京駅で下車して、大島行きの出る月島桟橋へ着いたのであった。薫はその迷った道順まで忠実に再現してくれ、と哲代にしつこく迫った。薫のこだわりは道順だけではなかった。「ここであなたがたは何を話したの?」、「二人はそれから何をしたの?」とひとつひとつ確かめずにはおかなかった。
「あなたと宮子さんが辿った道を、私はあなたと歩いていきたい。是非そうしたいわ」(p202)
「 死にたい気持をそういうふうにして確かなものにしたいの」(同上)
それにしても間違った道順まで忠実に辿ろうとする薫のこのこだわりは異常である。哲代はそれを、以前から目立っていた薫の“偏執”という性格が、死を間近にして極端な形で表われたものと考えた。死を直前にして些細なことにこだわる気持ちは理解できる。明日にはかならず死ぬこの身を、些事にこだわって死の恐怖を少しでも紛らわしたい気持ちは、自然な心情である。だが、薫の執拗なこだわりにはもう一つ別な側面もあるように思える。
宮子の自殺には、前章までに確認したように、読者を納得させるに足る原因は明らかにされなかった。この事情は薫にも妥当する。大島行きの船のなかで哲代は宮子にしたと同じ質問(「なぜ死ぬの?」)をした。すると薫は海へ向かって叫んだ― 、「空虚だからよ。それだけよ。空の空の空」(p268)。このような漠然とした感情だけで人は自殺できるものなのか、この点は宮子の自殺の時に述べたので繰り返さない。このように二人の自殺へ至る原因を漠然としたまま作品を展開させるのは、実は作家の意図に因る。作家の眼は自殺の原因を探り、そこから人間ドラマを描く方に向いていない。作家の狙いは自殺の抽象的な考察にある。原因のはっきりした自殺はかえって作家のイメージを妨げる。だから作家が哲代に「死の構造」という抽象的な課題を与えたのであった。
ついでのことながらここで、「死の構造」について一言コメントしておきたい。「死の構造」という表現はいかにも分りづらい。ここでの「死」は自殺に限定されるのだが、「構造」で作家がイメージしているものは、おそらく人を死へと誘う論理の道筋であろう。人を必然的に死へ至らしめる一般理論と言ってもよかろう。したがって筆者はこれまでの論述において、「死の構造」=自殺の論理と表現してきた。ところで、哲代が究明しようとする自殺へ至る論理、こうしたものがはたして構築可能なのか、それについては既に言及しておいたので繰りかえさない。
本論へ戻る。
船中で薫は女専時代の思い出話を哲代に語った。一年生の時の林間学校の話、二年生の時哲代が大きな風呂敷包みを両手にかかえて校門をくぐった様子――等々哲代には記憶が不確かな話を薫は熱心に語った。菊丸という小型船は深夜の海を、まるで漂流する丸太棒のように波にもまれながらのろのろと進んだ。話が英文科主催の英語スピーチ大会になった頃には、哲代は船酔いするのではなかろうかという不安な気持ちになりながら、薫の話をぼんやりと聴いていた。哲代は宮子の時にも船酔いをして、激しく嘔吐した。宮子の時は海は大時化だった。今回も時化らしい。船内ではあちらこちらで金盥の中へ嘔吐している。哲代の躯がふうっと宙に持ち上げられて、彼女の内臓が絞られるような不快な圧迫感が始まった。哲代は懸命に吐き気をこらえている。大部屋の船室では金盥を持って七転八倒して苦しむ人びとが出はじめた。船が大きく傾いたとき、哲代は右手で胃を押さえながら、足許を確かめたしかめして洗面所まで歩いた。洗面台に両手を突いたままで、哲代は吐き気を堪えた。踵から背筋を通して後頭部までぞくぞくする寒気が何遍ものぼってきた。顔をあげて鏡の中の自分を見た。苦痛のために蒼白な二十歳の顔が、薄暗い電灯に浮かんでいた。「もうこれ以上こらえられない」と哲代は呟いた。
全身に不快な力が充ち充ちている。いや、自分の全身というものが、外界中へとろけていて、外界に充ち充ちている不快な力が、自分をとおして迫りあがってくる気がする。船がぬるりぬるりと傾き続ける。(小略)自分の内臓がそのうねりに巻きこまれていくのがわかった。きりきりした眩暈のようなものを、内臓が訴えている。月も星もない夜の海の、底知れない深部から、持ち上げられてきた暗い重いものが、抗いようのない力となって口から溢れでるのがわかった。抑えに抑えていたその不快なものは、一瞬、なぜか快と感じられて、全身をくつろがせ、だが直ちに、嘔吐の色や匂いや味のつくりだす不快感が急激に場をおおった。(p278~9)
哲代は船酔いからくる吐き気に堪えられず、洗面所で激しく吐いた。上の引用は、その船酔いの嘔吐とは別に、もう一つの嘔吐について語っている。「月も星もない夜の海の、底知れぬ深部から、持ち上げられてきた暗い重いもの」が、哲代の口から溢れ、流れ出た。船酔いの嘔吐に苦しみながら、それとは異質な「暗い重いもの」の嘔吐をこの時、彼女は二重に体験したのである。引用中ほどの「月も星もない――」云々は、筆者がこれまでに幾度か言及した例の「夜の海の暗い重い波濤」の想念と同じ内容である。この想念の出現は、鳥居哲代という女性の精神の危機を告げ知らせるサインである。織田薫を三原山へ導き、その死を見届けるという困難な役割は明日の日である。砂川宮子の時には、哲代は幇助の立場に徹したつもりでいたが、その宮子は「あなたが誘惑したのだ」と言い残して死んでいった。それでは、薫の自殺はいったい“私にとってどんな意味を持つのか?”、哲代はそれに答え切れていなかった。彼女の精神の危機は、今、この一点に集中していた。
実は、この嘔吐のシーンは、一人の男によって目撃されていた。男は、本編冒頭で、警察で重要な証言をした例の「詰襟の制服」を着た大学生である。大学生はたまたま哲代らと同じ船中にいて、通路を通って部屋へ戻ろうとした時、洗面台へ嘔吐する女学生を認めた。哲代のほうは、そのとき人の気配を感じて出入り口の方へ首を向けた。彼女は、学生服を着た男がめがね越しに哲代をじっと見ているのを知った。
洗面台へ激しく嘔吐する哲代へ戻ろう。
その時、哲代の内奥に久しくあった「暗い重いもの」、「抑えに抑えていた不快なもの」が突然口から溢れ出たのである。鳥居哲代はこの時、船酔いという生理的な嘔吐を伴いながら、精神的な嘔吐にも見舞われたのである。哲代は洗面台に両手をつっぱって、激しく吐いた。だがなぜか、その不快な嘔吐が、哲代には“快”と感じられたのである。不快が快に、苦痛が快楽と感じられる不可思議な移項あるいは転換は、決して日常の出来事ではない。哲代は極度の精神的危機の中で、不快な「暗い重いもの」を吐き出しながら、その行為に“快”を感得したのである。哲代の心奥において強く抑えられていた不快なものが、その時突然、彼女の理知性の壁を突き破って外部へ躍り出たのである。不快なものが快と感じられる、不正が正と、邪が義と、悪が善と認識される、ようするに価値観の転換が哲代の精神の内部で生起したのである。哲代は薫にこうも言った。
「存在するものは悪魔であり、存在しないものは神なのだわ。悪魔が神のアンチ・テーゼなのではなくて、神が悪魔のアンチ・テーゼなのよ。悪魔が存在するからこそ、神の観念というものが希求されるのだわ。ここにあるものの不可解さを、仮に悪魔と名づけるものの領域とするなら、ここにないものへの渇きを、仮に神と名づけるものに結びつけているのよ。ここにあるものだけがある。ここにあるものとは、自分のわからなさ、不可解さ、どうしても釈明できないもの、あらゆる制止を超えて、何でもできるというもの――」(傍点作家 p290)
砂川宮子の場合には「自殺の論理」の追求という「知的」なヴェールをまとって幇助の役を果たした哲代であったが、薫の場合には、理知をかなぐり捨てて、悪として昂然と薫に対したのである。ここにおいて鳥居哲代の悪が荒々しく開示された。だだし、哲代が呟いている悪魔と神に関す意見は、ヨーロッパで昔から議論されてきた「神の存在論的証明」の正逆が転倒した裏返し論で、なんら新味はない。筆者は、悪魔や神の議論よりも薫の自死を直前にした、引用の最後、「—–あらゆる制止を超えて、何でもできる」に注目したい。これが、哲代が到達した思想の地平である。神がいなければ、人にはすべてが許される—–のか? この問いは、本編の主題に直結している。友人二人の自殺を見届けた後、哲代はこの問いにどのように応えるのか。
ところで筆者は、上の引用にある「悪魔」という表現にいささか違和感を抱く。“神対悪魔”という形で対比すると、カトリック神学の臭いが強すぎはしまいか。ここは、悪魔ではなく、人間の心に内在する“悪”それ自体と理解したい。本編の主題は、長い人類史の過程で培ってきた人間の善性—-ちなみにこれを筆者はより包括的に“心性”と言う-が—-に対する攻撃なのである。
薫と哲代へ論点を戻す。
船は大島の岡田港へ朝五時にようやく着いた。宮子の時と同じ旅館へ入った二人は、食欲がないので、すぐ寝ることにした。部屋へ案内されたとき、哲代は船中で出合った大学生と擦れ違った。襟元に校章をつけた例の大学生である。哲代は一瞬「おや?」と感じたが、睡眠不足の頭ではそれ以上の集中ができず、布団へ入るとそのまま、倒れこむように眠入ってしまった。二人は正午近くになって眼を覚ました。旅館で二人分の弁当を用意してもらって、山へ向かった。その日は、織田薫の満二十一歳の誕生日であった。山の天候を気にして哲代は薫へ話しかけるが、薫は身体を固くしたままきつい坂道を登りつづけた。哲代が五合目の茶屋で牛乳を買ったころには、あたりは白っぽいガスが出はじめた。昨夜の船酔いが身体の底に溜まったまま、哲代は疲れた頭で、あと二時間もすれば薫は火口の中にいるだろう、とぼんやり想像した。やがて道幅はずっと狭くなり、きつい傾斜の山道は雨水のためえぐれていて、足許が難渋した。三月の半ばなのに、このあたりはどこにも春めいたものはない。「死ねない、死ねない」とふいに織田薫が言った。
「本当に、私は死ねるかしら。死ねないんじゃないかと思う。宮子さんのつくってくれ
た道筋もある、あなたも助けてくれる、哲学的な意味もある、これだけ三つ揃っているのに、死ねないんじゃないかしら」
「ここまできて死ねなかったら、どうしよう。三月十八日以後の私というものはもう考えようもないのよ。それなのに死ねなかったら。ああ、あの一度目のブロバリンの味、二度目のブロバリンの味——」(p289~290)
引用にある「あなたも助けてくれる」は、哲代が薫を精神的に支える程度をはるかに越えて、もっと生々しいことを指している。物理的な手助け、つまりある種の加害行為が含まれている。薫が哲代から宮子の自殺を知らされたとき、薫は哲代を指して「他人を死なせてくれる人」と言ったことがあった。死なせてくれるとは、精神的な支えだけではなく、さらに物理的な加害行為も含意していたことは、後に明らかになる。
薫が言う「哲学的な意味」は、ショペンハウアーの哲学を指している。薫はショペンハウアー哲学の核心部分を、生きているとは実は眠りにすぎず死後に真実の生が始まる、と理解していたようであるが、その論点は本拙論と直接接点がないのでコメントは避ける。だがそれはそれとして、生死の関頭に立つ薫に、ショペンハウアーがどれほどに役立つというのか。ましてや「宮子さんがつくってくれた道筋」なぞは、薫にとって何の役にも立たないのを、薫は三原山の山頂間近にいて知った。自死には、現状脱出へ向けてなにがしかのロマンが――たとえそれがどれほど稚拙で、空想的であろうと要る。
それとも、狂気に陥る以外不可能なのか。織田薫は極限状況のなかで死の恐怖と闘っていて、周囲のことが一切眼に入らない。鳥居哲代は神や悪魔の観念に取りつかれて、自分自身を見失っている。折しも、二人は山頂へ達した。
山頂から見下ろす火口はいたるところから白煙を立ちのぼらせて、さながら地獄の様相であった。寒さで唇が紫色に変わった薫が、哲代の後について溶岩原を慎重に降りていく。ここは硫黄の臭いが濃く沈殿している。振り仰ぐと、内輪山の稜線ははるか上にある。薫を誘導するかのように先に歩いていた哲代が、突然、屏風のようにそそり立っている岩壁を指して、「砂川さんはあそこを選んだのよ」と振り向きながら薫へ叫んだ。あのとき、宮子はここからあっけないほど簡単に消えたのであった。だが、急勾配の砂地にかろうじて身体を支えながら、極限状況に耐えていた薫は、「ああ、死ねない、死ねない」と絶叫した。
唐突に、織田薫は鳥居哲代の足許に膝をついた。鳥居哲代のズック靴を両手でしっかり押さえ、四つん這いのような恰好になった。(p299~300)
「私を突き落として。あなたにはそれが出来る。それが出来る人だから、私はあなたとこうしてきたのよ。さあ私を突き落として。鳥・居・哲・代――」(p299~300)
「私はへりに立つわ。火口のほうをむいて、あなたに背をむけて。私は眼をとじて、数をかぞえるわ。一つ、二つ、三つ—–って。いくつまで数えたら、あなたはえ私の背を突いてくれるかしら。私の年の、二十一? それとも百二十一? あなたの力が私の背に加わるまで、私は百でも二百でも五百でも千でも数えつづけるわ。さあ、私は立つ。そして数えはじめる」(p301)
織田薫は数える。待っている。強迫している。声が「二十、二十一」と言った時、昨夜船中で体験したあの不快な感覚が、鳥居哲代の内部から盛りあがり、噴き出てきた。次の一瞬、それは“快”と感じられた。「何でもできる」という思いが哲代の身体を駆けめぐった。哲代は薫の背中を押した。鳥居哲代はこのようにして、ついに薫の自殺を「助けた」のであった。あらゆる制約を越えて「何でもできる」という考えが、哲代を幇助者から加害者にした。そのことで彼女は何を獲得したのか? 彼女の心に平安が訪れたのか。何か満足できたのか?
哲代は薫がどのような姿勢で落ちていったのか見もせずに、曇天の中を一人戻りはじめた。下山する哲代の様子は、詰襟を着た大学生によって目撃された。本拙論の冒頭に紹介した大島警察署の供述がそれである。
さて、この大学生とは何者なのか? この大学生が本編で果たす役割を考察して、本拙論を終えよう。
終章 詰襟の大学生
この事件は一人の大学生が地元警察者へ出頭して明らかになった点は、本拙論の冒頭に記した。大学生は本編の重要場面でいくどか登場する。しかも彼は、哲代が三原山へ向かうときにだけ出現する。彼は宮子に同行したとき一回、薫に同行したとき三回、哲代に出合っている。事件の経過を追って、大学生の登場場面を確認しておこう。
鳥居哲代が大学生をはじめて見たのは、砂川宮子と東京へ向かう夜行列車の中であった。偶然のことではあったが—-勿論、作家による綿密な計算のうえで—-同じ車両の同じボックス席で、哲代は大学生の隣に坐った。彼はオーヴァーがないらしくよれよれの制服だけで寒そうに坐っていた。二人の二度目の出合いは、四章で詳述した船中での哲代の嘔吐の場面である。哲代と薫は菊丸という小さな船で大島へ向かったのだが、同じ船に大学生も乗り合わせていた。
この二度目の出合いはあまりにも偶然が過ぎはしないか。砂川宮子との自殺行の時、同じ列車の、同じ車両の、同一ボックスで哲代と大学生が隣り合わせに坐ったこと自体、奇縁というべきなのであるが、しかしこの出合いはまったく不可能とは言い切れない。そうしたことも極めてまれに起こりうるだろう。しかし、哲代と薫が乗った菊丸という小さな船に大学生が乗り合わせて、二人と同じように大島へ向かうとなれば、大学生は二人が大島へ行く日時、便船を予め知っておかなければ不可能であろう。高橋たか子という作家は、登場人物の自然な行動にそって物語を展開させるのではなくて、逆に、物語にあわせて登場人物を動かす傾向がある。この点は【Ⅲ】で言及しておいた。本編の哲代と大学生の出会いも同じ欠点がみられる。
偶然はさらにつづく。夜通し不眠と嘔吐に苦しめられた哲代と薫は下船する、すぐに仮眠をとるために旅館へ入った。部屋へ案内された時、哲代は大学生とすれ違った。偶然はさらにつづく。哲代と薫が三原山の頂上近くへ着いた時、上から降りてくる足音がした。
(哲代が)顔をあげると、またあの大学生に出会った。眼鏡の奥の眼が、じいんと音でも立てるふうに見る。度のきついメガネなのか、眼がひどく小さくみえ、それにもかかわらず厚かましく見ている。大学生が立ち止まったので、鳥居哲代は三メートルほどの間をおいて、立ち止る羽目になった。(p295)
この引用から明らかなように、大学生は哲代をじっと見つめた。哲代も大学生を正面から見た。三原山の山頂近くで、二人は互いの存在を意識したわけである。溶岩火口へ姿を消した薫を後にして哲代が一人下山する最中にも、大学生は哲代に会っている。懐中電灯のかすかな光をちらつかせながら、あらゆることに無感覚な様子で下山する哲代に、大学生は強い印象を受けた。最後に、下山した翌日、東京行きの船を待つ元村港でも大学生は哲代に会っている。
大学生は“無名氏”として登場している。彼は校章をつけた詰襟の制服を着ているので、哲代は彼を大学生と判断したのだが、本人が大学生と名乗ったわけではない。作家は大学生の個性を特徴づける記述をほとんどしていないし、彼の生活歴についてはまったく語っていない。彼は終始沈黙を守って“黒子”に徹している。大学生が口を開いたのは、二つの自殺事件が終った後である。事件の進行中、大学生は沈黙を守っていた。大学生は哲代に対してのみ現われる。自殺した宮子や薫との関係では現われない。しかも、彼は哲代の運命を決する重大局面に必ず現われる。山頂付近で降りの大学生と登りの哲代がすれ違う場面が、好例である。
以上の諸点を確認したうえで、さて、この人物は何者であろうか?
この大学生は作中において“実在する”人物とみていいのだろうか。本編から受ける大学生の印象には、たしかに、実在感を伴った人物として造形されているところも散見される。宮子との自殺行のとき、大学生は敗戦後の日本社会の変化にすばやく対応するかのように、「日米会話」の本を読んでいる。また、上に引用しておいたように、大学生は度のきつい眼鏡の奥から、「じいんと音でもたてるふうに」、「厚かましく」哲代を見た。また、二人は「三メートルの間をおいて」対峙したのである。しかしながら、この大学生を実在する人物と見てしまうと、大学生と哲代の偶然の出会いがいかにも不自然であって、興趣を殺がれる。度重なる二人の出会いは、作家のプロット設定のミスになりかねない。
大学生についてもうすこし調べてみよう。大学生が哲代へ向ける関心は、旅先で普通青年が女性に寄せる好奇心とは明らかに異質である。たとえば先に記したところだが、山頂付近で大学生は哲代を至近距離からまじまじと見ているのである。このように大学生は哲代に特別な関心を示している。大学生は哲代の内面生活のどこかで繋がっているらしい。大学生は哲代の運命に特別な関心を抱いている、と言ってもよかろう。現に、大学生は東京へ帰る船中で、事件の推移を知るために「もう一晩とどまらなかった」ことを後悔したほどであった。
では、大学生を哲代が抱いたイルージョン(幻視と幻影の両義)と見ることはできまいか。大学生は、哲代の精神が極度の緊張に達したときに現われる。哲代の内的苦悩が極点に達した時大学生が現われるとするならば、この推論をもう一歩進めて、哲代の内部に残された最後の“良心”とでも言うべきものが、「詰襟の制服を着た」大学生というイルージョンとなって現われた、見ることもできよう。大学生の出現を哲代が抱いた幻影、もしくは幻想と解すれば、二人のあまりにもタイムリーな出合いは一応説明がつく。この解釈は、作家による過剰な出会いの不自然さを穴埋めしてくれるだけではなく、さらに、哲代の内的苦悩の深刻さにもスポットを当てて、鳥居哲代という人物の理解に深みを与える可能性もある。
しかしながらこの解釈には無理がある。大学生の存在を哲代のイルージョンと見てしまうと、本編冒頭の大学生の証言が空中分解してしまう。大学生は警察署で下山する哲代の様子をリアルに、詳細に語っている。この点を踏まえれば、大学生はどうしても作中で“実在する”人物と考えなければならない。大学生の証言も含めて本編「序章」は、『誘惑者』という小説世界の導入部であるとともに、この小説世界のいわば外枠を固めている部分でもある。「序章」で重要な役割を果たしている大学生を、哲代のイルージョンと解すると、この小説の輪郭があやうくなる。
なぜ大学生はこうまで哲代に深い関心を持つのだろうか。知的で、寡黙で、鋭い観察眼を持って哲代を見る「詰襟の制服を着た黒淵の眼鏡をかけた」この大学生を、哲代の運命に関心を寄せる神、もしくは神の代理人と考えるのはどうであろうか。大学生の風貌がどことなく神父の印象を与える。神の代理人である大学生が、哲代の精神の危機の折々に、哲代に臨在して彼女の行動を注視しているのか—–。
だが、大学生を神の代理人と仮定すると、本編は作家の創作理念から大きく外れてしまう。大学生は哲代の行動にただならぬ感触を得、強い関心を寄せながら、しかし、哲代へ向けて警告を発するような、あるいは制止するような積極行動は一度もとっていない。哲代に臨在するかにみえる神は、一貫して沈黙したままである。「神の沈黙」というテーマは信仰者にとって極めて重い課題ではあるが、しかし、本編の作家はこのテーマについて確固とした一つの選択をしていたのである。作家が本編の執筆中に、カトリックの洗礼を受けたことはすでに述べておいた。作家が神の沈黙というテーマから遠い地平にいたと想定して間違いあるまい。
大学生は哲代のイルージョンでもないし、神の代理人でもない。そうであれば、大学生は事件の詳細な目撃者と考える以外ない。大学生と哲代の出会いがいかにも不自然で、興趣を殺がれるが、本拙論では、大学生を“目撃者”と見ておきたい。
本編冒頭へ戻る。
織田薫の自死を見定めた鳥居哲代は今、幽鬼さながら忘我の態で麓へ降っている。彼女は二人の友人の自殺の見返りに、「死の論理」を獲得したのか? それとも出来なかったのか? いや、そもそもかかる論理を得ようとする試み自体が、人間の心性に対する犯罪である事を、哲代は自覚できたのか、それとも出来なかったのか。神を選択した作家・高橋たか子の生き方が回答を示しているようである。(了)
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