原爆、オバマの折り鶴、プーチンの十字
- 2016年 5月 30日
- 評論・紹介・意見
- 岩田昌征
5月27日、アメリカ大統領オバマ氏は、広島原爆資料館を訪れた際、御手製の折り鶴2羽を出迎えに出た小中学生等に手渡し、2羽を資料館に贈った。人々は、そこにパフォーマンスと言うよりも、彼の気持を感じた。
私=岩田は、このニュースを読んで、2年前2014年6月にフランスで催された「ノルマンディー上陸作戦70周年記念式典」のあるシーンを想い起こした。式典には、オバマ氏、プーチン氏、キャメロン氏、メルケル氏等18ケ国の首脳達と3000人の退役軍人等が参列していた。ここで、日本民族派一水会機関紙『レコンキスタ』(平成26年7月1日)を引用しよう。「会場で行われた2000人による戦争の歴史表現をするパフォーマンスの中で、大きなスクリーンに描き出された広島原爆投下の映像が出たときのことである。・・・・・・。会場は大きな拍手(=強調は岩田)に包まれた。中でもオバマ大統領はガムを噛みながら拍手するという実にぞんざいな態度で、無差別殺戮である原爆投下の当事者国であるということすら忘却した振る舞いであった。一方、プーチン大統領は原爆投下シーンに拍手することもなく、むしろただ一人胸で十字を切り、祈りを捧げた。この光景にプーチンとオバマ両大統領の資質の差が如実に表れたのである。」
かつて原爆投下シーンに拍手したオバマ氏が今日4羽の手製の折り鶴を広島にプレゼントした。私のウォーム・ハート(warm heart)は、かつて大きな拍手につられて拍手してしまったオバマ氏が2年後個人としての心を折り鶴に表現していると解釈したい。プーチン大統領が原爆投下シーンで十字を切ってくれた事、オバマ大統領が折り鶴を贈ってくれた事に常民的人間性を感じる。私のクール・ヘッド(cool head)は、日本市民社会が広島・長崎の悲劇を語る時、ジェノサイド(人種・民族・国民・宗教等の構成員の全部、または一部に対する計画的集団虐殺・抹消行為)であると規定しないらしいことが理解できない。1995年7月にボスニア・ヘルツェゴヴィナのスレブニツァでセルビア人共和国(セルビア共和国ではない。念の為)軍が1週間にわたって実行した掃討作戦=落武者狩りは、国際司法裁判所でジェノサイドであると判決が出されている。とすれば、7千人~8千人の虐殺がジェノサイドである以上、広島・長崎の大量一挙無差別殺害をジェノサイドと呼ぶのが適切な表現であろう。それなのに、私の見落としか、広島・長崎に関しては、今回も亦、ジェノサイドなる表現は目にしなかった。何故か。自分達が大東亜の諸地域で行ってしまった大量の加害行為――あの大きな拍手の原因――を知ってしまった私達日本人は、ジェノサイドの被害者として自己規定するのは、私達の加害者としての過去を忘却することに直通するという反省・自省の故であろうか。
ところで、私のウォーム・ヘッドが何を思い、クール・ハートが何を感じるか、それは人前に出せない。
平成28年5月30日(月)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion6121:160530〕
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