石井論文を読んで
- 2016年 7月 23日
- 交流の広場
- 中野@貴州
中野@貴州です。手術を受けずに退院ということになりました。医師の話によると「私の心拍数が少ないのでリスクを避けたい」(オレのはスポーツ心臓だと何度も言ったんですがね)とのことでした。要するに、病院をホテル替わりにしただけのことです。それで、何もすることがないので(失礼!)ベッドの上で石井論文を読ませていただきました。
柄谷氏の著作が手元にないので、正直言って石井論文全体を理解するのは困難がありました。ただ、石井氏のもっとも言いたいことは強く心を打ちました。それは、市民社会を経ていない「社会主義」なるものは「前近代」の遺制を残すどころか、それを強化復活することさえあるという見方です。このことは、今の北朝鮮を見れば一目瞭然でしょう。スターリン主義体制とさえ言えない。もはや「アジア的専制王朝」の復活と言うしかないですね。
私も某「社会主義大国」に暮らしているから、そのことは心身体験で日々感じ取っています。こう言うと、識者のみなさんはすぐに「人権・自由・民主の欠落」と反応するでしょう。でも、私の心身体験で欠落していると感じたのは、「人権?それ何?食べられるの?おいしいの?」という問い直しがすぐ返ってくるような、高尚なものではありません。「納期を守る」「遅刻しない」「計画的に物事を進める」「ザッハリッヒな態度」などという極めて卑近な話です。つまり、規律性・効率性・合理性のことです。こうした態度は、もちろん、市民社会なり資本主義社会なり(この二つの用語の区別はここでは語りません)で鍛えられるものなのです。
実は、このことは、レーニン・トロツキーがすでに共通に指摘していることなのです。
「労働者階級は資本主義社会において規律性・効率性を学ぶ」と。
某「社会主義大国」にあって、私はこの二人の言葉を日々痛切に感じ取っています。
追伸:武田さん。前も言いましたが、私は「社会主義はもしかしたらいいものかもしれないかな」程度の人間です。「同志」なんてとてもとても・・・
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