ふたたびの沖縄、慰霊の日の摩文仁へ(8)普天間基地周辺
- 2016年 7月 20日
- カルチャー
- 内野光子:歌人
嘉数の戦跡
1945年4月1日、比謝川の河口あたりにまず上陸してきた米軍が、嘉数の日本軍への攻撃を始め、戦闘となったのが、諸説があるようなのだが、4月6~7日から4月24日までと言われ、沖縄戦の中でも激戦地の一つとなった。多くの住民を巻き込んで、704人のうち336人、48%の方々が犠牲になっている(『沖縄の戦跡ブック ガマ』2013年改訂)
日本軍の地下陣地壕の入り口、手前は、花が散った後の「月桃」
陣地壕見取り図
トーチカの入口弾痕の跡が見える
韓民族出身沖縄戦戦没者慰霊の塔、軍夫として動員され、亡くなった朝鮮人の386柱が祀られている
右が「嘉数の塔」、嘉数住民の慰霊塔、正面が「京都の塔」、この地で戦った第62師団に京都出身者が多かったによる。手前の碑文には、戦争の悲惨さや沖縄住民への思いが記されている。他の碑文にはない言及が有名とのこと
嘉数高台の展望台より
嘉数高台の展望台より、正面の緑の部分が普天間基地、その右端にオスプレイが並んでいるのは、肉眼では見えたのだが
初出:「内野光子のブログ」2016.07.20より許可を得て転載
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/06/post-167c.html
記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture0288:160720]
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