都知事選:都民も自らも欺く政策軽視の独善的議論
- 2016年 7月 17日
- 時代をみる
- 醍醐聡
2016年7月17日
政策論争よりも「わが陣営の政略」を優先させる議論
1つ前の記事で書いたような「選挙戦は政策論戦が本位」という考え方はごく常識と思いこんでいたら、そうでもないことが最近わかった。
たとえば、次のような議論が目にとまった。
「鳥越俊太郎の擁立がギリギリまで遅れ、宇都宮健児の不出馬が公示前日の土壇場になったため、結果的に、保守側(安倍側)に一本化の余地を与えず、保守分裂選挙に持ち込ませることができた。これが政治というものだ。公開の政策協議だの政策協定のプロセスだの言ってたら、この政治は実現してないのさ。」(「世に倦む日々」7月15日)
「鳥越都政が実現するかどうかは国民にとって大きな問題だ。実現すれば、都庁に反安倍の強力な野党の拠点ができる。」(同上、同日)
「せっかくの4野党共闘による知事選の枠組みが人選で難航しているときに、告示間際となって鳥越候補が出現したのだ。政策は共闘成立に必要な大綱でよい。私は、出馬会見で彼が語った第3項目は、『ストップ・アベ暴走』であったと思う。中身は、改憲阻止であり、戦争法廃止である。歴史を学んだ者として、アベ政権の歴史修正主義を許せないという趣旨の発言もあった。これだけでも十分ではないか。・・・・・」(「澤藤統一郎の憲法日記」2016年7月16日)
「果たして、細目の公約がなく都民不在であるか。もちろん、時間的余裕があってきちんとした公約ができてからの立候補が望ましい。今回の経緯では不十分であることは明らかだが、『都民不在』とまでいう指摘は当たらないものと思う。
その理由の一つは、候補者の経歴がよく知られていることにある。候補者の政治的スタンスとそして人間性の判断は十分に可能であろう。出馬会見はそれを裏書きする誠実なものであった。都知事としての資質と覚悟を窺うに十分なものであった。
また、4野党共闘の枠組みは広く知られているところである。立憲主義の回復であり、民主主義と平和の確立であり、戦争法の廃止であり、改憲阻止である。この枠組みに乗れる人であることが、都民に示されたのだ。それは、都政に関係がないというのも一つの意見であろうが、『候補者+4党+支持する市民』で具体的な都政の政策はこれから練り上げられることになる。それでも、けっして遅すぎることにはならない。」(同上)
「事前の政策協定ができればそれに越したことはないが、ようやくにして成立した4党共闘の枠組みが成立して、これに乗る魅力的な候補者が見つかったのだ。これを大切にしなければならない。多くの市民団体が鳥越支持の声を上げている。各勝手連も動き出している。政策は、おいおい素晴らしいものが体系化されるだろう。もとより理想的な展開ではないが、今回はやむを得ない。判断材料としての最低限の情報提供はなされており、さらに十分なものが追加されるはずである。都民不在という指摘は当たらないものと思う。」
(同上)
これらの意見に共通するのは、今回の都知事選を、先の参院選で示された野党共闘の「成果」を受け継いで都知事選を反安倍政権の橋頭保づくりの機会とすること、を主要な選挙戦略に掲げていることである。
首都東京で、野党統一候補が、政権与党が擁立した候補者を破って当選するとなれば、安倍政権に大きな打撃となることは間違いない。しかし、それを都知事選の戦略的目標に掲げ、立憲主義の回復、民主主義と平和の確立、戦争法の廃止、改憲阻止を掲げて実現した参議院選での野党共闘の成功体験を受け継ぎ、発展させる場として都知事選を位置づけるのでは東京都政を国政の縮図ないしは外延とみなすのも同然である。
しかし、そうした選挙戦略は、野党共闘陣営の政治戦略ではあっても、都民に信を問う政策のベースとなるものではないし、そうすべきものでもない。候補者が安倍政権阻止を表明したら、それで十分、政策はおいおいでよいという発言は、都民不在という以前に、われに正義ありと自認すれば、公けの場での都政をテーマにした政策論争は二の次、という独善的発想である。
「今回の都知事選挙を、『前知事の責任追及合戦』に終始し、『新都知事のクリーン度』を競い合うだけのものとするのではもの足りない」(「澤藤統一郎の憲法日記」2016年7月14日)という意見には私も同感である。
しかし、だからとって、「都知事は、憲法の精神を都政に活かす基本姿勢さえしっかりしておればよい」、「ストップ・アベ暴走」という所信こそ肝要、「これだけでも十分ではないか」という見方は、都知事候補として都民に信を問う人物を評価する言葉としては粗雑に過ぎ、都政に関する政策を吟味して賢明な選択をしようとする都民にとっては暴論である。
公約は誰に向けるものなのか~想定支持層か? 都民か?~
澤藤氏は前掲のブログ記事の中で次のように記している。
「都知事は、憲法の精神を都政に活かす基本姿勢さえしっかりしておればよい。その基本姿勢さえあれば、細かい政策は、ブレーンなりスタッフなりが補ってくれる。4野党が責任もって推薦しているのだ。そのあたりの人的な援助には4野党が知恵をしぼらなければならない。」
「事前の政策協定ができればそれに越したことはないが、ようやくにして成立した4党共闘の枠組みが成立して、これに乗る魅力的な候補者が見つかったのだ。これを大切にしなければならない。・・・・判断材料としての最低限の情報提供はなされており、さらに十分なものが追加されるはずである。都民不在という指摘は当たらないものと思う。」(「澤藤統一郎の憲法日記」2016年7月16日)
それにしても、
<鳥越氏が立候補に当たって述べた都知事候補としての基本的姿勢と野党+市民団体が推したという事実だけで判断材料としてはもう十分である、あとの細かな政策は支持母体の野党4党なり市民団体なり勝手連に任せればよい。>
という書きぶりを目にとめると、選挙の時の公約は何のためにあるのか、誰に向けるものなのか、と考え込んでしまう。
「あとはブレーンなりスタッフなりに任せればよい」という議論は当選して始めて通用する議論であり、かつ、支持者に向けてのみ通用する身内話である。
しかし、「公約」とは当選する前の、当選するための都民に向ける政策の所信である。
もし、「野党4党+市民が支持している」、「細かな政策は有能なブレーンなりスタッフなりがまとめてくれる」という説明を「公約」とみなすなら、「選挙公約」とは想定支持層に信を問い、彼らを納得させるためのものということになる。
「あなたに都政を取り戻す」という鳥越氏の選挙スローガンにある「あなた」とは「わが陣営の支持者」ではなく、「都民」全体を指すはずだ。そうなら、身内意識同然の政治的思惑で鳥越氏を支援するのは自他(自分も都民も)を欺く歪んだ発想であり、ひいきの引き倒しである。
なぜ、「自らも欺く」のかというと、そのような都民軽視の独善的意識では、自らが掲げる「ストップ安倍政権」という呼びかけに共鳴する有権者を広げるどころか、細らせる結果になってしまうからである。
あるいは、そうした意識で支援した候補者が当選したとしても、それは政策が支持された結果ではなく、知名度を強みにした当選、あるいは与党の分裂に助けられた当選とみなされてもやむを得ない。
初出:醍醐聡のブログから許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://wwwchikyuza.net/
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