『告白録』─「心胸」(ハート)の思想家J.J.ルソー/その孤独な彷徨
- 2016年 10月 10日
- カルチャー
- 合澤清(ちきゅう座会員)
書評:『告白録』J.J.ルソー著 井上究一郎訳(河出書房新社 世界文学全集Ⅱ‐5 1964)
この本を最初に手に取ったのはいつの頃だったろうか?多分20歳ぐらいの頃ではなかったろうか…。こんな感傷を抱きながら、再びこの書を繙読しようと思い至ったのは、ベルリンのハーフェル川(die Havel)に浮かぶ小島「孔雀(Pfau)島」に降り立ったからである。友人に案内されて、船でこの島に渡った時、ここでルソーがあの有名な「自然にかえれ」という思想にたどり着いたのだと教えられたことが直接の機縁である。
Pfau(孔雀)島
そして帰国後、結構な厚みのあるこの書物を一気に読みほしたのであるが、残念ながらどこにもルソーと「孔雀島」にまつわる話は出てこなかった。しかし、ルソーがドイツに漂泊したあげく、ここに来たことはほかの文献にあたる限り、どうも事実らしい。それでは「自然にかえれ」というあのキャッチフレーズはどうなのか、このことに関してはこの書物の翻訳者があとがき(訳者解説)で次のように触れていた。
「ジャン・スタロバンスキによれば、ルソーは『自然にかえれ』とはどんな著作にも言っていないという。自然にはかえれない。幼児にかえれないのと同じように。せめて植物に愛着を感じるのである。植物によって自然とのコミュニケーションが記憶によみがえってくるのである。転落したものは-失楽は-もう絶対にかえらない。人間が生まれ、喜び、悩み、夢み、夢破れ、年老いてたどり着くのは、自己愛(という徳性)よりほかにはないのである。ではルソーが追求した真実は、真実の正しさは、どうなったのか?そんなものはなかったのか?真実は確かに存在する。真実はそれを感じ、それを訴えることができる。だがそれを他人の中に、他人によって存在させようと努めることは虚しかったのだ。それは自分の内部に郷愁のように宿っていて無償のコミュニケーションの場を待っているような、そのようなものだった。そういう郷愁がいつか捉えられ、ある普遍の形に再構成される時、初めて、他人はその共通の郷愁にはじめて触れてくる。そのとき真実は理解されるだろう。そういう真実だけが存在する。」 (p.716)
なるほど確かに、小さいが、散歩するには好適なこの島の自然は今でもすばらしいものである。特にこの小島を取り巻き、ハーフェル川やシュプレー川沿いに展開する広大な森は壮観である。ルソーでなくとも、思わず「自然…」と声を懸けたくなるのは無理からぬところであろう。
さて、この書物に戻って、少々読後感などを述べてみたい。この書は次のような二部編成からなる-第一部(巻1~6)、第二部(巻7~12)-。書かれた時期も彼自身の生活状況もかなり異なっているためであろうか、内容的にも違って思える。第一部(1764‐67年頃執筆)が、彼にとってのなつかしい思い出話で埋まっているのに比べて、第二部(1769‐70年頃執筆)は、ほぼ全編が世間や彼を裏切った(と彼には思える者達)への憎悪からなっている。私の読後感では、圧倒的に第一部が面白い。第二部のルソーは、第一部のルソーと比較すると、別人のような感じさえする。ひとまず功成り名を遂げた(上流階級に仲間入りした)結果なのだろうか?ルソー自身も第二部は資料的な価値しかないという意味のことを書いてはいる。そしてこれは私自身の関心事になるのだが、この本を隅から隅まで読み通しても、残念ながらあの繊細で、弱々しい、ある意味極めて凡庸なジャン‐ジャークが、いかにして思想界の巨人「ジャン‐ジャーク・ルソー」に変貌したのかに直接触れられている個所には出くわせない。われわれとしては、以下のようなルソーの気質の中にそれを読み取る以外にないのである。もう一つ、注目すべきなのは、この書の中で、彼が赤裸々に(彼自身もこのことを十分意識しているようではあるが、精神病理学研究の対象者と思えるほどに臆面もなく)自己を露出し、語っている点である。そしてまさにこの点こそが、この『告白録』が後世の文学作品など(スタンダールやアンドレ・ジード、フロイトなど)に大いなる影響を与えたといわれる所以ではある。
1.「かわいそうなジャン‐ジャーク」-貧しくて、寄る辺のない修業時代(第一部)
ルソーは、1712年にジュネーヴで生まれたが、生後間もなく母親に死に別れる。父親は彼が10歳の時にジュネーヴを去り(彼が14歳の時に再婚)、彼は叔父に預けられ、その後、徒弟に出されたりしながら幼・少年期を過ごしたようであるが、その性は気が弱く、多感な少年であったという。この性質が後年のルソーのベースになっていることは疑えない。
「わたしには非常に激しい情熱があって、それがかき立てられている間は、まるで手が付けられず、自制心も、体裁も、心配も、礼儀もあったものではない。無恥、厚顔、狂暴、不敵である。恥辱も構わず、危険も恐れない。心にかかる唯一つの目的をほかにしては、宇宙も物の数ではない。だがそうした全ても、しばらくの間しか続かない。次の瞬間、私は茫然自失に陥る。平静な時の私を考えてもらいたい。気不精であり臆病そのものである。一つ一つに怖気づき、気が挫ける。ハエが飛んでも怖い。一言いうのも、ちょっと身を動かすのも、安逸を脅かす。恐怖と羞恥に挫かれて、生きているあらゆる人の眼から姿をかき消したいほどだ。何か行動しなければならなくても、何をしていいか判らない。何かしゃべらなくてはならない時でも、何を言っていいか判らない。人に顔を見られるとドギマギする。熱中してくると、いうべき言葉を見出せないことはないが、普通の座談では何も見いだせない。全然何一つ見いだせない。話さなくてはならないというただそれだけのことで、座談が私には耐えられない。」(pp.35-36)
16歳の時に偶然事からジュネーヴを出奔し、放浪の末、ヴァラン夫人と出会う。このヴァラン夫人との思い出がこの第一部の主題である。貧しくて苦しみ多き生活だったが、彼にとっては生涯忘れられないたのしい時期として思い描かれている。
そのころヴァラン夫人は結婚に破れて、サヴォワ国王に庇護されて生活している身分であり、クロード・アネというルソーよりも年上の従僕を恋人にしていたようだ。ルソーは、彼女を「ママン(お母さん)」と呼んで親しむのであるが、21,2歳の頃、彼女から「一人前の男になる洗礼」を受ける(彼はこれを「近親相姦の罪を犯した」様な気分と書いている)。
ルソーは自分の様々な弱点、虚偽癖や悪行などもあからさまに、正直に告白している。中には非常にユーモラスなものもある。例えば、食べるためにやむなくついた嘘に、「自分は音楽家である」といった大法螺がある。もちろんすぐに露見し、大衆の前で大恥をかくことになる。しかし、なかには笑えない悪行もある。盗みの濡れ衣を罪もない少女に着せて彼女を職場放逐の運命に追い込むなどはその例である。
彼女の名前は、マリオンという。ルソーは秘かに心を寄せていたこの少女に、自分のやった盗みの濡れ衣を着せてしまう。そして生涯このことを悔やみ続ける。
「マリオン…自分はあるひどい行いをしたことがあって今でも後悔している、といった程度の告白で、それがどんなことであるかは決して言わなかった。この重みは、だから今日まで、私の良心の上にじっとのしかかって、少しも軽くなっていない。」(p.84)
「嘘を憎むのも、大部分は、自分がそのようなさもしい嘘を言ったことの後悔からくるような気がする。」(p.85)
「美徳はわれわれの過失あってこそ価値を持つので、われわれが常に賢明であろうとする意志を持っているならば、美徳に努める必要はほとんどあるまい。しかし、容易に打ち勝てる性質でも、無抵抗に引きずられる。大した危険はないと高をくくって、軽い誘惑に負けてしまう。知らず知らずのうちに危険な状態に陥っていき、初めならば容易に免れられたのに、今では恐ろしいほどの英雄的な努力をしなければ、それから抜け出すことはできない。そして、ついに神に向かってこう言いながら奈落の底に落ちていく、『なぜ私をこんなに弱くおつくりになったのですか?』だが、そうしたわれわれに容赦なく、神はわれわれの良心に向かって答える、『深淵から出られないほどお前を弱くつくった、と言うのも、そんなところに落ち込まないだけ充分に強くつくってあるからだ。』」(p.63)
ルソーは反省の人である。彼は自分の出自や教育のなさなどに由来するコンプレックスに絶えず悩まされている。そして見え透いた虚勢を張ってはその場を潜り抜けようとする。そのことを思い出すたびに彼は内心でつぶやく、「かわいそうなジャン‐ジャーク」(p.149)
2.自由人ルソー
「どんな種類の束縛にも我慢のならない私の精神は、その時その時の規則というものに服従することができない。覚えられるかしらという心配だけで、もう注意がさまたげられる。言ってくれる人をじれったがらせるという恐れから、わかったふりをする。先へ進むが、何もわかってはいない。私の頭は自分にあった時間の通りに働こうとする。他人のそれに従うことはできないのだ。」(pp.117-118)
ここに引用した文中では、コンプレックスや気の弱さに起因する虚勢(見栄)と、あらゆる制約を拒み、自由を求めるという彼の性情が反省をともなって見事に結びついていると思う。
また、以下に引用するものとも関連するのであるが、私には現代の日本の学校教育(特に戦後の早い時期から行われ始めた学習指導という名の生徒への過剰な指導、実生活への監視介入)の持つ悪しき結果、つまり「創造性のない、つまらない人間を生み育てる教育」に対するルソーによる反発が感じられるのである。思考をはぐくむのに必要なのは、「死んだ知識」をただ詰め込むだけの無味乾燥な学校教育ではない。そこで行われている管理監視教育や、ただ既定のカリキュラムを消化することに汲々とし、有名大学への進学のみを目的とした教育は、実際には「教育」という名前にすら値しないのではないだろうか。しかもこのような画一化された、生徒一人一人の自主性の芽を摘んでしまうような「お受験教育」あるいは「教育工場」が、人の一生にとって最も大事な時期とされる、基礎教育の時期(ドイツではGrundschule=基礎学校から高等学校にあたるGymnasiumまで)に否応なく強制されているのである。時代のニーズに合った従順な労働者を作り出すために、自由な思考時間、また教養などを与えたくないとの為政者の意図の露骨な表れではないだろうか。ここではこれ以上この問題に深入りはしないが、少なくとも現代のドイツに比べても、日本の基礎教育段階でのゆとりのなさはあまりにもひどすぎる。
ルソーは自然の中での自由な思考を次のように述べている。
「徒歩は、なにかしら、私の思考を活気づけ、活発にするものを持っている。ひとところにじっとしているとき、私はほとんど考える力を持たない。私の肉体は、精神を働かせるには、動きを与えられなくてはならないのだ。田園の眺望、いい景色の連続、大気、盛んな食欲、歩くことによって得る健康、田舎の料亭の気楽さ、束縛を感じさせ境遇を思い起こさせる一切のものから遠ざかる、そういったことが、わたしの魂を解放し、ずっと大胆に考える力を与え、いわば万有の広大無辺の中に私を投げ入れて、何の気兼ねも、何の遠慮もなく、そこにあるものを取り合わせ、選び、思いのままにわがものにすることを許すのである。私は全自然を自由に処理する。心は一つのものから他のものへとさまよい、気に入るものに結合し、同化し、美しい映像に取り囲まれ、快い感情に陶酔する。もしも私が、そうしたものを固定するために、それらを自分の中に描いて楽しむのであれば、どんなに雄渾な筆法、どんなに鮮やかな色彩、どんなに逞しい表現を以てすることだろう!そういうものが私の作品、それも私の晩年に近く書かれたものの中にある、といわれる。ああ、もしも人が、私の青春の作品、旅の間に作った作品、構想はしたけれどもついに書かなかった作品を、見てくれたとしたら…なぜその時書かないのだ?と諸君はいうだろう。だって、なぜ書くのだ、と私は答えよう。なぜ、現に味わっているたのしみを差し置いて、自分の楽しんだことを他人に伝えるのだ?読者、世間一般、いや全地上、そんなものは天上を駆け巡っている私に、何の重要さがあろう?それに、紙やペンを持っていただろうか?そんなことを考えていたのだったら、何も現われてはこなかったろう。今に何かいい着想が浮かぶ、などと予期もしなかった。思いつきは勝手に現われるので、私の好都合な時に現れるのではない。全然やってこないか、どっとやってくるかだ。くるときは数と力で私を圧倒する。一日に10冊書いてもおっつかないだろう。それだけ書く時間がどこにある?着けば楽しい食事をしようとしか考えず、発つときは楽しく歩こうとしか考えない。新しい楽園が戸口を開けて待っているように感じる。それを探しに行くことしか考えないのだった。」(pp.161-162)
たしかゲーテだったと思うが、「思考は静穏の中で生まれる」とどこかで書いていた。真の「ゆとり教育」は今のような「企業に役立つための教育制度」の下では生まれない。
3.平民(庶民)ルソー
「平民ルソー」という肩書は彼が好んで使ったといわれる。しかし、実際にはこの辺の事情はかなり微妙で、曖昧さが残るように思われる。つまり、字義通りに受け取って、ルソーが自己を「平民」と考え、そういう階級に自覚的にとどまろうとしたとみると、そこにはかなりな危うさが伴うのではないだろうか。確かに、彼は庶民感覚に共感し、また自らの出身母体である庶民階級のことがよくわかってもいた。しかしそれ故にこそ、そこからの脱出、上昇志向も人並み以上だったのではないだろうか。単純に彼を平民(庶民)の代表者のごとくみなす考え方には同調しかねるのである。結局彼は、一度は摑みかけた上流階級への道をいろんな理由、事情(当然、ルソーの性格なども加味される)から踏み外して、再び庶民に戻り、そこに安住したとみるのが妥当なのではなかろうか。後年のルソーの「偏屈さ」「猜疑心の強さ」「人間嫌い」などと言われる性格は、この彼の人生行路の屈折の中で形成されてきたようにも思えるのである。その意味では、いくらルソーがこの『告白録』を「これは自然のままに、真実の姿のままに、正確にえがかれた、唯一の人間像」と称したとしても、脚色の跡はぬぐえないのである。原理的に考えれば、自己の自体性を自己自身は確実に知っていると考えること自体、おかしなものなのである。われわれはどこまでも対他にして対自存在たりうるのみであるからだ。
「庶民階級の間では、大きな情熱はたまにしか感じ取られないけれども、自然の感情が聞き取られることははるかに多いのである。上流階級にあっては、そうした自然の感情はすっかり押さえつけられ、感情の仮面の陰に、感じ取られるものはいつも利己と虚栄だけである。」(p.147)
次の文章は、以前に書いた論稿の中でも引用したことがあるが、ルソーの庶民感覚と同時に、当時の被搾取農民階級の生活の知恵(ある種のずるさ)がよく示されている。
「そんなある日、なんだか景色が素晴らしそうに見えたので、もっと詳しく探ろうとして、わざとわき道にそれていった場所が、なかなかおもしろいので、ぐるぐる回り歩いているうちに、とうとう完全に道に迷ってしまった。何時間も無駄歩きをしたのちに、くたくたに疲れ、ひもじさとのどの渇きとに死にそうになって一軒の農家に入った。構えは立派ではないが、それがその辺に見当たった唯一の家である。…その家の人に金は払うから昼食を食べさせてくれと頼んだ。薄い牛乳と粗末な大麦のパンとを出し、これだけしかないという。…だが疲れ切った人間にはとてもこれだけでは回復はおぼつかない。私をじろじろ見ていた百姓は、私の食欲の偽りではないことから、私の語った話が偽りではないと悟った。…彼は台所の脇の小さい上げ板を開けて、降りて行き、すぐ、純小麦の上等の黒パンと、切りかけてはあったが見るからにうまそうなハムと葡萄酒一本とを持って出てきた。…そんなもののほかに、かなり厚いオムレツまで付け足してくれ…いざ勘定というときになると、…金を出してもいらないと言い、ひどく迷惑そうに押し返す。…やっと震えながら、役人とか、穴倉ネズミとかいったあの恐ろしい言葉を口にした。つまり、補助税がかかるので酒を隠し、人頭税がかかるのでパンを隠しているということ、自分が餓死しそうもないと睨まれようものなら、もう決して助からないのだということを教えてくれた。」「この話からは、永久に消え去らない印象を受けた。不幸な人民の受ける苛酷な苦しみとその圧政者とに対して、以来私の心に広がったあの消すことのできない憎悪の芽生えは、実にここにあったのだ。」(p.163)
4.晩年のルソー‐孤独とさすらい(第二部)
ルソーの最晩年の作品に『孤独な散歩者の夢想』という本がある。翻訳されて岩波文庫にもはいっている。自己の人生を振り返り、諦念した気持ちを綴ってなかなか味わい深いものである。しかし、この第二部ではまだそこまで諦観してはいない。世間への、また自分が信用して裏切られたと感じているかつての友人たちへの恨みつらみがドロドロと書き連ねられている。しかもその相手が、百科全書派のディドロやダランベールや有名なグリムや、あるいは時の権力者ポンパドゥール夫人(ルイ15世の愛人だった)などであるからゴシップとしても今日のタレントの浮気話などよりもはるかにスケールが大きくて興味深い。おそらく、半分はルソー自身の生来の被害妄想的な強迫観念から出たものであろうが、しかしまた半分は、実際に時の権力に狙われたことによる怖れと不安から、ある種の自暴自棄になって書き残したものと思われる。もちろん、彼の生前中にすべてが公表されるべくもなかったのは当然のことであろう。この書には出てこないが、私の記憶に残る面白い話は、あの有名な漁色家のカサノヴァが、旅の途中でルソーと出くわして親しく話をしたことがあると書いている(『カサノヴァ随想録』)ことである。カサノヴァにとっては、彼はなんとも偏屈な人間に映ったようだ。しかしここでは、あまり詳しい注釈はつけない。以下の引用箇所を楽しんでいただければそれでよい。
「私の名は既に有名になって、ヨーロッパ全土に知れわたっていたが、私は相変わらず若いころの素朴な趣味を持ち続けていた。およそ党派とか派閥とかいうものへのこの上ない嫌悪から、私は自由に、独立して、ただ自分の心の愛着だけを絆にして暮らしてきた。孤独で、異邦人で、人から離れ、後ろ盾もなく、家族もなく、ただ自分の主義と義務とにすがり、勇敢にまっすぐな道を進み、正義や真理に背いてまで人に媚びたり人を許したりすることは誰に対しても絶対にやらなかった。…グリム、ディドロ、ドルバックは、私と違って、渦巻きの真っただ中で、いつでも大社交界のどこかに顔を出し、ほとんど彼ら三人の間で、あらゆる領分を分かち合っていた。」(p.500)
「有名なモンテスキューが[1721年、『ペルシア人の手紙』の刊行直後]、ツールヌミーヌ神父[〈ジュールナル・ド・トレヴー〉の主筆]と交わりを絶った時、彼は世間に次のように告げ、その事実をいち早く公表した、『私たち二人が、互いに相手について語るとき、ツールヌミーヌ神父のいうことも、私のいうことも聞いてはならない。私たち二人は友達ではなくなったからである。』この態度は称賛を博し、世間はその率直と高潔な態度をたたえた。私はディドロについて、この例にならおうと決心した。」(p.506)
この本の末尾の訳注によれば、ルソーは『ダランベールへの手紙』の序文に注の形で旧約集会書の一節のラテン文を入れている。それは次のような文句である。「たとえあなたの友にあなたが剣を抜いたことがあったとしても、絶望してはならない。その友はまた帰ってくることがある。たとえあなたの友に悪口を言ったことがあっても、くよくよしてはならない。あなたたちはまた和解することがある。けれども、侮辱や非難や無礼であなたが友を傷つけたことがあったら、友の秘密を暴いたことがあったら、また友を裏切ったことがあったら、その時あなたの友はあなたから逃れ去るだろう」(『集会書』22章、26-27)(p.690)
下衆っぽく勘ぐれば、この当時のルソーの心境は「俺は自分の力で有名になったのに、社交界から身を引く潔さを持っている。それなのに、俺の名前を語り、裏で悪口を言って名声を得た者どもが、相変わらず社交界でちやほやされているなんて、許せないことだ。このおべんちゃら野郎ども!」ということにでもなるのであろうか。しかし、時の権力者ポンパドゥール夫人ともなると勝手が違ってくる。彼女に狙われたら、実際に生命の保証がないからだ。彼はドイツを経由してイギリスまで逃れる(これはデヴィット・ヒュームとの知己故であったが、そこでも猜疑心からヒュームと喧嘩別れする)。
「…私は彼(パリ高等法院の評議官で現在の制度に不満をいだいている)と同じように、またその他の多くの人たちと同じように、いまの制度は没落の途にあり、やがてフランスは崩壊の危機にさらされるものと考えていたからである。すべて政府の過失から出来した不幸な戦争の災禍、信じられないほどの財政の紊乱、これまで互いに公然と闘争を行い、互いに傷つけあうために王国を瀕死の淵に陥れていた二、三の大臣たちによって分裂した政府部内の絶え間のない葛藤、人民はもとより、国家のあらゆる階級の全般的な不満、わずかでも理性を具えているとしたら、その理性をつねに好悪の感情のために犠牲にしながら、常に有能な人材を遠ざけては自分の一番気に入る人々に地位を与えている執念深い一人の女性[ポンパドゥール夫人]の頑迷、そうした全ては、その評議官の予想を、また大衆と私との予想を正しいものとする方向に向けつつあった。」(p.577)
ルソーの思いが微妙にぶれていると書いたのは例えば次のような一節に現れている。
「…しかしすべてそうしたことにもかかわらず、下層民は秘かに何者かの手で踊らされ、私を目がけて騒ぎ出し、それが次第につのって狂暴となり、白昼公然と、田舎や街道でばかりか、街路の真ん中で、私に侮辱を加えるようになったのである。」(p.638)
「平民(庶民)ルソー」がそれにもかかわらず「下層民」に襲われたのである。彼はこれを何ものかによる差し金だという。この辺の真相は不明であるが、この書を読む限りでは必ずしもそうとはいえないようにも思える。だが、結果として彼はのちの「フランス大革命」の思想的な代表者の一人とみなされることになる。ルソーの生前の不幸は死後の幸いと言わねばならない。
今、ルソーと同様な歴史の転換期に遭遇しているわれわれが、ルソーから何を学ぶべきなのか、彼が干乾びた「知識」よりもはるかに「心胸」(ハート)を優先させた点は大いに評価してもよいように思う。まとめとして、ルソー自身の手になる『告白録』への感想を添えてこの小論を締めくくりたい。
「私は不幸はすぐに忘れる。だが、過失は忘れることができない。好い感情はさらにもっと忘れられない。そうした感情の追憶は、心から消え去るにはあまりにも貴い。事実を書き漏らしたり、日付を転倒したり、間違ったりすることはあるが、自分の感じたこと、自分の感情からやったことについては、間違いはない。そこが肝心なところだ。私の告白録の本来の目的は、これまでのあらゆる境遇にあっての私の内部を正確に知らせることである。私が約束したのは、私の魂の歴史である。だからそれを忠実に書くのに、何もほかの覚書は必要ではない。今までそうしてきたように、自我の内部へ立ち返るだけで十分なのだ。…たとえ自分の利益になろうと不利益になろうとかまうまい。私が告白をやっていることを読者が忘れ、弁明をしていると思い込むような心配はまさかあるまいと思うから。しかしまた読者は、真実が私に有利に語るときも、そういう真実に私が口をつぐむことを期待してはいけない。それにこの第二部は、この真実ということでしか第一部と共通の点はないし、事実の重要性ということでしか第一部に優れてはいない。それをのぞけば、すべての点で第一部に劣るばかりである。第一部は、ウットンで、もしくはトリーの館で、愉快に、たのしく、くつろぎながら、書いたもので、呼び起さなければならなかった回想のすべては、それと同じだけの新しい楽しみであった。私は絶えず新しい喜びを以て昔に立ち返り、すらすらと心行くまで筆を運ぶことができた。今日では記憶も頭も鈍って、ろくな仕事はほとんど何もできそうにはない。無理を押して、悲しみに胸をしめつけられながら、この仕事にとりかかるにすぎない。この仕事は、不幸と、人の裏切りと、不信と、悲痛な回想しかもたらさない。」(pp.276-277)
2016.10.7記
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〔culture0339:161010〕
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