2016ドイツ便り(5)
- 2016年 8月 2日
- カルチャー
- 合澤清(ちきゅう座会員)
1. 塩川喜信さん(ちきゅう座・元運営委員長)逝去の知らせが飛び込んできた
7月30日、珍しく早朝5時に目が覚めた。30分位ベッドの中でぐずぐずし(このところまた、朝は寒くなってきたため、起きだすのをためらっていた)、やっとのおもいで起き上がり、パソコンを開ける。いつもの習慣で、最初にちきゅう座の画面をのぞき、つぎにインターネットの受信欄を確認した。何人かの人からの通信に混じって、ちきゅう座運営委員仲間のAさんから「今朝、塩川喜信さんが逝去された」との連絡が入っていた。残念だという気持ちと「さびしくなったな」、との思いが最初に頭をよぎる。渡独前に二度お見舞いに伺って、三度目も予定していたのだが、病状が少しおもわしくなくなって急きょ入院されたとのことで、結局お目にかかれなかった。
そして、こちらから「暑中見舞い」の葉書を出したのが最後の交信となってしまった。
塩川さんは、いうまでもなく日本の学生運動を代表する活動家(第13代目の全学連委員長)の一人で、かつ東京大学農学部で農業経済学を専門とする研究者であった。1968年から始まった東京大学の闘争で、東大全共闘と共に助手共闘を組織して闘い、その結果、教授職を棒に振る(いわゆる「万年助手」のまま定年を迎える)ことになった。この事を直接お聞きした折にも、たまたまそうなっただけだよ、と少しの後悔もなく答えられていた。
その人柄は極めて温厚で、少しも偉ぶることなく、いつも弛みないユーモア精神を持たれた方だったことは、おそらく彼を知る大方の人が賛同されることだろう。
お酒を飲むことが大好きで、癌を患う以前には明け方まで飲み続けても平気なほど強かったが、5度の癌手術に耐え、また最近では間質性肺炎を患い、酒量もめっきり落ちていた。時に羽目を外して、顔に傷を付けてこられることがあった。どうしたのですか、と尋ねると「電柱の奴がね、僕に抱きついて来るんだよ」と大笑いしていた。それでも、私たち仲間内での飲み会(主に研究会やその他の会合の後)には欠かさず出席され、万座を魅了する語り口で、いつも楽しい雰囲気を醸し出してくれていた。
もう少し長生きされて、われわれ後進の若輩者をご指導していただきたいと強く念じていたが、ついに不帰の人となられた。まことに残念である。
葬儀はご自身のご意志で、「家族葬」とし、香典その他は一切辞退したいとのこと、これもいかにも塩川さんらしい気の配り方であると思う。塩川さんと同じ時代から今日まで活動を継続されている、土屋源太郎さん、蔵田計成さん、由井格さんなどを中心に、しかるべき時期に「塩川さんを偲ぶ会」をやろうと準備をしているそうである。私も及ばずながら下働きをして手伝わせていただき、ほんの少しでもご恩返しのまねごとが出来ればと願っている。
2.あっという間の一カ月
如何に懶惰な私でも、渡独前には色々と計画を練り、いくつかの課題を抱えてくるものである。そして一カ月がすぎ去った頃、あれ、自分は今まで何をしてきたのだろうと、急に焦りを感じて来る。どうもこういうことは毎年繰り返されているようだ。そして課題目標はだんだん縮小されて行き、最後は、なにも果たしえないままの帰国になる、よくあるパターンである。今年こそは例年の轍を踏まないようにと、少しは具体的な課題設定をしてきたはずなのだが、やはり一カ月が立って振り返ってみれば、意志薄弱な私としては周囲に流されっぱなしで、何一つ出来ていないことに気づくのである。
勝手な解釈かも知れないが、私は常々ヘーゲルにとっては『精神現象学』と『法哲学』が主著(メインテーマ)だったのではないかと考えてきた。そして今年の夏休み中の課題を、この両書の中からいくつかの問題意識をピックアップし、その部分だけでも原書を精読し、まとめてみたいと考えている。しかし、ヘーゲルの原書はなかなか難解で、しばしば慨嘆するばかりではかどらない。
友人宅の薔薇
先日、ドイツ人の友人から自宅でのパーティに誘われた折、君はヘーゲルに詳しいのだから、例えば自然についてのヘーゲルの考え方を聞かせてくれないか、と水を向けられた。少し時間をもらい、アルコールの力を借りて、「ヘーゲルにとっては、そのままの(an sich)自然はなく、絶えず対他的(für anders)なもの、つまり人間的な自然でしかないのではないか、というようなことを下手なドイツ語で喋った。その際、いつもの冗談なのだが、「ヘーゲルの思想はなかなか一般のドイツ人には理解できないようだが、やはり彼は日本人だからなのかね」といってみんなで大笑いした。「ヘーゲルの日本語訳は、すごく難しいだろうけど、どういう訳になっているのか?」と聞かれたので、仏教用語での翻訳が多いと思う、と答えておいた。Buddhismus(仏教)という言葉から西洋人が受けるなにがしかの神秘性からか、皆さん妙に納得した顔をしていた。
ヘーゲルの原書は、今はインターネットで検索すれば、PDFで手軽に手に入り、大抵のものは読めるようになっている。大部の原書を買い込んだり、わざわざ日本から持参することがなくなったのは大変嬉しいことである。
序でにいえば、『資本論』の原書も同じ方法で簡単に読める。いうまでもないが、読むためにはかなりなドイツ語力を必要としていることは当然である。私の様なずぼら人間では、そういう苦痛を伴う努力はいつも敬遠しがちである。
3.ニュールンベルクヘ、ほんの短時間の旅
「ジャーマン・レイルパス」5回分の最後の一回分を使うため、無理をしてNürnberugへ出かけることにした。その日は、夕方7時から友人たちとのいつもの雑談会をやる予定になっていて、それまでにはゲッティンゲンに帰っていなくてはならない。しかし、片道3時間程度の旅なので、朝の9時頃の電車に乗れば、無理なく3時間程度は見物できるはずであった。ICE(新幹線)のニュールンベルク経由ウィーン行きがあり、最初それにしようかと思っていたのだが、それよりほんの少し早く出発できるIC(急行)もあったため、そちらに乗ることにした。途中駅のWürzburgまでは間違いなく行く。さてそこからがわれわれのいい加減なところで、実はその先にどこへ行くかを全く見ていなかったのである。車掌さんは親切な女性で、検察に来た時、わざわざ英語で行き先を聴いてくれた(多分、ドイツ語は分からないと思われたのであろうが)。そのときはWürzburgに行く予定であると答えて、相手もうなずいていたのだが、Würzburgを過ぎて、今度はこちらが「この電車はニュールンベルクへ行くのですか」と質問したかった段になって、姿が見えない。仕方なく、そのまま乗っていた。なんだか変だなと思い始めて、慌てて電車の中においてある時刻表を探してみた。なんとかやっと見つけて、さてこの電車はどこへ行くのだろうかと調べてみて驚いた。ニュールンベルクではなくて、アウグスブルク経由でミュンヘンに向かっているのである。このままで、途中のアウグスブルクで降りて、フランクフルト行きに乗り換え、すぐにゲッティンゲンに向かっても、7時には間に合いそうもないのだ。何とかしなくちゃ、と急に焦り出す。色々調べた結果、幸いにも途中の小さな駅からニュールンベルク行きのSバーン(地域の専用電車)が出ていたので、早速それに乗り換える。「あー、助かった」とほっとした。不注意は怪我のもと、特に知らないところでは十分な注意が必要であることを改めて思い知った。
それでもニュールンベルクには2時間と少ししか滞在できなかった、街を少し歩き、インフォメーションで試しに「ヘーゲルがかつて働いていたギムナジウムはどこか知っていますか」と尋ねてみたが、全く知らないとの返事。
この街はかつての「ニュールンベルク裁判」で有名であるが、実はヒトラーがこの街が大好きだったから、あえてこの場所を選んだとも言われている。古い建物が多く残り、確かに雰囲気のある美しい町である。しかし、私の好みからいえば、この街の真ん中を流れるさして大きくない川に掛るいくつかの橋の風景が最高のように思う。橋だけでなく、橋げたいっぱいに川を超えて建物が立ち、それがレストランにもなっている。古い飲み屋も数多い。ただ、残念ながら今回は時間の都合で、すべて手つかずに終わった。
ニュールンゲルクの橋1
ニュールンベルクの橋2
帰りの電車はICEを使う。途中駅のフルダまでは極めて順調だった。フルダから、ゲッティンゲンまで、約40分の距離を1時間40分かかってやっとたどり着いた。今度はドイツ鉄道の責任である。結局約束の時間に5分ほど遅れてしまった。
2016.08.01記
記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture0300:160802]
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