ついに宗教をも・・・習近平政権の言論・思想弾圧広がる
- 2016年 5月 2日
- 評論・紹介・意見
- 中国田畑光永
新・管見中国11
中国・習近平政権の言論・思想弾圧がとめどなく広がっている。当初はなかば冗談で言われた「文革(文化大革命)の再来」といった表現も、それこそ冗談ではなくなってきた。
4月20日、世界各国の報道の自由度を判定し、毎年、ランクをつけて発表する「国境なき記者団」が今年のランクを発表した。それによると中国は全180か国中176位(それ以下には北朝鮮、シリアなど4か国のみ)と判定された。
これについて『人民日報』傘下の『環球時報』紙は早速21日の「社論」(社説)で「この組織は米国のCIA(中央情報局)や民主基金会、その他いくつかの国から資金援助を受けている。・・・中国を標的にしている」と、その政治的な狙いを攻撃し、「金色のプロペラをつけた鈍重な飛行機のようなもので、音はうるさいが、高くは飛べないしろもの」と憤懣をぶちまけた。世界第2位の経済大国を売り物にしている政権としては、この判定がはなはだ面白くないことは分かる。
さてこの日を挟んで北京では言論・思想にかかわる2つの会議が開かれた。
1つは19日の「インターネットの安全と情報化」についての座談会、もう1つは22、23の両日にわたった「全国宗教会議」である。いずれもトップの習近平が出席して「重要な講話」を行った。
中国では一昨2014年の2月に「インターネットの安全と情報化の指導にあたる中央小組」という組織がつくられ、習近平自らがその組長、李克強首相とイデオロギー担当の劉雲山中央書記処書記の2人が副組長についている。それだけで政権がいかにネット世論を重視しているかが分かろうというものである。
この会議で習近平は党・政府の幹部に対して「民意に耳を傾けて、民衆の望みを理解せよ」、「ネット上の善意の批判については、党や政府の仕事に対するものであれ、幹部個人に対するものであれ、またおだやかなものであれ、耳に痛い言葉であれ、いずれも歓迎するだけでなく、真面目に研究し、吸収せよ」と呼びかけた。
問題はこの呼びかけをどう受け取るかである。香港の一部では最近のきびしい言論統制をやや緩めようというサインではないかと好意的に見る向きもあるが、私にはそうは見えない。独裁政権であればあるほど、それこそ民衆が腹の中でなにを考え、なにを望んでいるかを知りたいのが道理だから、この呼びかけは当然のことに過ぎない。
昔、建国間もない1950年代後半、毛沢東は国民に共産党批判を呼びかけた。始めはなかなか口を開かなかった民衆もやがて党に対する批判を口にするようになり、それはますます激しくなった。すると毛沢東は態度を一変、「批判を呼びかけたのは『蛇を穴からおびき出すための(引蛇出洞)策略』だった」と自ら公言して、党批判の先頭に立った人間たちを「右派」として弾圧した。有名な「反右派闘争」である。
この故事に照らすなら、ここで習近平が「善意の批判」と言っているのは親切である。歓迎されるのは「善意の批判」なのであって、「悪意」があると受け取られれば、どんなしっぺ返しがくるか分からない。だから、これはけっして統制を緩めるものではない。もっともそんなことはちょっとものを考える中国人にとっては言わずもがなであろうが。
それがはっきりしたのが、次の「全国宗教会議」である。この会議は本来、国家主席が出席するような会議ではない。例年は国家宗教事務局という役所の局長が主宰するのであるが、ウイグル族の一家が天安門に車で突っ込んで焼死した事件があった2001年に当時の江沢民国家主席が出席したことがあった。したがって今回、習近平が出席したのは15年ぶりということになる。
つまりそれだけ宗教が政権にとって重要な意味を持つようになり、それにどう対処するかを最高首脳が明らかにする必要があったわけである。
習近平は何と言ったか―「新しい情勢のもとわれわれは中国の特色ある社会主義宗教理論を堅持し、発展させ、・・・我が国の宗教工作が直面する新状況、新問題を研究しなければならない」
ここで目につくのは「新しい情勢、新状況、新問題」と3つ重ねの「新」である。なにが「新」か。おそらく世界的に波風が絶えないイスラム教をめぐる動向が国内のイスラム教徒に波及する可能性と、漢民族の間での仏教やキリスト教の信者の大幅な増加、この2点が3つの「新」の内容であろう。確かにこれまでになかった状況といえる。
それではそれに対処する「中国の特色ある社会主義宗教理論」とはいかなるものか―
「宗教を社会主義社会にふさわしいものに積極的に導くとは、信者大衆に祖国と人民を熱愛し、祖国の統一と中華民族の大団結を守り、国家の最高利益と中華民族全体の利益に服従し、中国共産党の指導と社会主義制度を擁護し、中国の特色ある社会主義の道をしっかりと歩み、社会主義の価値観に積極的に従い、・・・中華民族の偉大な復興と中国の夢を実現するために力をささげさせることである」
結局、なんのことはない。宗教者であろうと一般の中国国民と同じ価値観で同じ目標に向かってお国のために尽くせ、ということである。そして、「愛国主義、社会主義の旗のもとに宗教界と統一戦線を結成することは、わが党が宗教問題を処理するにあたっての鮮明な特色であり、政治の優勢なのである」と、宗教界をほとんど政治結社扱いである。
それだけではない。中国の憲法では「宗教を信ずる自由と信じない自由」がともに保障されているのだが、共産党員には「信ずる自由」が認められず、「共産党員は確固としたマルクス主義無神論者でなければならず、・・・絶対に宗教の中に自己の価値と信念を求めてはならない」と戒めている。
もともと唯物史観を普遍的な真理とする(はずの)共産主義者と個人の救いを精神生活の中に見出そうとする宗教者(大雑把な言い方だが)とは相いれない。しかし、中国でも国民が精神生活において宗教を信ずることを(文革の一時期を除いて)特に制限はして来なかったし、それを国家目的に従属させようなどとはして来なかった。
ところが習近平の「中国の特色ある社会主義宗教理論」は人間の宗教を信ずる心を尊重するところのまったくない、まさに「中国権力者の特色ある宗教理論」である。拝金主義が社会の隅々にまで充満し、一方では格差がとめどなく広がる中で暮らす中国の庶民が宗教に精神的支えを求めるのは、よそ目にも理解できるが、それをしも「中華民族の偉大な復興」とやらの国家目的に捧げろというのは、何たる傲慢か、と天を仰がざるを得ない。
こんな「重要講話」で増え続ける仏教徒やキリスト教徒、はたまたウイグル族やカザフ族のイスラム教徒、チベット族のチベット仏教徒を心服させられると思っているのだろうか。おそらく思っていないのだが、なにか言わなければならないと習近平を焦らせる状況があるに違いない。(160429)
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