NHKの朝の連続ドラマを見て思いだした。
- 2016年 9月 2日
- カルチャー
- 『暮しの手帖』小原 紘
韓国通信NO498
私が中学生だったある日のこと、父親が仕事帰りに『暮しの手帖』を買ってきた。以来、わが家の近くの本屋から、その変わった名前の雑誌が届けられるようになった。
当時、父親は通産省(現在の経産省)に勤め、電気製品などの工業製品の規格や品質管理に関わっていて、民間の雑誌が行う「商品テスト」に興味を持ち、とても感心しているようだった。
中学生の私には『暮しの手帖』はそれほど面白いものではなかったが、表紙のデザインが明るくてお洒落、記事がわかりやすい雑誌を読み続けた。
もちろん洋服の型紙や料理のレシピには見向きもしなかったが、エッセー類はよく読んだ。なかでも戦争体験の特集記事で、敗戦で引き揚げる満州の開拓団の想像を絶した苦労の手記、国民を見棄てた軍隊の話がとても強烈に印象に残っている。
「暮しの手帖」は家族の誰もが触れ、読むことのできる雑誌だった。生活の知恵、アイディア満載の雑誌のなかで私が興味を引かれたのは、やはり「商品テスト」だった。あの頃のわが家にはまだテレビはなかったが、便利な家電製品が続々と登場し始めた時期だった。
今、振り返ってみると、あの「商品テスト」は「安全」「便利」「経済性」を伝えるわが国の消費者運動の先駆けだったような気がする。結論だけではなく経過が写真入りで丁寧に説明されていたので説得力があった。実証して見せることの大切さを学んだ気がする。
東芝や日立という名だたるメーカーもさぞ驚いたことだろう。信頼できる情報によって消費者の選択が可能になったことは素晴らしいが、作る側も大きな刺激を受けたはず。私の父親も実はそれを面白がっていた「フシ」がある。
戦後の早くから主婦の立場から生活改善の要求を掲げ行動した「主婦連」の活動は消費者運動につながり大きな成果をもたらしたが、『暮しの手帖』が果たした功績も大きかった。
消費者「大不在」の時代
消費者庁が発足して消費者が尊重される時代になったように見える。しかし尊重どころか軽視、時には馬鹿にされていると感じることが多い。
世の中は便利そうな商品で溢れている。しかし不良品・欠陥商品も氾濫している。故障したパソコン、デジカメ部品の「在庫なし」、修理より「買い替え」をすすめられた人も多く、私もまだ使えそうな新品に悔しい思いをしたことがある。企業の理屈を優先させた最たるものだ。聞いただけも「インチキ」商品と思われる商品はゴマンとある。私には関係のない領域だが、「ダイエット」関連、健康、美容のコマーシャルがやたらと目につく。どれもがマユツバもので、言いたい放題の「無法地帯」を思わせる。
飲むだけで一カ月に5キロも10キロも体重が減る。20才も若返る。歩けなかった人がジョギング。どれも「売り上げNO1」と豪語して買う気を誘う。メーカーは勿論のことテレビや新聞などの媒体の責任は大きいが、最近では厚労省認定、大学との共同開発などと「産・学・官」が提携する無責任体制も広がりを見せる。
買わなければ被害に会わないという意見は「詐欺にあう方が悪い」と言わんばかりだ。こんな無法が許されてよいはずはない。企業に甘すぎる行政も問題だが、安易で便利なものを追い求めてきた私たちの側にも責任の一端はある。経済成長(景気対策)と企業の「もうけ」を優先させる政治と経済のあり方を変えるためには、消費者の自覚が求められる。原発も賢い消費者ならあり得ない選択だった。
庶民の幸せを実現するために個人の自立を説いた花森安治を思いだした。
暮しの手帖88号の思い出
2000年88号の『手帖』の表紙を思い出す。通算388号だが、100号になると「初心に帰って」1号から始めるので88号というのも面白い。
その号でジャーナリストの増田れい子さんが「ピアノ」という随筆を寄せている。あるピアノリサイタルの感想である。何故ピアノが『暮しの手帖』に?
読み直してわかったこと。ピアノに憧れた少女時代。戦争のために学べなかった増田さん。それでもピアノが大好きでコンサートに通い続けた。
自分が果たせなかった夢を大人になってから挑戦し続ける人たちがいる。その夢に寄りそう若いピアノ教師(当時20代後半だった)と増田さんが出会った。その生徒たちが「先生」のリサイタルを開くという。2000年6月のことだ。音楽会に増田さんは招待され、好きなショパンの曲を聴き、それまで経験したことのない「一滴の甘い果汁のような音は生涯忘れない」と演奏の感想をつづった。
増田れい子さんのジャーナリストとしての活動は『暮しの手帖』が目指していたものにつうじるところがある。ブランド志向とは無縁で、彼女は普通に生活する人間の幸せを常に追求してきた。ピアノを弾きたい人々の「夢」をかなえようとする音楽教師の生活から生まれたピアノの音色に深く感動した。彼女のエッセーは並みの音楽評論を越えた、自分を含む「人生評論」の趣きさえある。
2000年には花森安治はすでになく、このエッセーを書いた増田さんも4年前に亡くなられた。生活を大切にする姿勢はこのエッセーにも引き継がれていた。
鄭周河さんを見送る
韓国の写真家鄭周河さんが日本での巡回写真展が一段落して帰国する日(8月24日)、見送りに成田に出かけた。
原発事故直後から福島県南相馬を撮り続けた彼の一連の作品は各地で強い印象と感動を与えた。芸術家としてすでに評価は高いが、人間を幸福にしない近代文明に疑問を投げかけ、「反原発」で国境を越えた地球規模の市民の連帯を考える市民運動家としても魅力的だ。
来年4月から新宿の「高麗博物館」を皮切りに三回目の巡回展が予定されている。
彼とは福島県白河に続き、長野県松本市での写真展まで出かけ、大いに交流を楽しんだ。彼は酒を飲むと「クジラ」だった。巡回写真展のタイトル「奪われた野にも春は来るか」を彫った私の陶板作品が気に入って韓国に持ち帰るという、ちょっと「いい話」も生まれた。
朝露館
益子の朝露館には陶芸家関谷興仁さんの陶板作品が展示されている。春と秋のみ毎週末3日間の公開だが、言葉が軽くなった昨今、作品の存在は重みを増している。開館2年目を迎え、多方面から注目を集め、また朝露館を支える人たちも増え続けている。
樹の幹に「君の名前を彫り給え」という詩を思いだす。忘れてはならない大切な言葉をコツコツと関谷さんは陶板に刻み続けてきた。
鄭周河さんが韓国に持ち帰る私の陶板作品は、ここでつくった。私は体験教室で作陶をしながら、原発事故で「野を奪われた」福島の人たちの無念と、韓国の詩人李相和の、日本に奪われた国への慟哭の思いを指先に込めたつもりだ。
私の作品を韓国に持ち帰る交換条件に、鄭周河さんから、福島原発が起きる前に発表した原発のある風景―海辺で遊ぶ子どもたちが描かれた作品(タイトル「不安―火の中に)をいただいた。署名入りにすると「お値打ち」ものだが、無署名のまま私の「宝物」として部屋に飾ることにした。
夏も終わる。1923年9月1日。関東大震災による死者・行方不明者10万人余り。そのなかで数千人の朝鮮人が虐殺されたことを忘れない。詩人李相和はそれを目撃した。
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