塩川喜信先達のインタビューを読みて――ポーランド「連帯」の要めに――
- 2016年 11月 29日
- 評論・紹介・意見
- 岩田昌征
11月27日(土)、立正大学で開かれたある研究会で、参加していたある人から小冊子『インタビュー 戦争と激動の20世紀を生きて 塩川喜信』(インタビューは2007年に行われた。)をいただいた。10月29日に明治大学研究棟で催された「塩川喜信さんを偲ぶ会」で配布されたものだ。その場でパラパラとページをめくっていると、私=岩田にとって格別に気にかかる発言が目にとまった。「ポーランド『連帯』支援とポーランド資料センター」をテーマにした所である。質の異なる大小二つの問題が出されている。
引用しよう。
まず小さい方の問題
(以下引用)
~~ソ連・東欧研究者について感じたことがある。ポーランド資料センターは、ソ連東欧学会の人たちに、いろいろ原稿を書いてくれとお願いしたんだが、その中で本当に協力してくれたのは、当時北大にいた伊藤(ママ「東」の誤=岩田)孝之さんや法政でハンガリー研究をやっている南塚信吾さんなどほんの数える人しかいなかった。おそらく反体制運動を支援するような立場に立つと、ソ連・東欧に行ったときにいろいろ不利な扱いを受けるという学者としての打算からだと思うのだが、本当に協力してくれる人は少なかった。今みたいな時期になって当時の体制を批判することは誰にでもできることだけど、自分の学者としての活動がやりにくくなることも覚悟して、思想的な面では筋を通すという学者は、おそらくソ連・東欧学会のかなりの学者はマルクス主義者だったり左派だったりするのだろうが、そういう人がいかに少ないかということも感じた。(pp.82・3以上引用終わり下線部は引用者=岩田)
私は、「塩川さんを偲ぶ会」に欠席通知を送った。「偲ぶ会」と同じ日にここで塩川先達が批判していた「ロシア東欧学会」(旧称「ソ連東欧学会」)が開催されることになっていたからだ。当時、旧ソ連東欧を主に研究対象とする学会が二つあった。いまもある。一つは、「社会主義経済学会」(今は「比較経済体制学会」)。もう一つは、「ソ連東欧学会」。体制崩壊以前、両学会の思想性・イデオロギー性は正反対であった。勿論、現在はそんなことはない。前者は、基本的に社会主義肯定で、学会の主導権は日本共産党系がにぎっていたと言ってよい。後者は、基本的に共産主義否定で、学会の主導権は保守本流系・中道右派がにぎっていたと言ってよい。私のように両系統の思想性から独立している者もいて、二つの学会に同時に加盟していた。それぞれにとって傍流的位置にあった。
塩川氏のようなトロツキー系左派が主催する「ポーランド情報センター」は、当然だが、日本共産党系の研究者へはアプローチしないで、保守本流系にアプローチしたらしい。塩川氏の上記インタビューからそう読みとれる。故加藤寛(慶応大学教授)氏、田久保忠衛(日本会議現会長)氏等が、当時主導していた学会の多くの会員達がソ連・東欧の体制側の機嫌を気にして、ポーランド資料センターへの協力を差し控えたとは全く考えられない。塩川氏の「マルクス主義者だったり左派だったりするのだろうが」と言う評言は、的はずれだと思う。また、塩川氏等が、「社会主義経済学会」の「マルクス主義者だったり左派だったりする」」研究者達にアプローチしたとしたら、「思想的な面で筋」を通されて、協力を拒否されたであろう。かなりの方々は、ポーランド「連帯」運動の裏に「反革命」を感じていたのではなかろうか。そんな主旨の彼等の論文を読んだわけではなかったが、そう思う。
大きい方の問題
(以下引用)
反体制側が体制を握るという経験は、残念ながら日本ではないけれど、「連帯」が合法化されてワレサが大統領としてトップになり、クーロンが労働大臣になった。そのときに反体制のときに持っていた資質が、これはトロツキーを含むほとんどの反体制活動家というか革命家に言えることなのだが、まだ抑圧されているときに語った理想と、自分が権力をとった場合にぶつかる現実政治の壁とのギャップがどうなったのか。それについてはあまり追っかけてないのだけれども、どうなっているかは時々気になる。だから、トロツキーなんかにしても、たとえばクロンシュタットの反乱をああいう形で鎮圧するのは本意ではなかったと思うのだけれど、ある現実政治のリアリズムの中ではそういうことをやらざるをえない、そういうことはものすごく感じた。(p.82)
ともあれ、ポーランド資料センターは89年ベルリンの壁が崩壊して東欧全体の共産党独裁が倒されて、「連帯」も合法化されてしまったということで、その役割は果たしたとして解散した。(p.83 以上引用終わり 下線部は引用者=岩田)
スターリン主義流の党社会主義体制が崩壊した。となると、「連帯」労働者運動を支援して来た資本主義日本の左系人士達の最大関心事は、その後のポーランド社会がどういう質の社会になるであろうか、80年代初めに語られたポーランド自主管理共和国の樹立はユートピアとしても、勤労市民にとって生活しやすく、働きやすいポーランド社会経済のしくみをどうやって創るのか、になるはずであった。ところがである、1989年9月に成立したマゾヴィエツキ内閣、最初の非共産党内閣=「連帯」内閣は、R.ブガイやT.コヴァリクのような例外があったにせよ、全員丸々資本主義化に向けて、全力疾走し始めた。その大きな原因の一つは、西側の諸政府、諸資本家団体、諸財団が資本主義化のためのイデオロギー的・思想的・知的支援かつ人的支援を全力で展開したのに対して、西側の、例えば日本の「ポーランド資料センター」を含めて左派的支援諸主体は、共産党独裁が倒れ、「連帯」が合法化されたことだけで満足してしまった事、要するにポーランド労働者階級を人間の顔をすてた資本主義化の荒波に放り出した事に在る。
ワレサ大統領は、労働者のシンボルから新興資本家階級が愛するシンボルに完全変身した。塩川氏の発言「どうなっているかは時々気になる。」が事情をよく表現している。「思想的な面で筋を通す」点で、甘さがあったのだろうか。西側の諸財団、例えばカーネギー財団、ソロス財団、ロックフェラー財団等に結集した資本主義的諸知性は、どうなっているか常時深く気に懸けていたのにである。仮に、トロツキーその人が生きていて、「連帯」勝利の時勢を観察していたら、全く違ったきちっとした対応をしたのではなかろうか。
最後に、私が「偲ぶ会」の欠席通知の葉書(10月15日付)にしたためた「故塩川さんを偲ぶメッセージ」をここに紹介する。
一首を贈らせていただく。
――ひと逝きて歩みし跡の道となる人また一人去りにけるかも――
まことに残念ながら、当日は三つの学会がかさなって、京都女子大学で開かれる「ロシア・東欧学会」に出席しております。私が塩川さんをはじめて見、また聞いたのは、デモの流れ解散の地、新橋か土橋かでした。全く交流がなく、80年代か90年代に私の方から勝手に著書を一冊送付したことから、あわいまじわりが始まったようです。トロツキー系の方々は、チトー・カルデリもスターリン主義の右の流れと見られていたようです。J.クーロンとK.モゼレフスキの『反官僚主義革命』は、日本で塩川さん訳で出版しました。1989年9月 クーロン達が権力を握ると、IMF、世銀、ジェフリー・サックス(ハーバード大学教授)のショック療法を断行しました。ネオリベ型資本主義化です。「連帯」労働者大衆を100%犠牲にしました。こんなテーマも塩川さんと議論したかったのですが、残念! 1950年代末から今日まで、当時の「輝ける指導者」達の中で、明治天皇の御製(明治45年)「わかきよにおもひ定めしまごころはとしをふれどもまよわざりけり」の心にかなう人は少ない。塩川さんはそんな少数者のようでした。合掌。
平成28年11月28日
(ワレサ大統領に関しては、筆者による当サイトにおける論考も参照のこと――編集部)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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