「小さな人権」そこをのけ、「大きな人権」のお通りだ。-自民改憲草案の基本思想
- 2016年 5月 24日
- 時代をみる
- 澤藤統一郎
本日の毎日新聞夕刊第2面・特集ワイド欄に、「自民党『憲法改正草案Q&A』への疑問」「緊急時なら制限されてもいい…?『小さな人権』とは」という記事。
http://mainichi.jp/articles/20160523/dde/012/010/006000c
冒頭の一文が、「思わず首をかしげてしまった。『大きな人権』と『小さな人権』が存在するというのである」。この一文を読んで、思わず膝を打ってしまった。そうだ、「大きな人権」も「小さな人権」もあるものか。
この記事は、記者の次の問題意識から、展開されている。
「この表現(『大きな人権』と『小さな人権』)は、自民党が憲法改正草案を解説するために作成した冊子『改正草案Q&A』の中で見つけた。大災害などの緊急時には『生命、身体、財産という大きな人権を守るため、小さな人権がやむなく制限されることもあり得る』というのだ。そもそも人権は大小に分けることができるのだろうか。」
大きな人権を守るために犠牲にされる「小さな人権」の内実はいったい何だ。という記者の問いかけが新鮮である。この疑問を掘り下げることで、自民党改憲草案の本質をえぐり出している。アベ改憲許すまじの結論なのだ。
「Q&A」では、緊急事態条項解説の個所にだけ出て来る「大きな人権と小さな人権」の対比。もちろん、「大きな人権を守るために、小さな人権の制約はやむを得ない」という文脈で語られる。
「Q&A」の表現は、「『緊急事態であっても、基本的人権は制限すべきではない』との意見もありますが、国民の生命、身体及び財産という大きな人権を守るために、そのため必要な範囲でより小さな人権がやむなく制限されることもあり得るものと考えます」というもの。底意が見えている。
改憲草案の作成に深く関わったという礒崎陽輔・党憲法改正推進本部副本部長の言も紹介されている。
「国家の崇高で重い役割の一つは、国民の生命、身体、財産を守ることにある。小さな人権が侵害されることはあるかもしれないが、国民を守れなければ、立憲主義も何もない」というのだ。こちらが、より本音があらわれている。
自民党が「小さな人権」として語っているものは、実は個人を主体とする基本的人権である。普通に語られている「人権」そのものなのだ。これは、「侵害されることはあるかもしれない」と位置づけられている。要するに、大切にはされていない。
これに対置される「大きな人権」とは、「国家の崇高で重い役割」によって保障される「国民の生命、身体、財産」という価値である。実は、この「大きな人権」の主体は個人ではない。ここでいう「国民」とは、個人としての国民ではなく、集合名詞としての国民全体にほかならない。
自民党は、「個人」が大嫌いで、「国家・国民」が大好きなのだ。だから、現行日本国憲法のヘソというべき第13条「すべて国民は、個人として尊重される」を、わざわざ「全て国民は、人として尊重される」と、「個」を抜いて書き直そうというのだ。憲法からの「個人」の排除である。個人よりは国家社会優先という姿勢を隠そうともしない。
大きな人権とは、国家や国民全体の利益をいうのだ。「全体は個に優越する」。「全体のために、個人の利益が制約されることはやむを得ない」。「大所高所に立てば、個人的利益の擁護に拘泥してはおられない」。これが自民党改憲案のホンネ。
戦前は、もっと露骨だった。「忠良なる汝臣民」は、天皇のために死ぬことが誉れとされた。個人ためではなく、君のため・国のために生きることが道徳とされ、天皇の軍隊の兵士として死ねとまで教え込まれた。これが、富国強兵時代の国家主義思想である。
この「君」「国」が、今自民党改憲草案では「(集合名詞としての)国民」の「大きな人権」に置き換えられている。
「緊急事態には、『国民の生命、身体及び財産という大きな人権』を守るために、必要な範囲でより小さな人権がやむなく制限されることもあり得る」は、俗耳に入り易いようにと言いつくろったレトリック。本音は、「国家社会が全体として危機にあるとき、個人の人権擁護などと悠長なことを言ってはおられるか」ということだ。
阪口正二郎一橋大教授(憲法学)が、紙上でこう解説している。
「人権に大小の区別はありません」。「緊急時に表現の自由が『小さな人権だ』として制限される可能性がある」「緊急事態条項の目的は国家を守ること。『危機にある国家を守らねばならないから、国家を批判する言動は控えろ』と、表現の自由などの人権を制限しかねない。個人の人権よりも国家の意思を優先させ、物事を進めたいのが本音ではないでしょうか」
自民党の改憲草案は、緊急事態に限らず、「国家社会を優先」「そのための安易な人権制約」の思想に貫かれている。「国家あっての人権」「安全保障が確保されてこその人権」「国家の秩序、社会の安寧が保たれてこその、その枠内の自由であり人権」という戦前回帰型思想である。これが、戦後レジームからの脱却の中身。
個人の人権を、ことさらに「小さい」と形容する自民党・アベ政権は、国家主義・全体主義の見地から、人権軽視の改憲を目論んでいると指弾せざるをえない。この姿勢は、国のために死ぬ兵士を想定した、戦争のできる国作りにも通じる。
「大きな時計と小さな時計、どちらも時間はおんなじだ。」にならって、「大きな人権小さな人権、どっちも値打ちはおんなじだ。」というべきであろうか。いや、「大も小も区別ない、みんな同じ価値の人権だ」というべきであろう。
(2016年5月23日)
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2016.05.23より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=6918
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