想像を超える現実──先週の新聞から(16)
- 2011年 2月 18日
- 時代をみる
- 先週の新聞から脇野町善造
経済紙を含め、エジプトの大衆デモによるムバラク大統領の辞任(2月11日)が先週の大ニュースとなった。ムバラクの退陣と世界金融の関連はしかしここでの対象にするつもりはない。エジプトや、中東情勢がどうなるか、まだ誰にも分からない。分かっているのは、この「街頭での行動」による政府の覆滅が権力の側からの厳しい情報統制の中でも現実のものとなったということである。そこにはITの(少なくとも私の)想像を超えた力があったことを意味する。それを思い知らされた。
ほとんど「死語」になってしまった感があるが、かつて「デジタル・デバイド」という言葉があった。人間は、パーソナル・コンピュータ(PC)を始めとする主として情報通信にかかるデジタル機器を使いこなせるか、こなせないかで二分化されるという意味である。私自身は必要に迫られて、好きでもないPCのキーボードを叩いてはいたが、「使いこなせる」などとは到底言えたものではなかった。もっとも周囲を見回すと、「PCなんか使えなくたって、死にやしない」とうそぶく者もいたし、「僕はデジタル機器には触れないことにしているんだ。ファックスも携帯電話もメールも使わないから、悪いけど電話で用が済まなかったら、直接会いに来てくれないか」と公言する評論家もいた。
実際端末が普及し、オフィスの机の上から罫紙(これは完全に死語だ)と鉛筆が消えても、紙の資料はなくならなかったし、自分で鉛筆を握る必要のない年代になった連中は、キーボードをたたくわけではないから、別に困ることもなかった。「電話で駄目なら直接会いに来てくれ」と言った評論家も、従前のままの情報源で、これまでと同じ調子で毎年一冊のペースで著作を書き続けた。
だからしばらくの間、IT(情報通信)革命という言葉にはまるで実感を持てなかった。一体何が「革命」なのか理解できなかったのである。IT革命の意義を薄々ながら思い知らされたのは、国際通貨市場の動きである。遠く離れた場所で瞬時に取引が行われ、その取引の内容がまた瞬時に世界中に知らされることで、国際通貨市場は大きく変貌した。そしてそれを基盤に新しい金融商品が次々と開発され、それがまた市場を変化させる。すべてはITを巡る革命的変化の中から生まれた。その意味でIT革命は時間と空間の隔たりを乗り越えるツールであった。経済のグローバル化がIT革命と切り離すことが出来ないのも、そのことに理由がある。
しかしここでの革命は、あくまでもITを巡る革命であり、たとえそれが世界金融に極めて大きな変化をもたらしたとしても、世界金融を巡る支配的権力構造(そんなものがあれば、の話だが)の革命を引き起こしたわけではなく、ITの占める位置が飛躍的に高まっただけのことであった。情報システムの設計は金融機関の死命を制するほどの重要課題になったが、それによって巨大金融機関の支配力が喪失したわけではないということである。
エジプトの民衆蜂起に関して報道されていることが事実なら、この蜂起はITの質的変化(メール、ツイッター、フェースブック等)が重要なファクターとなっている。大衆の直接行動による権力機構の覆滅をもって、仮に「革命」と呼ぶのであれば、今回のエジプトの事件は、IT革命が引き起こした「革命」だということになる。ファシスト(もっともヒトラーからもムッソリーニからも嫌われた)から共産主義者になったという風変わりな経歴を持つイタリア人、マラパルテは1931年に『クーデターの技術』という革命の古典を書いたが、今、彼が地中海の対岸で起きていることを見たら、一体『クーデターの技術』をどう書きなおすのだろうか。マラパルテにとってはともかく、私にとっては、北アフリカの民衆の蜂起は1989年のベルリンの壁崩壊以来の「想像を超えた現実」であった。
「想像を超えた現実」と言えば、前便で触れた2月4日のブリュッセルのEC首脳会議もそうでそうであった。17日のWall Street Jornalはアメリカの保守系シンクタンクであるハドソン研究所の研究員、アーウィン・シュテルツァー氏の論文を掲載しているが、これを読むと、ユーロ圏は「ヨーロッパに従うドイツ」から「ドイツに従うヨーロッパ」への歴史的転換の瀬戸際にある。この会議でのドイツ首相メルケルの振る舞いは、いわば「助けて欲しければ、自国をドイツ化せよ」と脅迫するに近いといえる。
会議に出席したベルギーの首相は「超現実的(surreal)な会議であった」とコメントしたという。超現実的とは懐かしい言葉だが、しかしメルケルの脅迫は紛れもなく「現実」なのであって、その現実がベルギーの首相の想像を超えていたというべきである。ただ、シュテルツァー氏の論文を眺めていると、本当にこれが現実なのかと驚くことは事実だ。ドイツを統一されたヨーロッパの中に取り込もうとする努力はほとんど失敗し、ヨーロッパがドイツに従うこと〈ドイツ的ヨーロッパ〉が現実のものとなりつつある。経済的困窮に陥っている諸国の多くの政策において、既にドイツへの屈服が進んでいるとシュテルツァー氏は指摘する(スペインの年金支給開始年齢の引き上げ、金融機関の統合、アイルランドの財政赤字切り下げ目標の強化等)。そうした中で、2月4日のブリュッセルの会議では、メルケルのあからさまな要求に対して、20カ国が自国の「ドイツ化(Germanization)」に反対した。それに対するメルケルの反応は、「ユーロ圏の救済資金の規模を増大することを拒否する」というものであった。これをもって脅迫と言わずして何というべきか。
この報告でも何回もドイツの国内には傲慢さが醸成されつつあると書いてきたが、国民感情と国家の対外政策は簡単に重なるものではない。ドイツの現代史を考えれば、余計にそうである。いかにドイツ国民が「ドイツに従うヨーロッパ」を胸に描いたとしても、それが現実にどういう混乱を引き起こすかをドイツの政治家が考えないわけではあるまい。そう思っていた。それがこんなにも早く国際的に現実のものとなった。ベルギーの首相ならずともとは「超現実的な会議であった」と言いたくもなる。しかし、これはやはり「想像を超えた現実」なのである。
もっともそのドイツにも「想像を超えた現実」が起こっている。2月11日付けのSpiegel-onlineはドイツ連銀のウェーバー総裁が4月末で辞任することになったと報じた。ウェーバー氏はドイツの中央銀行の総裁としては最長の期間その職にあり、またヨーロッパ中央銀行の現総裁トリシェ氏の最有力後継候補でもあった。それが突然辞任する。しかもその理由が今一つ釈然としない。ドイツ連銀と言えば、その政治的独立性が極めて高いことで名高い。だから政治的圧力を受けて辞任することになったとは考え難い。Spiegel-onlineは色々なこと(例えばウェーバー総裁の傲慢さ)を辞任として挙げているが、どれも突然の辞任の理由としては迫力に欠ける。第一、「傲慢さ」などはメルケル首相を含めて、最近のドイツの一般的風潮とさえいえるものであって、そんなものが理由になるとは到底思えない。ここでも現実が想像を超えたというべきなのであろう。
2月11日のNew York Timesは、アメリカ政府の借金が法律で定められた上限に近付いていると報道しているが、こっちは面白くもなんともない「想像通りの現実」。
(2011/02/16)
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