ある学者の志――社会主義論の一生
- 2016年 10月 27日
- 評論・紹介・意見
- 岩田昌征
10月8日、明治大学駿河台キャンパス自由塔にて、村岡到氏等の呼び掛けで、「上島武さんを偲ぶ会」が開かれた。私は、社会主義経済学会(現比較経済体制学会)や上島氏と村岡到氏が設立された社会主義理論学会の研究集会で顔を合せ、目礼する程度の交流であった。氏に限らないが、多くの左系の社会主義経済研究者は、社会主義の本質論や革命史に考究の焦点を置いていたのに対し、私=岩田は、同じく左系とはいえ、社会主義経済システムの機能的持続可能性や実験的多型性に関心があった。彼等は、どちらかと言うと、私の論敵であった。
その頃、ソ連東欧の社会主義を研究対象とする学会が二つあった。一つは、マルクス思想系の社会主義経済学会。二つは、ブルジョア思想系のソ連東欧学会(現ロシア東欧学会)。多くの研究者は、どちらか一つに属していた。上島武氏もそうであった。私は、最初は前者に、しかしかなり早くから後者にも所属していた。私の処女作『比較社会主義経済論』(ユーゴスラヴィア留学から帰って、昭和43年・1968年に執筆完了し、昭和46年・1971年に日本評論から出版)の「まえがき」に記しているように「比較体制論の構成部分としての社会主義経済論」がそもそもの私の原点であったが故に、ブルジョア思想的視線とマルクス思想的視線を交叉させる事は、私の方法論的必然であった。社会主義体制が自崩して、ブルジョア的グローバル経済だけになった現在でも、現代世界を両視線を交叉させて観測する基本方法は、生きる。
それ故に、1989-1991年にソ連東欧体制が音をたてて自壊した後に、社会主義経済学会は、比較経済体制学会へ改名・改称した。会員諸氏が学的方法論の主体的再検討の結果として、あるいは事態の推移への自動的順応の結果として学会名称の変更を選択したのか、関心があった。私の場合、「社会主義経済論」の授業をやったことはない。1984年以来千葉大学法経学部で「比較経済体制論」を担当して来た。
「上島武さんを偲ぶ会」で大阪経済大学の山本恒人氏が上島武氏に関する一実話を話された。私は、深く感動した。ここに紹介させていただく。
先生の退職直前、経済学部のカリキュラム委員会から、改革提案と退職後の先生のご担当科目への措置とを重ねて、「社会主義経済論」4単位を「比較経済体制論1・2」4単位に変更したい旨提案がありました。先生は普段は中堅・若手が審議を重ねた提案をあれこれ言われることはなかったのですが、この時だけは「社会主義経済論」の存続を毅然と、論理立てて主張されました。先生も自らを振り返られたのか、最期は「懇願」といった姿勢で控えめに発言を終えられました。私も驚きながら、「上島武ここにあり」との感を深くいたしました。その結果、現在も大阪経済大学では「社会主義経済論」2単位、「ロシア経済論」2単位という全国でも稀有な科目として、学生たちの履修が続いております。(以上、紹介おわり)
私は、ここに学者魂を見た。私の論敵達の中にかかるはりつめた精神が生きていたことを知る。それは喜びだ。そしてまた大阪経済大学が現世経済主義全盛の時勢にかかる学者魂を尊敬して、上島武氏の講義主題を継承している。これまた見事である。
私の好きな御製がある。
若きよにおもひさためしまごころは
年をふれどもまよはざりけり
明治45年、明治天皇最晩年の作である。私は、この「まごころ」を「思想」と読んできた。こう見ると、上島武氏は、ロシア人レーニンの子であると共に、日本人明治天皇の子であったと思えてならない。
最期に一言。「偲ぶ会」の席で氏が退職後に、窓社から万葉集に関する一書を出版されたと知った。数日前、やっと上島武著『万葉集ノート』(2011年・平成23年)を入手できた。
面白いことに、最後の歌の方から読み解き始めている。私もまた万葉が好きだ。1970年代に全4500首を大声で音読したことがある。解釈よりも音調を楽しんだ。氏は、この点オーソドックスな現代人で解釈中心だ。氏の解釈をこれから読もう。
御冥福をいのる。
交らひのうすきもののふみまかりて
みたまのまこと知りにけるかも
平成28年10月27日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion6324:161027〕
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