ファシズムは死語になったのか ― 60年前に丸山真男が書いたこと ―
- 2016年 9月 26日
- 時代をみる
- ファシズム丸山真男半澤健市
《「ファシズム」の出てこない日本通史》
「ファシズム」という言葉はなくなったのか。「現政権はファシズム政権」と書く新聞は一紙もない。テレビ局も一つもない。それは現政権がファシズム政権でないから当然なのか。それとも、大東亜戦争下のように、あるものをないとしか書けないマスメディアの現状が、ファシズムの現実を示しているのか。
「岩波講座」の日本通史で、私が閲覧可能なものは、1970年代、1990年代、2010年代の、三回分である。各回とも、二十数巻を擁する。「ファシズム」が、タイトルに含まれる論文は、70年代に四つあった。90年代には論文タイトルには含まれず、全25巻の索引に「ファシズム」「日本ファシズム」と単語が各一回だけ出てきた。10年代講座にはタイトルになく、索引がないので文中の出現の有無は調べられなかった。すなわちリベラル派の日本歴史でも「ファシズム」は、賞味期限が切れた単語なのである。
私の手許にある丸山真男著『超国家主義の論理と心理』(岩波文庫、2015年刊)には、9本の政治論文が載っている。うち3本のタイトルに「ファシズム」が含まれている。
流通しない言葉が「古典」となるのか。我々にファシズムを忘れさせないために古典があるのか。
《丸山による二つのファシズム論》
下記に一部を紹介する「ファシズムの現代的状況」と題する文章は、1953年4月に『福音と世界』という雑誌に発表された。政治学者丸山真男が、同年2月に日本基督教会信濃町教会で行った講演を補訂したものである。上記文庫中では短いものである。
丸山はファシズムの定義は難しいが大別して二つがあるという。
狭義では、スペインや東欧・中南米などの後進国と、近代化の遅れた高度資本主義国(独・伊・日)とに見られる現象という。一党独裁、非議会主義、全体主義、自国至上主義、排外主義を主張する。アングロ・サクソン系国家でこの解釈が支配的である。自分たちはそういう国家だと思っていない。独・伊・日のファシズムが倒れた今、ファシズムの再現はありえないし、民主主義の旗手米国がファシズムに陥ることなど到底考えられない。これが自由主義陣営の自己認識である。
広義では、概ねマルクス主義的解釈による「現段階における独占資本の支配体制」とする見方となる。ここでは「ブルジョア民主主義・社会民主主義・ファシズム」の差は小さくみられる。丸山は、前者の復活を警戒すべきは当然としても、米国にも歴然としたファシズムの兆候は現れているとみてこの文を記したのであった。
「ファシズムという現象が、決して近代社会の外部から、その花園を荒らしに来た化け物ではなくて、むしろ近代社会、もっと広くいって近代文明の真只中から、内在的に、そのギリギリの矛盾の顕現として出て来た」というのである。
丸山は、ファシズムの特徴として「社会の強制的同質化」、「強制的セメント化」を挙げる。それは非合法的暴力、合法的立法、教育・宣伝など多様な手段で達成される。反対勢力を弾圧するのは、古今東西に共通の手法だが、ナチスの場合は次の二点に特色がある。
一つは、抑圧が「止むをえぬ害悪」としてでなく反対勢力の圧伏自体が目的化し絶対化するニヒリズムであること。二つは、市民の組織を、バラバラな「マス」に再組織(=同質化)すること。あらゆる組織や階層を混ぜ合わせて、無性格・無規定な「マス」に変えるのである。次にこの「マス」を、セメントのように固める。これを「革命」とか「新体制」と呼ぶのである。しかし資本主義的生産方式には一指も触れずにこの同質化は実行される。
《マッカーシー旋風への批判》
第二次大戦後のファシズムは、ナチスのように手荒ではない。公然とファシズムの看板は掲げられない。そこで民主主義とか自由とかの標語を掲げざるをえなくなった。「民主的自由や基本的人権の制限や蹂躙がまさに自由とデモクラシーを守るという名の下に大っぴらに行われようとしているのが現在の事態です」と丸山は述べている。
1950年に、米国ではジョゼフ・マッカーシーの赤狩りが始まり、数年間荒れ狂った。日本国内では、朝鮮戦争勃発を機に、政治は「逆コース」に入った。民間、公務員のレッド・パージが始まった。日本共産党は、GHQによって非合法化された。丸山の論はこのときに書かれたのである。彼は米国における「反対者に許される発言の自由」と、ナチスにみられた「同種の発言だけを許す自由(同義反復)」に触れたあとこう続ける。
「こういう基準に照して今日のアメリカを見ますと、この〈自由世界〉の元締の国での社会的雰囲気は/(一部略を示す)前者の意味での「自由」観から、後者の意味での「自由」観に驚くほどの勢で移行しているのを認めないわけには行きません。/あらゆる分野での〈忠誠審査〉はまさに大審院判決のいう信条告白の強制であり、F・B・I(連邦捜査局)や非米活動委員会での「赤」や「同調者」の摘発は、アメリカ国内に未だ嘗て見られなかったほどの規模での思想的恐怖をまきおこしているように見えます」、「何も好んでアメリカの暗黒面を並べたてるというつもりではなく/自由を守るためには自由を制限するという考え方は、現在の客観情勢の下ではズルズルとファシズム的な同質化の論理に転化する危険があるととするならば、わが日本のような、自由の伝統どころか、人権や自由の抑圧の伝統をもっている国においては、右のようなもっともらしい考えの危険性がどれほど大きいかは言わずとも明らかであろうと思います」。
《天皇夫妻とジャーナリストの会話》
このあと丸山は、ファシズムが強制する種類の国民のマス化は、現代資本主義の下では、産業界でも、政治の世界でも、あらゆる組織化とともに不可避的に進行しているというのである。その上、「マス・コミュニケーション」(今なら「マスメディア」)の発達が、この傾向を加速する。丸山の結論は、ファシズムのもつ強制的同質化作用は、近代社会、近代文明の条件や傾向に内在して、根が深いというものである。
それに抵抗するにはどうすべきか。
「国民の政治的社会的自発性を不断に喚起するような仕組と方法がどうしても必要で、そのために国民ができるだけ自主的なグループを作って公共の問題を討議する機会を少しでも多く持つことが大事と思われます」。この策は真っ当で平凡である。
『文藝春秋』(2016年9月号)に半藤一利・保阪正康両氏の対談が載った。本年6月14日に明仁天皇夫妻と両氏が数時間の会話したときの内容報告である。天皇夫妻が、日本近代史に詳しいこと、両氏に鋭い質問をしていること、四人の問答の水準も高いものであること、がよくわかる。両氏は学者でなくジャーナリストだが、近現代史の世界ではアカデミズムとジャーナリズムに垣根がないのが実態である。天皇夫妻が、二人を呼んだ目的はわからない。ただ、二人のジャーナリストは、インタビューに長じ実証に強い人たちである。さらに近年、この二人は「反戦・平和」を訴える発言が多い。現政権が限りなく「ファシズム」に近くて危険だというラジカルな発言もある。
私は、丸山がキリスト教の教会で発した言葉が、なぜか気になってこの一文を書いた。ファシズムは本当に死語になったのか。言葉は目に見えない。しかし世の中、見えないから存在しないといえないこともあるのだ。(2016/09/23)
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔eye3666:160926〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。