テント日誌7月26日…呪殺祈祷団の月例祈祷会
- 2016年 7月 29日
- 交流の広場
- 経産省前テントひろば
経産省前テントひろば1780日
呪殺祈祷団の月例祈祷会が開かれた
朝から雨模様だった。祈祷会はいつも午後の3時頃からはじまるが、直前にテント前の通りをデモが行く。デモの人々は興味深そうにテント前に視線を投げかけていたが、流れの様子を司会者は見ていて、いつもより少し遅れてはじまった。祈祷会はいつもの通り、「海つばめ」の独唱ではじまった。いい曲である。祈祷会についてはあらためて紹介するまでもないことと思うが、会場で配られてチラシにはこうある。『鎮魂 死者が裁く 呪殺祈祷僧団四十七士 3・11東日本大震災以降において 私たちは無念の犠牲者の方々を深く悼むとともに、地震と津波と原発事故によって明らかにされた無謀な原子力行政を反省もなく繰り返そうとしている政財官の愚かさを、死者とともに正していかなければなりません。脱原発の聖地・経産省前ひろばにおいて、聳え立つビルに向かって一緒に太鼓を撃ち鳴らし死者・神仏と共にご祈念いたしましょう』。
3・11から5年余の時間が過ぎて行くのに、被災地の復興は思うようには進んでいないし、福島の原発事故は未だ収束すらしていない。時折、汚染水のことが報道されるが原発の状況については知らされる機会も減ってきている。放射線被ばくの結果と思われる子供たちの甲状腺ガンについては放射線被ばくの関係が否定される始末である。福島ではあたかも原発事故が起きなかったかのような扱いが進んでいるといえる。ここには2020年のオリンピック開催までには福島原発事故を処理しておきたいということと、原発再稼働の思惑があることは言うに及ばない。行政というか権力のこうした傲慢な態度は、大震災(原発震災も含めて)の死者たちへの冒とくであるし、生者のおごり以外のなにものでもない。声をあげることを絶たれて無念の思いにある死者たちの声を聞き、その反省に立って日々を生きることに反することはいうまでもない。「原発さえなければ」という壁書を遺して行った人のことが思い浮かぶ。3・11のメモリアル記念の儀式では政府や権力者たち、政財官の支配者たちも鎮魂を、死者の追悼を口にする。けれども彼らは本当に死者を悼むことはやってはいない。なによりも彼らは死者の声を聴こうとする気がないからだ。彼らは魂を失った儀式において追悼のふり(ふまい)をしているだけではないのか。これは日々死にゆく人たちへの対応でもある。
この日、祈祷僧団の鎮魂(死者の裁き)の祈りを聴きながら、僕は自然に8月の儀式のことを思い浮かべていた。福島泰樹さんの戦死者たちの声を代弁する告発を触発されたこともある。8月には戦没者慰霊の儀式が様々にある。戦後の日本では太平洋戦争での死者たちの弔いにおいて激しい対立が存在してきたことは事実である。これは儀式を執り行う神社関係者(例えば靖国神社)などの支配の側が死者の声を本当の意味で聞き取ってこなかったからである。彼らは戦死者たちを弔うと言いながら、かつての戦争を肯定し、英霊として弔おうとするからだ。それは死者の声を本当に聞いていないだけではなく、その偽装でもあるのだ。そこに対立の根拠があった。靖国神社や政府要人(すべてとは言わないが)は戦死者たちの声を本当のところで聴こうとしていない。戦死者はあの戦争を聖戦と信じ、国家のために命を捧げて闘おうとしたかも知れない。しかし、彼らが戦争を通して知ったこと(得たこと、認識したこと)、そして、生あるものに伝えたかったことはそれではなかったと思う。
特攻機の中で、雨に濡れた塹壕の中で、あるいは野戦病の中で、思ったことは聖戦という幻想の果てにみた戦争への反省であり、彼らを戦場へ誘った戦争への怒りだった。それは引き揚げの街角で身に刻み込んだ悲しみだったかもしれない。遺骨を受けた母親の嘆きだったかもしれない。これらには戦争の肯定も、自分を英霊として祀ってくれという欲求をしたはずではない。戦死者たちの本当の声を聞き届けてはいないこと、それにも関わらず彼らが追悼の儀式を取り仕切ることへの批判だった。戦争を肯定し、なおざりの平和を口にする欺瞞への反発だった。死者の声は沈黙の声として僕らに伝わるが、支配の声はそれを殺し、また、欺瞞的に取り出す。死者の声の批判が、要求する反省がこわいからだ。
僕は福島泰樹さんや上杉清文さんの声を聴きながら、こんなことを思いに僕を誘った。
死者の声を伝える。これは生やさしいことではない。僕らだってその名において傲慢な、場合においてはお門違いのことをやるかもしれない。善意ということはあてになるものではない。これは僕らが自己存在とぶっかる問いかけをやる中でしか聞き取れないことかもしれない。聞き取ったと思い込んではいけないことであり、「死者の声」は何処まで行っても生者の考えたものだということ、そうしたおのれの内心の声を手離さない方がいいのかも知れない。「死者の声」に向かってという姿勢だけしか、何も保証するものはない。けれども、本当に死者のこえを聴くことの中にしか生者の言葉が魂を、生きた精神を得ることがないこともたしかだ。これは僕らの生が持つ宿命である。生と死は対極にあるものではないからだ。生は死を含んであるのだ。
祈祷僧侶団の方々の声を聴きながら、戦争について、原発について僕の意識はかつてに動いて行った。彼らの言葉は毎回、少しずつ変わって行く。これはそれを聴く方にとっては、刺激的であり、楽しみである。僕はテントの存在と存続の意味を持久戦という言葉であらわしてきた。これはあまり経験のない闘いという意味が込められている。それは運動形態という意味と精神形態という意味がある。テントは形態から見れば、運動形態として今後の発展はともかく、従来になかった形態としてある。これは一つあるのだが、テントや官邸前抗議行動はこの空間的な運動形態とは別の幻想形態としてもある。これは諸個人の勝手な思い込みの集合のようなものかもしれない。人々の意識、あるいは精神(魂)の集合である。権力に反抗する、権力と闘う精神の形態として、これはまだ、言葉の与えられない、与えようのない流れのようなものだ。権力に抗う根源には精神(魂)がある。それは永続的で、幻想的なものであるのだが、時代の中で生まれ、生成して行くものだ。これには言葉が与えられるのだが、テントやその周辺で生まれているものには言葉が与えられていないし、まだ、与えようがない。しかし、幻想というか、精神の形として何かが生まれ、生成している。これについては持久戦という言葉を使いながらいつも考えている。現在という時代の中で権力に抗う、権力に抵抗する精神、その流れが動き出している。それの一端をテントに集合する人たちは直観や言葉ならざる言葉として感じている。上杉さんが最後に話された「なずけようのないもの」というのはこれに示唆を与えてくれるものだった。権力に抗う、あるいは権力と闘う精神というか、魂はまだ言葉にはならない、これはなづけようがない形であるが、存在しているのだし、それがテントを支えている。呪殺祈祷僧侶団の皆さんがその祈祷会の中で提起してくれるものは、多くの示唆を与えてくれるところがある。会が終わるころにはぱらついていた雨もやみ、ぬれずに済んだのはありがたかった。(三上治)
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●7月29日(金)午後5時から経産省前抗議行動。テントひろば主催
18時30分~官邸前抗議行動(反原連)
●8/3(水)2つの抗議行動にご参加を!
九州電力川内原発今すぐ止めろ!九州電力東京支社抗議
日時:8月3日(水)17:30より18:20
場所:九州電力(株)東京支社(JR有楽町駅前電気ビルヂング前)
東京都千代田区有楽町1丁目7?1
主催:再稼働阻止全国ネットワーク TEL 070-6650-5549
東電は原発事故の責任をとれ!第35回東京電力本店合同抗議行動
東電解体!汚染水止めろ!柏崎刈羽原発再稼働するな!
原発再稼働は日本を滅ぼす
日時:8月3日(水)18:30より19:45
場 所:東電本店前(JR・地下鉄新橋駅徒歩5分)
よびかけ:経産省前テントひろば・たんぽぽ舎
賛同団体:東電株主代表訴訟など約123団体
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