核と平和の問題について日本国民はいかに対応すべきか
- 2016年 11月 23日
- 評論・紹介・意見
- 岡本磐男平和核
この度、国際連合による核兵器禁止政策の締結に関する世界の諸国の賛否が公表された。アメリカ・イギリス・ロシア等の大国38カ国が反対に回ったのに対し、発展途上国等の123カ国が賛成であった。私達日本人が最も関心をよせた日本はアメリカ等の大国の圧力に押された結果であろうが反対に回った。私は顎然として言葉を失った。71年前には私はアメリカ軍の日本本土への上陸→戦車による侵略に立ち向かうため野原に穴を掘り手榴弾をもって敵の戦車に投げいれる訓練ばかり行っていたからである。敗戦後70年もたつのに、なぜ日本政府はとくに安倍政権は、日本が唯一の被爆国でありながら、かつて敵であった大国に義理だてして追従する必要があるのか。しかも今日の核兵器=核爆弾は1発落とされれば100万人の人間の生命を奪う程の残虐な非人道的な兵器であり、これを使用する許りでなく保有することすら神をも恐れぬ非人間的な行為であることは明らかであるためである。安倍政権は日本国民の平和と安全を守るためには単に大国に追随していればよいとでも考えているのだろうか。全く自らの主体性を確立していない立場であるといわざるをえない。
もし仮に、イエス・キリストが現に存在しておられるとするなら、今日の人類は核兵器を早急に廃絶せねばならぬと説かれるであろう。神は人間を愛するがために存在し、人間は神を愛するものとして存在しているからである。カトリックの司教ローマ法王が宗教的儀式において口を開けばまず第一に今日の世界においては核の廃絶が重要であると説かれるが、私はその度毎に深い感銘を受ける。今日の世界を変えるのは、政治家ではなく、ことによると宗教家かもしれないという印象を抱くためである。
国連の核兵器禁止政策の賛否を問う問題に関して一驚したのは、日本が反対票を投じたということのみではない。いま一つ驚かされたことは北朝鮮が賛成したという問題である。以下にその点を論じよう。
北朝鮮は、今年8月頃から、経済建設と共にミサイル・核開発とを並行していくという「並進路線」を従来以上に強化し、さらなる核実験を目指していこうとする方向を示唆している。これによって国際社会からの非難を浴びている。もとより当面は、米韓合同軍事演習に対抗しよるとする措置であり、かつて米国大統領ブッシュが北朝鮮への核の先制攻撃等は許さないという構えであり、これによって米国との交渉を最も希求しているかのように思われる。このために北は最近は潜水艦から発射されるミサイルを大規模に開発し米国を威嚇している、これに対して米国は最近キム・ジョンウンに対する斬首作戦までをも公表するようになった。それ故、最近は北朝鮮対米国(および韓国・日本、といっても3者の関係は同列に論じえない)の関係は一触即発であるかのような感がする。
キム・ジョンウンの姿勢は、脅かしであることは間違いないが、彼自身このように国際関係に緊張をもたらすことは本意ではないという矛盾した逆説的立場にあるのではあるまいか。そのことはこの独裁者が核の禁止政策に賛成したことによく現われている。即ち彼は自ら核を開発することによって、世界の核を廃絶することを望んでいるのではあるまいか。
それでは彼はなぜ、核による脅かし政策を続けるのか。それはキム・ジョンウンのみならず北朝鮮の首脳達は北朝鮮に社会主義体制を構築することを望んでおり、そのためには自国が軍事的にも強固でなければならないと考えているためであろう。それは彼らが1917年ロシア革命以後のソ連の経済体制の確立における歴史的事情を日本人よりはよく知っているためと思われる。
1917年の革命におけるレーニンが率いたボルシェビッキ党は社会主義の成立をめざしていたが、同党は西側資本主義国とは異なる価値観の国家の成立をめざしていた。いうまでもなくその中心は、生産手段の社会的所有の確立である。生産手段の私的所有を基盤とする西側欧米諸国はこの点が気にいらなかった。それ故に数カ国の諸国はロシア革命以後の20年代初頭には、ボルシェビッキ党の支配を受けるロシア軍と戦うために軍隊をシベリアに派遣したのである。いわゆるシベリア出兵である。この諸国の軍隊には日本軍も含まれていた。この諸国の軍隊のシベリアへの派兵によって、革命後のソ連政府はかなりの打撃と重圧を蒙ることになったことは確かであろう。現在の北朝鮮政府がこの歴史的事実を知らないはずはない。すなわち彼等がもし計画的な経済建設を進めえたとしても、軍事力が脆弱なものであるとすれば、この経済体制は打倒され、体制の崩壊に導かれると考えているのであろう。また北朝鮮の人民大衆は、例え独裁体制であるとはいえ、西側諸国の支配を受けるよりは、まだ信頼感があり安心していられると感じているのであろう。
偶発的核戦争も起こりうる可能性があるかぎり私は被爆国の一員として、心から核廃絶を願う者であるがこの課題がきわめて困難なものであることも十分に認識している。現在の世界は既述のように概して大国からなる核保有国と発展途上国等からなる非核保有国から成立っている。核保有国が核保有にこだわるのは、第1には核をもっていれば外国から攻撃されることはないという核の抑止力を信じているためであり、第2にはいかなる大国も、相互に相手国を心から信頼していないためである。それ故核保有国の核保有を漸減させていくためには、核を保有していても少しも有利なことはないというシステムを人類社会が考えだし押しつけていかねばならないであろう。
その一つとして考えられるのは、核保有国が核を保有するのは、非核保有国に対して実際に脅威を与えていることを意味するから、そのコストを支払うべきであるとして、非核保有国が結束して核保有国に迫ることである。この見地は、世界正義の理論として成立つものと考えられるであろう。
第2には、第一次世界大戦後に、経済学者ケインズが著書『平和の経済的帰結』において展開した発想を借りることによってえられる議論である。彼のこの著書においては、彼は第一次大戦後によって敗北した国家に対しては連合国側は過大な賠償金を賦課してはならない。なぜなら賠償金を過大なものとすると、敗戦国(とくにドイツ)は過重な負担を強いられる結果、戦後の復興を容易にとげることが出来ず、その結果いつかは再び戦争を開始する国が現れるであろう、と論じた。だが連合国側にはこの所説をとり入れることはなかった。それ故に第一次大戦後のドイツに対しては過大な賠償金の負担が賦課され、この問題と共にハイパー・インフレーションの発生を余儀なくされたため、ドイツは極度の経済的困難に見舞われた結果、1930年代にナチス・ヒトラーの台頭(第二次世界大戦への道)を招くのである。すなわち、ケインズの予言は当たってしまったといってよいのである。
だが私はこのケインズの発想を逆転させて使えばよいと思っている。それは、もし先進国のような大国が他国と戦火を交えることになった場合仮に核攻撃によって多数の人命を殺傷したさいにはこの国に人的被害だけ莫大な賠償金を支払わせるという条約を締結することである。例えば、A国がB国に対して核爆弾を1発投下して100万人の貴重な生命を喪失させたとするなら、1人につき平均1億円の金額の賠償金を支払わせることとなり、100兆円(1万人で1兆円となる)に上る厖大な金額を支払わざるをえなくなる。1生涯にわたって人間が稼ぐ所得は、1億円以上であることを勘案すれば1億円と設定するのは低すぎる議論かもしれない。何れにせよ、たった1発の核爆弾でA国の財政が破綻し国家の存立が危くなるようであるなら、A国は決して核爆弾を使用することなど考えもしないであろう。こうした条約を締結させることで核の使用を不可能にさせることは十分に考えられるのではないか。もとよりこれは一例にすぎない。さまざまな事例を考案することによって核保有国の核使用を無意味にするような方向へと国際関係が推移することが期待される。
現代の科学文明の進歩は必ずしも人類に幸福をもたらしていない。その最大の問題は核の問題があるためである。また平和の問題を追及することは、必ずしもイデオロギーとは関係しない。そして今日の平和は、核への論及なしには解明されない。それ故今日、社会科学の研究を志す研究者・市民は核と平和が結びついているものとして、いかにして平和が維持されるかについて関心をもつ義務があると思われるのである。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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