安倍晋三の生い立ちから見るその本質― 野上 忠興著『安倍晋三:沈黙の仮面の下の素顔』を読む(2)
- 2016年 6月 4日
- 時代をみる
- 安倍盛田常夫
中途半端な青春時代
安倍晋三は他人の言動を理解しようという姿勢に欠ける。議論を戦わすことを避けて、思い込んだことを一心に貫こうという頑なさがある。批判から学ぶことがない。それは自らの論理を展開し、相手を論破するだけの自信がないからである。頑なさが安倍の政治的資質だとすれば、それは確固とした思想や歴史・社会観がないからである。だから、思い込みを一途に守るという頑なさと同時に、目先の利益のために簡単に基本政策を曲げることにも通じる。深い勉学に裏付けられた信念や思想がないからである。
著者の野上氏は安倍晋三の政治姿勢に危惧を抱いている。深い議論や思想に基づかないで、戦後日本が守り続けてきたものを簡単に崩してしまう政治手法のベースには、安倍の勉強不足があるという。安倍の政治姿勢に柔軟性がなく、乱暴な政治手法を厭わないのは、深い歴史観や社会観を形成し鍛える勉強を経験していないからである。野上氏が大学時代の恩師の一人にインタビューした時の返答が、それを物語っている。
「安倍君は保守主義を主張している。それはそれでいい。ただ、思想史でも勉強してから言うならまだいいが、大学時代、そんな勉強はしていなかった。まして経済、財政、金融などは最初から受け付けなかった。卒業論文の枚数も極端に少なかったと記憶している。その点、お兄さんは真面目に勉強していた。安倍君には政治家としての地位が上がれば、もっと幅広い知識や思想を磨いて、反対派の意見を聞き、議論を闘わせて軌道修正すべきところは修正するという柔軟性を持って欲しいと願っている」。
晋三の学歴に箔をつけるために計画されたのが米国留学である。現在は削除されているが、長い間、安倍晋三の公式HPには、成蹊大学法学部卒業後、南カリフォルニア大学政治学科に2年間留学という履歴が掲載されていた。最初の1年は大学外の語学学校に通い、2年目から大学に通ったとされるが、専門科目の単位は1単位も取得していないという。要するに、この留学は正式な大学入学ではなく、外国人用に設置されている英語コースに数セメスター在籍しただけのようだ。受講料を払えば、誰でも受けられるコースである。勉学に勤しむどころか、ホームシックにかかり、日本の家に頻繁に電話するので電話代がかさみ、父晋太郎に叱られたエピソードなどは週刊誌などで詳しく報道されているのでその顛末は記さないが、安倍は米国留学を中途半端な形で終え、挫折感を抱えながら日本に戻った。
ちなみに、同様の留学詐称は、漢字が読めない麻生太郎も同様で、学習院大学卒業後、スタンフォード大学大学院とロンドン大学政治経済学院に留学した履歴がHPに掲載されていた。しかし、これも現在、完全に削除されている。安倍の留学と五十歩百歩だったのだろう。
安倍はアメリカから帰国後、父晋太郎のコネで神戸製鋼に入社した。しかし、期限付きのコネ就職で入社した人物など、会社にとってお荷物以外の何物でもない。安倍晋太郎の顔を潰さないように、腫れ物を触るように扱う社員にできることは限られている。このよそよそしい会社員生活も2年ほどで終わってしまった。なんとも中途半端な青年時代だ。
晋三は中途半端な大学・留学生活や社会人生活を経験しただけで、父晋太郎の秘書になった。そのようなヤワな人物が政治の世界で活躍できる余地はなかったが、父晋太郎の政治的遺産が自民党を代表する政治家に押し上げた。
本書には安倍晋三がどうやって百戦錬磨の政治家がひしめく自民党をのし上がることができたのかが詳しく描いてあるが、それに興味はない。関心ある読者は本書で確かめることができる。
確信に欠ける主張と目先の関心
第一次安倍内閣で終わっていれば、安倍晋三の人生は誰の目から見ても、すべてにおいて中途半端な人生に過ぎなかった。ところが、満を持して再登板した第二次安倍内閣はアベノミクスと安保法制で、安倍晋三はついに「中途半歩」を克服し、変身したかのように見えた。それまでの中途半端な人生に一矢を報いたかに見えた。しかし、安倍晋三は基本的に何も変わっていない。
安倍晋三とそれを支える極右派は、戦前の日本の侵略や植民地支配を否定するという歴史修正主義と、円安誘導と株式市場の高揚のためにあらゆる政策を動員するという近視眼的経済政策に依拠している。景気高揚感を醸成し、政権への国民の支持を確固なものにしてから、憲法修正へと道を進める予定だった。その過程の中で、戦後70年の節目に村山談話を否定する談話を狙っていた。しかし、談話の諮問機関である「21世紀構想懇談会」の北岡伸一座長代理から、「侵略を否定することはできない」と主張され、不本意にも、文言上は村山談話のキーワードを羅列せざるを得なかった。もっとも、これは安倍晋三の確信のなさというより、日本の極右勢力の歴史観や社会観の脆弱さを示したものだ。極右の論客は安倍談話を後退させた北岡氏を批判したが、まともな学者であれば、右派であれ左派であれ、戦前日本の帝国的侵略や植民地支配を否定することはできない。安倍談話が中途半端に終わったのは偶然でなく、安倍晋三の浅はかな思いが露呈されただけのことだ。
経済政策においても、馬鹿の一つ覚えのように、デフレ脱却と景気高揚を唱えるだけで、これからの50年、100年を見据えた社会経済政策など思いもよらない。一時の現象に拘り、本質を見失しなっては道を誤る。もっとも、これは安倍の責任というよりは、短期的思考の経済政策しか考えつかない安倍内閣御用達の経済「学者」の責任だが、安倍にとって、国家百年の計を考えるより、公金を使って株式市場を押し上げる方が理解し易いだけのことだ。一時的な株高と円安に、「してやったり」と上機嫌になっていたが、日銀資金を野放図に国債市場に投入し、年金資産を株式につぎ込んで大きな損を抱え込むのは、親が築いてきた資産を馬鹿息子が博打ですってしまうのと同じだ。一時の儲けに目がくらみ、全財産をすってしまっては元も子もない。選挙で負けるから、消費税の引き上げを再延期するのも同じ思考である。安倍晋三の浅はかな思考はまったく変わっていない。そういう政治家に国の将来を任せている国民は、政治家を見る目がないと言われても仕方がないだろう。
トランプ大統領の出現に一喜一憂するより、馬鹿な政治家が将来の日本に残すべき資産や社会的財産を食いつぶしていることを心配するべきだろう。
(野上忠興著『安倍晋三:沈黙と仮面の下の素顔
―その仮面と生い立ちの秘密』は小学館2015年刊)
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