色あせない山本宣治(やません)の訴え - 87年前に右翼に刺殺された労農党代議士を偲ぶ -
- 2016年 9月 3日
- 時代をみる
- 山本宣治岩垂 弘
8月は、誰しも物故者と“出会う”月である。今年も8月にはお盆があったから、その期間中はあの世から里帰りしてきた祖先に“出会えた”し、加えて、広島原爆の日、長崎原爆の日、終戦記念日と続いたから、私たちは戦争で亡くなったおびただしい人びとに思いをはせることができた。私も多くの故人に“出会えた”が、最も印象に残ったのは、「やません」こと山本宣治である。
8月6日の広島原爆の日関連の行事や集会を取材した帰り、私は京都に途中下車し、そこで京都在住の友人(大学の同級生)と落ち合い、JR奈良線で宇治駅へ向かった。目的は、宇治市内にある平等院を見学することだった。私がまだ平等院を見たことがないのを知った友人が、案内を買って出てくれたのだった。
宇治駅で下車すると、友人が「平等院へ行く前に見せたいものがあるから」と、宇治川川畔へ向かった。ついてゆくと、豊かな緑に囲まれた和風の国際観光旅館に着いた。「花やしき浮舟園」だった。友人は旅館の受付で何ごとか交渉しているようだったが、やがて青年が現れて、旅館の周りに茂る樹木の中の小道に私たちをいざなった。ついて行くと、古い蔵に突き当たった。古い表札がかかっており、そこには「山本宣治記念資料館」とあった。
「山本宣治」と聞いても、今の若い人はどんな人物か知らないだろう。が、私の年代の者には「ああ、あの人物か」と思い出す人が少なくないに違いない。私は、学生時代に先輩からその存在を教えられて覚えていた。しかし、その生涯については詳しくは知らず、知っていることと言えば「戦前の労農党の代議士で、治安維持法の改正に反対して活動中、東京・神田の旅館で右翼に刺殺された」「その闘いは孤立したもので、彼の最後の演説も『山宣ひとり孤塁を守る。だが私は淋しくない。背後には大衆がいるから』というものだった」ということぐらいだった。
「いまや伝説的な人物と言っていい山本宣治に関する資料をこの目で見られるとは」。私は思わぬ奇遇に胸の高鳴るのを覚えながら、薄暗く、人気のない蔵の中に陳列されている彼のデスマスク、胸像、著作物、揮毫などを見て回った。
資料館に備え付けられていたパンフレット『山本宣治(やません)墓碑、資料館早わかり』(2016年3月改訂版・宇治山宣会発行)によれば、山本宣治の生涯は次のようなものであった。
1889年(明治22年)、京都市新京極のアクセサリー店の一人息子として生まれた。両親はクリスチャンだった。宣治は京都市内の高等小学校を卒業し、神戸の中学校へ進むが、胸を患って中退。両親は宣治のために宇治川川畔に別荘(これが後に「花やしき浮舟園」となる)を建て、宣治はここで養生生活を送る。
17歳の時、上京。大隈重信(明治・大正期の政治家で総理大臣を歴任。早稲田大学の創立者)邸に住み込んで園芸を学ぶ。1907年(明治40年)、カナダへ渡航し、家事手伝い、新聞配達、開墾、鮭捕りなどの労働に携わりながら、ハイスクールで学ぶ。ここで、自由と民主主義を尊ぶ科学的なものの見方を身につけたとされる。
1911年(明治44年)に帰国し、同志社普通学校へ編入学。1914年(大正3年)、そこを卒業し、旧制第三高等学校へ。この年、丸上千代と結婚。1917年(大正6年)には東京帝国大学に進み、動物学を専攻する。東京・小石川に妻、子ども2人と住む。
1920年(大正9年)、32歳で東京帝国大学を卒業し、京都大学大学院へ入学。そのかたわら同志社大学予科講師となり、「人生生物学」を教える。翌21年には、京都大学医学部講師、次いで同大学理学部講師になる。
1922年(大正11年)。この年、日本共産党が創立される。宣治は、この年、米国の産児調節運動家サンガー女史が来日したのを機に労働者・農民への産児調節教育を始める。さらに、自由大学・労働学校の講師を務めるなど、労働者を対象とする教育活動に携わる。1924年(大正13年)には、鳥取市で産児制限に関して講演中、立ち会いの警察官から「弁士中止」を受け、演壇から引きずり下ろされる。これが原因で京都大学理学部講師を辞めさせられる。
1925年(大正14年)、普通選挙法と治安維持法が公布される。これ以前の選挙は一定額以上の税金を納めた者にだけ選挙権を与えるという制限選挙だったが、普通選挙法により、25歳以上の男性は選挙権を得た。ただし、女性は除外されていた。年ごとに高まりを見せていた普通選挙を要求する国民の声に政府がようやく応えたのが、この法律だった。
一方、治安維持法は「国体(天皇制)を変革しまたは私有財産制度を否認することを目的として結社を組織したり、これに加入した者を10年以下の懲役または禁固に処す」という法律であった。要するに、共産党(当時は非公然)をはじめ労働者や農民の政治的活動を取り締まるための法律であった。政府は、アメとムチの法律を同時に施行したわけである。
こうした状況の中で、1926年(大正15年)、無産政党の労農党が結成され、宣治は労農党京滋支部に参加する。翌年、労農党京都府連委員長に選出される。1928年(昭和3年)には第1回普通選挙が行われ、宣治は京都府第2区から労農党候補として立候補し当選。当選者466人中、無産政党からの当選者は8人。宣治はその1人であった。
その直後、共産党員とその支持者、労農党員ら約1600人が治安維持法違反で検挙されるという「3・15事件」が起き、宣治は犠牲者救援に奔走する。
1929年(昭和4年)、治安維持法改正案が帝国議会に上程される。処罰の量刑を「10年以下の懲役または禁固」から「死刑または無期もしくは7年以上の懲役もしくは禁固」に引き上げるというものだった。宣治はこれに強く反対し、議会でもそれを表明しようとするが、発言を封じられ、改正案は3月5日、可決、成立する。
その夜、宣治は常宿としていた神田の旅館光栄館で、「労働者だが、ストライキのことで相談したい」と身分を偽って訪ねてきた右翼団体の黒田保久二に短刀で刺殺された。39歳10カ月だった。
遺体は東京で荼毘(だび)にふされ、遺骨が宇治の「花やしき浮舟園」に移された。そこで1週間にわたって通夜が行われた。日本が、いわゆる「15年戦争」に突入するのは、それから1年半後のことである。
「花やしき浮舟園」は、その後も宣治の遺族によって経営されている。墓は宇治市内にある。墓には大山郁夫(戦前、早稲田大学教授から労農党委員長に就任。戦争中は米国に亡命、戦後、同大学教授に復職)の筆で「山宣ひとり孤塁を守る だが私は淋しくない 背後には大衆が支持してゐるから」と刻まれているという。
宣治が右翼のテロに倒れてから87年。宣治はもう遠い過去の歴史に埋もれてしまった人物だろうか。同パンフをめくっていたら、宣治が1929年の第1回普通選挙に立候補した時に掲げた政見が載っていた。それは以下のようなものだった。
立毛差押立入禁止反対。耕作権の確立
失業者の生活国庫保証と最低賃銀の制定
所得税の免税点の引上及その高率累進賦課
生活必需品の関税及消費税の廃止
言論集会出版結社の自由
選挙法の徹底的改正
働く農民に土地を保証せよ!
労働者に仕事と食を與江(あたえ)よ !
税金は大地主大資本より出させよ!
すべての人民に自由を與江よ!
その中に「言論集会出版結社の自由」があったのが、ひときわ私の目を引いた。「そうだ。宣治が命をかけて治安維持法に反対したのは、言論・集会・結社の自由をなんとしても守りたかったからだ」。そんな感慨に襲われた。
戦後に制定された日本国憲法は「集会・結社・表現の自由」を保障している。が、安倍政権になってから、特定秘密保護法が制定された。これについては今なお「国家機密を拡大し、国民の知る権利が制約されかねない」との批判が強い。
そればかりでない。この7月には、自民党が教育現場で政治的中立性を逸脱する教員の事例がなかったかを把握する実態調査への協力を、ホームページ上で募っていたと、共同通信などが報道した。また、参院選前の大分市で、野党を支持する労組などが入る建物の敷地に警察署員が無断で立ち入り、ビデオカメラを設置する、といった出来事があった。そのうえ、安倍政権は、過去に廃案となった「共謀罪」の成立要件を絞り込んで「テロ等組織犯罪準備罪」を新設することを柱にした組織犯罪処罰法改正案を今秋の臨時国会へ提出する構えだ。
「言論集会出版結社の自由」が、また侵されつつあるのだ。山本宣治の訴えは決して古くさび付いたものではなく、現代日本にも通ずるのではないか。そう思わずにはいられない。そればかりでない。彼の政見の中には、87年後の今もまだ実現していない項目がいくつもある。そのこともまた、彼の訴えが今なお古くはなっていないことを感じさせる。
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