(和訳)イズラエル・シャミール著 日本でのオバマ
- 2016年 6月 14日
- 時代をみる
- 童子丸開
バルセロナの童子丸開です。
シャミールの新記事「Obama in Japan」を和訳(仮訳)しましたのでお知らせします。
いつも読む者をはっとさせる鋭い切り口のシャミールの文章ですが、今回は特に、彼が過去に3年間を過ごして、今年再び訪れた日本に関する記事です。
訳文の後ろに私からの「翻訳後記」も掲げさせております。
どうかご拡散のほどを、よろしくお願いいたします。
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http://bcndoujimaru.web.fc2.com/fact-fiction2/Obama_in_Japan.html
(和訳)イズラエル・シャミール著
日本でのオバマ
今回ご紹介するのは、ロシア系ユダヤ人の作家・ジャーナリスト、イズラエル・シャミールの最新作の和訳(仮訳)である。
Obama in Japan (ISRAEL SHAMIR • MAY 30, 2016)
http://www.israelshamir.net/English/ObamaInJapan.htm
当サイト『現代世界:虚実の皮膜 』の中で、私は複数のシャミールの作品を和訳しているが、直接に日本について語っている文章は初めてである。実は彼は1970年代にイスラエルのハアレツ紙の特派員として日本に滞在していたのだ。その後に彼は反シオニズム運動に身を投じて、ユダヤ教からキリスト教(ギリシャ正教)に改宗し、追われるようにイスラエルから出てスウェーデンに向かい、そして今は生まれ故郷のロシアに戻っいる。
内容はお読みいただくとして、訳文の後に私からの「翻訳後記」をつけておいたので、どうかご笑覧いただきたい。
2016年6月7日 バルセロナにて 童子丸開
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日本でのオバマ
イズラエル・シャミール 2016年5月30日 2100語
【写真:吉野山で満開の桜の前でスマホを手にする人々 http://www.israelshamir.net/English/clip_image001.jpg】
私はオバマの訪問を下見するために日本にやってきた。彼は、G7の外相たちが広島での会議に集まるとき、国務長官ジョン・ケリーに伴われてやってきたのだ。彼は謝罪すべきだと人々は言った。ケリーがこの都市への核攻撃を謝罪をしたと思う人はいないのではないか? オバマもまた謝罪しなかった。アメリカ人たちは絶対に謝らないし、そんな思考は消し去る。愛とは、決してあなたに謝罪を求める必要のないことを意味するし、そのようにして彼らは世界のアメリカ以外の部分と愛し合っているのだ。そうでないのなら、どうしてアメリカ人たちが世界をあんなに暴力的に引っ掻き回しあんなに激しく所有したいと望むだろうか?
とはいえ、私は謝罪に賛成しているわけではない。ユダヤ人たちはドイツ人に謝罪を求めず、カネを要求した。ドイツ人は極めて多額の支払いという無念さに耐え忍んだ。アメリカ人たちは、支払い要求を添え書きとして付け加えたいと望みながら、トルコ人をだまして謝罪させた。トルコ人たちは無念さより安全を好んだ。よく知られているようにアメリカ人たちはベトナム人に対して、その国土への侵略と破壊について決して謝罪しなかったのである。
ただ一度だけアメリカが謝罪したことがあるが、私は実際にその謝罪文をピョンヤンで見た。LBJ(訳注:リンドン・B・ジョンソン) が北朝鮮の海域にスパイ船プエブロを送り込んだことに対して謝罪したのだが、彼は間違いなく地獄の屈辱感を味わったはずだ。
謝罪する代わりに、オバマは日本の国土からアメリカの占領軍(訳注:本文はthe US occupation troops) を取り除くことが出たのだろうが、彼は決してそうしなかった。戦争から70年たってもアメリカ軍はどこにでもいる。ドイツに、日本に、イラクに、そしてグアンタナモに。ドナルド・トランプも同様に謝罪はしないかもしれないが、しかし彼はアメリカの戦争の犬どもを自国に呼び戻すことだろう。そしてそれは何千もの謝罪よりも重要なことなのだ。
オバマは、そして彼の前にケリーは、広島について「爆撃された」と受動態を使って語った。あたかもそれが自然になされたかのようにであり、そして北朝鮮を世界平和への脅威として描いた。(朝鮮人たちが広島を爆撃したかのように想像する人が出るかもしれない!)彼は、十万人の日本人の男や女や子供と、そして12人のアメリカ人捕虜 のことを、あたかもそれらの数字が比較可能ででもあるかのように、ぶつぶつとつぶやいた。彼は、新世代のあらゆる核兵器を開発する一方で核兵器の廃絶を呼びかけた。彼は、シリアからベネズエラや南シナ海に至るまでの世界中のいたるところで覇権を押し付ける一方で、日本が優勢になることを非難した。(訳注:段落内の強調箇所は原文の強調に一致。)
謝罪はないが自己正当化にあふれている。私はタルチェフ(訳注:モリエールの戯曲に出るペテン師) を演じるオバマを見てみたい気がする。彼は天性のそれなのだ。
多くの日本人にとって、彼の訪問は傷の上に侮辱を加えるものだった。この列島の住民がどんなKKKの賢人がそうだったよりもはるかに黒人を忌み嫌っているからである。私は東京で借りていた集合住宅からたたき出された。単に黒人の学生を部屋に招待しただけでであり、家主のおばさんは、私が彼女とそのご先祖様を侮辱したと、金切り声で非難し続けたのだ。
広島は素敵な街ではない。1960年代と同様で、それは人間の精神にとって偉大だったが、建築にとっては酷い時代だった。こんな街に訪れ、あるいは住んだ人さえいただろうが、魂の抜けた灰色のコンクリート製の家々が建てられた時期である。イングランドでもロシアでも、アメリカやイスラエルでも、スウェーデンとフランスでも、世界中のいたるところでそうだった。日本ではそんな場所はさほど多くない。戦争の恐るべき破壊の後にもかかわらず、この国はその美しさとその独特な性格を保持したのだ。広島は美しい街だったが、それは原爆の前のことだった。私はこの超兵器の身の毛もよだつ恐ろしさに何か付け加えたいとは思わない。アメリカ人たちが東京やドレスデンで、広島より多く、家の中にいる人々を生きながら焼き殺したからだ。
この生きた人間を焼き殺す燔祭は1940年代の実際の真のホロコーストである(訳注:「ホロコースト」の語源は生贄の動物を焼いて神にささげるユダヤ教の燔祭と言われる) 。一方でユダヤ人のそれは1960年代後半に事実を台無しにするために導入されたものだ。一人のベビーブーマーである私は、数多くの映画やイベントのテーマになった広島に涙を流す世界の中で育ったのだが、アウシュヴィッツは知らなかった。それはましな世界だった。私が若かったというだけではなく、我々の生き方の発展やより良い生活の希望がもっと多くあった。アウシュヴィッツが広島を覆い隠したとき、無関心が、後には絶望が、希望を凌駕してしまった。いま、どこででも広島について多く耳にすることはない。日本の中ですらそうで、伝えられるところでは、この国で若い人々の4分の1が原爆を落としたのはロシア人だと考えているそうだ。
私はそれほどに無知な若者に会ったことがないのでそれは単なる推測だと思うが、しかし、広島に原爆を落としたアメリカ人について何かを言う日本人は、一度ならず、その経歴が芽のうちに摘み取られる経験をするだろう。その人は国粋主義者、三島由紀夫の追随者である軍国主義者のカテゴリーに、あるいはもっと悪いものの中に放り込まれるだろう。日本人は非常に用心深い国民だ。自分たちの序列から外れたことについて話すことはしないし、先輩たちに認められないことは口にしない。侍の時代なら不注意な日本人たちは即刻あの世行きになったが、今では首ではなくその経歴をちょん切られるのだ。
広島とマッカーサーの占領はアメリカによる日本植民地化への道の中間地点だった。その始まりは1853年7月8日に江戸湾に入ったペリー提督の黒船によって告げられた。その以前には、日本は隔離された愛すべきスリーピング・ビューティーであり、自分自身の世界に浸り、7世紀に唐王朝から輸入された音楽を(元々の中国ではとうの昔に忘れられたが)奏で、古い寺院の能楽を演じ、桜を光景を俳句に読んだ。
そこにアメリカ人たちが荒々しく近づいた。この国は極めて不機嫌に起き上がり、すぐに近代化して、植民地を作ることで西側の先達たちの真似をし、そして朝鮮、マラヤ、ベトナム、台湾を手に入れ、アメリカの艦隊をゴミ箱行きにして、あらゆる場所に植民者を送った。
1945年の敗北の後、日本の零落は急激だった。どんな国でも広範囲にわたる空爆の中で無事に生き延びることはできない。何世代かの間人々はその暗い影を引きずることになるだろう。それが占領の前に爆撃する理由なのだ。それが日本であれ、イラクや韓国やベトナムであれ。その次に人々は国の精神を追い求める。占領者たちは黒澤明の初期の作品『 虎の尾を踏む男達 』の公開を許さなかった。それが見る価値のある作品だったのに。しかし日本人は信じがたい人々であり、廃墟から自らの国を作り上げ、再び大国となった。
占領は今でも続いている。麗しい沖縄諸島はアメリカ軍の基地となっている。日本人少女たちはアメリカ軍兵士によってレイプされる。最新のレイプと殺害は、オバマ訪問のわずか前に起こった。また財政的なレイプもある。円キャリー取引(訳注:こちら を参照) は、日本経済を弱めウォールストリートの相場師どもを肥え太らせており、それは非常に効率の良いものだ。政治的なレイプもある。独立を求める政治家たちは殺されつつあり、あるいは汚職の嫌疑で逮捕され、あるいは隅に追いやられている。
文化的なレイプがある。アメリカは日本に移民の受け入れを強要する。外国から安いコメを買うことを強要して日本の農民に被害を与える。ハンバーガーとピッツァが日本食に置き換わる。ますます多くの人々が西欧風の住居に住み、ベッドで眠り、肉を食い、ハリウッド映画を見る。外国人たちが、ワシントンが見たいと願うほどには多くないにせよ、浸透してくる。彼らは近隣の国々から、台湾やフィリピンや韓国やマレーシアから主要にやって来る。その多くが日本人と結婚するか非合法状態でとどまっているが、それはこの国に合法的に移り住むことがほとんど不可能だからである。ヨーロッパ人はまれだが、それは日本がもはやファッショナブルではないためだ。
これは損失だ。日本は独自でありすばらしい。それは我々の惑星に現存する唯一の成熟した偉大な代替の文化なのだ。1970年代の半ばに、私は日本で喜ばしい3年間を過ごしたが、その時にはその文化は現在ほどには希薄になっていなかった。私は畳の床にやわらかいキルトで覆われた布団をかぶって寝ることを楽しんだし、完ぺきなご飯と生卵の朝食を食べた。また寒い夜には風呂の熱いお湯で体を温めた。私は花を眺めそして詩を書いた。
私は日本人を称賛し熱愛するようになった。その卓越した正直さと丁寧さのために、その洗練された文化のために、その女性たち―それはその文明の最も優れた産物なのだが―のために、その子供たちの行儀のよさのために、そしてその独特な習慣のために。
いま彼らの子供の数は少ない。やや大きめの日本の都市で一人の子供を見ることすらなく朝から夜まで歩き回ることも可能だ。60年ほど前に、私が日本に住んでいたときなのだが、背中に子供を背負う日本の女性がどこにでも見られた。いまはもう無い。もし子供を抱えた人を見るなら、それは、自分の子供を胸に抱いて妻の後ろを歩く外国人の男性であるように思える。多くの若い日本人たちが結婚と満たされた性生活を諦めて、自分たちのデジタル機器と一緒に過ごすことを好んでいると言われる(私は直接には知らないが)。
私は桜を見るために、オバマではなくケリーに合わせて日本にやってきた。その花が5月の終わりまで待ってくれないからだ。桜は4月初めに花をつけた。西欧の復活祭より十分に後だが、ロシアのぐずぐずした復活祭がやって来るよりまるまる1か月も前のことだった。私はモスクワから飛んできたが、私の心はかじかんでいた。ロシアのいまいましい灰色の3月のためであり、受難節が容赦なく続いていたのだ。それは白い雪もなく、緑の葉もなく、ピンクの花もないうんざりする季節なのだ。太陽の光は分厚い雲を突き通すことができず、裸の木々の枝がネズミのしっぽのように突き出している。
日本は異なっていた。日本の桜の花を一目見た途端、私の手は意図せずに十字を切っていた。ロシア人が教会を見たり奇跡の証言をするときに行う仕草である。そのピンクがかった白い花は一つの奇跡だった。単に審美的な喜びであるだけではなく、透き通るような歓喜であり、約束され満たされた宗教的な昂揚ですらあった。
ところが、ああ。澄み切った心で草の上に座り花を眺めるのではなく、現代の日本人たちはカメラとスマートフォンを花に向けてシャッターを切る。私はもう写真を完全に禁止してやりたいほどだ。ボードレールが言ったとおりだ。映像を貯め込もうとするのではなく、我々はその出来事を生きて経験すべきである、と。
桜の時期は復活祭の聖なる日曜日に近い。その時に人々は「キリストが立ち上がった」と大声で叫ぶ。受難節は過ぎ去り、祭壇の扉は大きく開かれ、僧侶たちは赤い衣装を着て、教会の1年で最良の週、復活祭の週が始まるのだ。復活祭の週は、受難節の長い苦痛の後の、復活祭の不安に満ちた結婚の夜に続くハネムーンなのである。
祝福される日本人にとってこのハネムーンは、雨を考えに入れなければ、不安なしにやって来る。1年のこの時期にはしばしば雨が桜の花を台無しにしてしまうのだが、しかし今年は、日本の神が我々に恵みを垂れ、桜は吉野の山に心を惑わすほどの完ぺきさにまで現れ出ることを許されたのだ。
帝都だった京都から車で1日、この山は日本の文化、歴史、伝統そして信仰の精髄である。私は竹林院の門のそばにある桜本坊で、現代的な格好の日本人たちが、荒々しい土着のバグパイプ(訳注:ほら貝のことか?) の音にあわせて炭火の上で花火を楽しんでいるのを見た。
その近くで私は温泉の露天風呂から、追放された後醍醐天皇の廷臣たちがしたと同じように、桜の花を眺めた。日本は、近年の時を過ごす間にかなり弱められてしまったとはいえ、いまだ偉大な魂のエネルギーの貯水池である。そこからほど近い場所に、源義経公が愛人の静御前と共に身を潜めた隠れ家の名残がとどまり続けている。
敗北した義経公の物語は、日本の愛すべき敗北者として、生の魚肉などよりもずっと、日本の伝統の中にある最も非アメリカ的な部分である。アメリカ人たちは敗北者となることにおびえているのだ。イギリス‐アメリカ人の作家アイヴァン・モリス(訳注: こちらを参照)はそれについて「The Nobility of Failure (高貴なる敗北 )」と呼ばれる、日本文化に関する最高峰の一つである本を書いた。アイヴァン・モリスは広島に最初に訪れた外国人の一人であり、自分の天皇のために死ぬことを欲した愛国主義作家の三島由紀夫と親友だった。
アイヴァン・モリス、アーサー・ウェイリー、ラフカディオ・ハーン、レジナルド・ホーラス・ブライスといった西欧人たちは、ペリー提督の黒船よりもはるかにましなやり方で、我々に日本を開いてくれた。これこそが、国々と文化がお互いに開かれ合うべきあり方なのだ。すべてのものを単一の消費社会に成型させることによってではなく、注意深く見入り、独自性を保存することによってである。
世界には本来の多様性がそれほど多く残ってはいない。私はイギリスとは異なるフランスをずっと目撃してきた。ちょうど1960年代の映画に見ることができるようなものだ。私は古いパレスチナをずっと歩いてきた。私はスウェーデン人のスウェーデンを経験した。私は日本人のように日本に住んだ。今日、それらの相違はかき消されつつある。そしてそれは人類にとって大きな損失なのだ。実際にアメリカに対して持たれる主要な異議は、それが巨大な世界文化の単一化力、均一化力として働き、あらゆる多彩色に変えて単一の色を生み出しているということだ。
伝統を守り多様性を再び手に入れることは不可能ではないが、そのほとんどの範囲まで、あなた方アメリカ人に、あなた方が大波に抵抗するのかどうかにかかっている。他の誰もそれを成し遂げうる者がいないように思えるからだ。
イズラエル・シャミールへの連絡はadam@israelshamir.net
この作品はThe Unz Review で最初に公開された。
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【翻訳後記】
広島と長崎への原爆投下について、次の点を真っ先に申し上げておかねばならない。上の記事でシャミールも指摘していたことだが、原爆投下の責任を問うことが日本ほど厳重なタブーとなっている国は他に存在しないだろう。アメリカの方がはるかに開けている。私は、バルセロナにあるアメリカン・スクールに通う日本人の子を知っているが、日本の高校1年に当たる学年の教室で、日本への原爆投下を話題にして、「反対派」と「賛成派」に分かれてのディベートの授業が行われているのである。
その子は日本人だからということで「反対派」に入れられたのだが、学校の方からディベートのための多くの資料が配られていた。その中には、私の訳文『ヒロシマ神話 ― 米軍史に秘められた戦争犯罪と嘘 』の中でも取り上げられている戦争相ヘンリー・スティムソン、主席軍事補佐官ウイリアム・リーヒ大佐の他、ダグラス・マッカーサー将軍、アイク・アイゼンハワー将軍(のちの大統領)ら大勢の、いかに原爆投下が戦争終結に必要でなかったのか、そして、それは決して使ってはならなかった、どれほどの残虐兵器だったのか、ということについての、数多くの証言があったのだ。必然的に、「戦争を終わらせるため」という名目が大嘘であり、他の明らかにされていない目的のために何十万人の一般市民を犠牲にしただけだったことが、議論をまとめていくうちに浮かび上がるようになっている。
いくらスペインにある国際学校で実際の生徒はスペイン人の方が多いとはいえ、アメリカの法にのっとって運営されている学校なのだ。そこで、まるで当たり前であるかのように、こういった原爆投下についての議論が行われている。もし日本の中学・高校の授業で、せめてアメリカをお手本にしたディベートでもやってみたら…、どうなることか言うまでもあるまい。シャミールが言うとおり、それをやらせた教師が「危険思想の持ち主」として「首ではなく経歴をちょん切られる」だけに終わるだろう。
日本は、昭和天皇がマッカーサーに頭を下げて以来、天皇制を捨てて「アメリカ制」国家になった。「紀元は2600年」の代わりに「全体主義と戦って勝利したアメリカ民主主義」が賛美された。(こんなことを言っていると私も「極右国粋主義者」のカテゴリーに放り込まれるのかもしれないが。)しかし現実には、日本の支配者である官僚層はその民主主義を最も忌み嫌っていた。彼らはずるがしこいアメリカの支配層が見抜いたとおり、アメリカを祭り上げその買弁となることで、縮小された日本列島の支配権を確保することだけを考えていたのだ。学術界、報道界、政界、財界が、そして社会の隅々に至るまで、同じ穴の狢のヒエラルキーがその下に続いた。
日本には民主主義が育たなかった。しかしアメリカ民主主義にはやはり本物も交じっていたようだ。我々は、サンダースを支持してネオコン戦争ババアのクリントンを拒否したアメリカ人たちの大きなエネルギーを見た。トランプにしても、従来のエスタブリッシュメント支配、国内の人民を切り棄て世界を単一色に塗りつぶそうとして「戦争中毒」に陥っているアメリカ連邦国家のあり方を拒否する、大勢の民衆に支えられている。その流れは、ひょっとするといつの日か巨大な花を咲かすのかもしれない。シャミールと共にかすかにでも期待したいところだ。しかしその場合、日本はどうなるだろうか?
このシャミール最新作の題名だけ見ると、日本を取り巻く情勢についての政治的なテーマを取り扱う記事のように見えるかもしれない。しかし記事を読んでみると文化と社会についての話が中心になっている。ではそれは文化論・文明論かというと、逆に、直接に触れていないだけ余計にアメリカという帝国の世界戦略の根底をえぐる最も深く鋭い政治論になっているのではないか。この作品を『現在進行中 2005年に予想されていた現在の欧州難民危機』と併せて読んでみるとこの点が非常にわかりやすいと思う。
地球上の生態系と生物多様性を破壊する忌むべき文明の根と、人類の社会と文化の多様性を破壊する邪悪な思想の根は、ある場所で一つになっている。シャミールに言わせればそれがアメリカだ。私はそれにイギリスの金融帝国を加えたい気がするが、いずれにせよ、そのアメリカ支配層の使用人で天性の詐欺師であるオバマは、5月の日本に続き7月中旬にスペインを訪問するそうだ。しかしその前にワルシャワでのNATO会議に出席する。どうせTTIP導入と「難民」の積極的受け入れをヨーロッパに命令しに来るのだろう。それが「すべてのものを単一の消費社会に成型させ」、そして同時にすべてのものを単一の低賃金労働に成型させるからである。
卑屈な下男と下女でしかないヨーロッパの指導者たちはもうどうにもなるまいが、せめてヨーロッパに本物の民主主義が息づいているのかどうか、vueno, vamos a ver(まあ、見てみよう)。
【翻訳後記、ここまで】
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔eye3490:160614〕
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