何故、共産主義国に選挙がないのか?(キッピス原理主義+植草一秀外伝)①
- 2016年 8月 26日
- 交流の広場
- 武田明
今回、語りたい主題点も、以下の三つである。
1.技術論と幸福実感について
2.民主主義と社会主義の問い~何故、選挙が採用されていないのか?
3.連合とTPP小冊子の展開~テキスト化展開
1‐2.技術論(その2)
出来るだけ、端的に、わかり易く、そして、書く事によって何らかの刷新がしていけたならと思いながら誰もが書いているだろう。
現在は、「ツイキャス」と言う誰でも出来る個人放送局が発達してしまい、経産省テント問題から高江の問題について、昨日(25日)は、新宿西口にての福島みずほさんの高江問題広報ツイキャスから紅林進さんが、告知してくれていた宇都宮けんじツイキャスへと合流していく様を「可視化」出来る段階にかなり前から来ているのである。
http://chikyuza.net/archives/65754
山本太郎、福島みずほ、宇都宮けんじさんは、ツイキャスの常連でもあり、その行動と主張、論点なるものが、毎日でもわかり追えるのであり、便利になったとも言えるのであるが、繰り返し同じものを観ていたり、深みのない洗練されていない映像となっていたり、多重化して重なって視聴する事になったり問題点も少なくないと言う段階ではないだろうか?
更に、視聴者数同時閲覧が、桜井誠氏であって、2000人前後であるのに、対して、岩上安身高江ツイキャスであって、300人前後であったり、まだまだ広がっていない問題点もあり、更に、政治ツイキャスは、100人、200人で推移している広がりの狭さが感じられるばかりであり、配信する側が、多であり、観る側が、一人である逆転が、ここに生じているのだから、狭く浅くの現実として、改正を必要とされているのではないのだろうかと感じずにはいられない。
着の身着のままであるなら、ど~でも良いゲーム、ポケモンGO的な配信の方が、視聴者を同時閲覧、1万人とか集めている状況もあり、雑多であるニコニコ動画、辛辣なコメントが、漂いながら無責任に夢見るように、何も得る事もなく時間を過ごす本来、比較出来ないものがライバルであったり、政治的争点隠しとしての芸能ニュースであったりの構造は、やはり変わらない事をどうするのかの根本を問わねなならない段階に来ている様に思うのだ。
2.社会主義と民主主義
昨日の問題提起として、また、少数であるが、面白い政治系のツイキャスを鑑賞していて、「共産主義のどこが嫌いであるのか?」この問いを右派保守に尋ねていたところ、「選挙によって、中国も日本共産党も選ばれていないだろう」そこを最大の問題点としている事にぶつかるわけである。
民主主義も、愚衆政治となったりヒトラーを産みだす事もあるのだが、それでも、ないよりは、選挙があった方が良いの問いがあり、選挙はあるが、北朝鮮では、90%体制支持だろうの論があったり、家族人類学(家族主義=封建制=人治)に対して、真の意味で、「法治」「立憲主義」「民主主義」とは、「社会主義」に対して、何であるのだろうか?
民進党代表選挙がある中、日本共産党委員長は、何故、選挙によって選ばれたり活性化する方法論に辿り着けていないのか?
この問いに、もっと、早く言及して置かねばならなかったのではないだろうか?
「今は、出来ないが将来的には、社会民主主義としての定立をするのか?」
「何故、今すぐ出来ないのか?」
民主集中制の問題であるとも語られるわけであるのだが、それでも足りないだろう。
僕自身のこの問題についての解釈としては、民主主義の投票する意思と言うものは、カント的柄谷行人的に述べるなら後天的な位置づけにある故ではないのだろうか?
それは、自由権としての場であり、社会主義的次元にとっては、生存権としての先験的
そして、家族人類学(家族主義=封建制=人治)としての場としてまずある様に感じている事だ。
つまり、「多数決によってもし、 #ヒトラーの思想 相模原市の襲撃事件や殺人略奪が認められる社会」となるアテネ型ではなく、スパルタ型、そして、ナチス思想の到来としての貧困格差戦争法アベ政治の隠蔽されたる本質であっても民主主義、法治であるとするなら何とすべきであるだろうか?
その無意識としての「先験的生存権」の場が、憲法の中にあるとしたなら、1条は、いらないが、9条は、保留すべき視点とする者も、または、逆に、1条は、必要であるが、9条は、そろそろ変えたいとする人にとっても、まずは、歴史的に、蓄積されたる「無意識」「先験的生存権」の法治的具現化が憲法であるのだから、先験的後天的経験が、意思として結実するまで、成人と認められる18歳、20歳までは、保留しておくべきではないだろうかの取り決めであるのだとしたならどうであるのだろうか?
昭和が、成熟して、平成となり、そして、「生前退位」としての視点に辿り着く時代の成人年齢は、70年であったのか?
明らかに、アメリカから押し付けられたと主張する者にとっても、民主的意思から逸脱したる歴史的先験的場があるわけであり、一票持つ側のそれぞれの意思を超越したる場が存在しているのも事実であるだろうと言う事である。
その中で、家族人類学(家族主義=封建制=人治)的要素から権力と法治たる「三権分立」などは、如何に、確保出来ているのかの問いが、これまでの中にあったわけであり、醍醐聡先生の言うNHKの公平性、メディアの公平性の問題から、
植草ブログの最新の更新からも著作の紹介。
1年経っても集団的自衛権憲法違反は不変
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-c1a2.html
「第2章 三権分立が機能していない日本」
この様な項目が並んでいると言う訳である。
二大政党制のアメリカの問題点も顕著であり、人民の選択肢、サンダース社会民主主義そのままの選択肢は、最初から淘汰されていると言う事でしかないのだから、後天的意思の選挙以前の「家族人類学=封建制=人治?」としての「先験的生存権」の場は、ありうるべきであり、それこそが、社会主義的視点としての理解ではないだろうかと僕は、まず抑えたいところであるのだが、どうであろうか?
近代主義政党論と「近代の超克」としての『大幸福論』としての体系への全体への序説として、ここでは、いったんここで抑えて、別の主題に移る事にしたい。
問題は、多重化していて複雑化している。
3.連合とTPP小冊子の展開~テキスト化展開
今回は、「植草一秀外伝」であるので、阿修羅掲示板の以下の文章は、独自にアレンジしているようで、ニュアンスが若干変わって来ているのを感じている。
《「人治」としての「連合」の分析が必要であるのではないでしょうか?》
オールジャパン社民共生党樹立で安倍政権打倒-(植草一秀氏)
http://www.asyura2.com/16/senkyo211/msg/594.html
民進党解党唱える誠実な代表戦立候補者が必要-(植草一秀氏)
http://www.asyura2.com/16/senkyo211/msg/594.html
今回の最初の方で、「ツイキャス」の話題をあげていたのですが、既に、『国家と革命』危険図書の語りで紹介している、キッピス氏は、才能豊かで誠実な人柄である事が伺えているので是非、紹介したい。
饒舌であり、助長する長丁場であり、時間が幾らあっても足りない様子もあるのだが、高江にて不当逮捕者ツイキャスもあり、何もしていない何も出来ていない自身の反省を語りながら純粋原理主義、一度でも自民党に席を置いた人間は、基本的に信じないと語っていたり、スタンスとしては、宇都宮けんじさん的なのが良いと語ったりしているが、阿修羅掲示板的には、「小沢信者」も多いし、そこら辺が、どうなるのか?
その意味の純粋原理主義は、殻を破って、実践に結びつくのだろうか?
などと考えさせられたり面白い。
保守、右派についても、家族人類学(家族主義=封建制=人治)の地平から、後天的自由意志、選挙、民主共和制論まで、更に、わかり易く説明していかねばならない問題点が山住である。
「つまらない男」のひと言で蓮舫は代表選失速
http://www.asyura2.com/16/senkyo211/msg/686.html
こちらにて、鳥越俊太郎フェイスブックが、紹介されていた、改憲勢力3分の2を本当に憂うなら、是非とも、宇都宮けんじさんとの共闘、岩上安身ツイキャスとの共闘を取り戻して、ジャーナリズムの本領に立ち戻りながら今度は、支援、補助に回ってみせる男樹、気概を示していってもらいたいものだと感じていた次第である。
また、長くなったので、今回は、この辺で。
(冒頭をあとがきへ持ってきた。)ショーペンハウアーの『意志と表象の世界』を真似て
1.技術論と大幸福論
http://revolutio.exblog.jp/23434656/
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