1960年代精神史とプロフェッショナリズム――岡崎幸治「東大不正疑惑 『患者第一』の精神今こそ」(2014年11月8日付け『朝日新聞』朝刊「私の視点」) に寄せて(その2)
- 2016年 12月 1日
- スタディルーム
- 折原浩
- 2.「60年安保」――「政治と学問」への問い
- 3.「1962~63年大管法」を逆手にとって
- 4.「学問の自由」の意味転換と「根底からの民主化」に向けて
*本論文は折原浩(東京大学名誉教授)により2014年11月~2015年2月 にかけて書かれたものです。全体は大部(A4で51ページ)になるため、およそ10回に分けて連載することにしました。今日の問題にも通ずるものです。是非お読み頂きたいと存じます。(編集部)
少し遡るが、1960年には、日米安全保障条約に反対し、岸信介内閣の強行採決に抗議する市民のデモ隊が、連日国会を取り囲み、街頭の政治運動が未曾有の盛り上がりを見せた。その後、岸退陣のあとを受けた自民党の池田勇人内閣は、これに危機感を抱き、一方では「所得倍増計画」を発表して大衆を慰撫し、「高度経済成長」政策を押し進めるとともに、他方では「安保に反対する若者は、大学を拠点として出撃してきた、大学が『革命戦士』の養成に利用されている、大学の管理をなんとかせねばならん」(趣旨)と唱え、(それまでにも出しては引っ込め、「アドバルーン」を上げていた)「大学管理法」案の制定に乗り出した。これに、中山伊知郎・東畑精一・有沢広巳氏ら、池田首相と親しい「学界長老」が、「そういうやり方では『一般教員』の反発を招いて逆効果になる、むしろ大学が『自主的に対処』するように仕向けるから、任せてほしい」(趣旨)と「とりなし」に入り、池田内閣は、「大管法」の法制化は、とりあえず手控えたのである。
さて、「60年安保」時には、東大文学部の教員有志も、「樺美智子さん虐殺抗議」の横断幕を掲げて、本郷キャンパスから国会南門までデモ行進した。社会学専攻のノンポリ院生だった筆者も、教員のこの決起には感激し、(「右翼の襲撃があったら、先生方を守ろう」と)院生仲間とともに隊列の後尾に付いた。また、法政大学の北川隆吉[6]研究室に置かれた「民主主義を守る学者・研究者の会」(略称「民学研」)の事務局を手伝いながら、政治運動と学問研究との関係(というよりも、双方をいかに関連づけていくか)について思いめぐらし、院生仲間で議論し合った。というのも、そこまで昂揚した街頭運動も、政治日程の頂点を過ぎると「流れ解散」して「政治の季節」の「潮が引き」、「学問の季節」に入れば「学内改良運動」 (たとえば「トイレット・ペーパーをそなえよ」といった「日常的諸要求」) に戻ると予想し(そうなるのをじっさいにも見届けながら)、そうした (いわば「はれ」と「け」の)「単純な循環」を繰り返していていいのか、という疑問に捕らえられたからである。
この問題について、わたしたち院生は、大学に留まる将来を、(学生運動の活動家も含む)学部学生とはちがい、一過性の一時期 (一般には四年、医学部生は六年の在学期間) としてではなく、むしろ「プロフェッショナル」としての長いタイム・スパンで見通す立場にあった。そのため、議論はおのずと、学部学生とは異なる、つぎの方向に導かれた。すなわち、まだ抽象的な思念の域を出なかったが、「政治の季節」には昂揚して従来の「殻」を割って出ようとする「生」と「情念」を、街頭行動の退潮とともに「雲散霧消」させて「旧態に戻る」のではなく、運動の渦中でつぶさに確認し、「理念」や「言説」に結晶・結実させて、つぎの「学問の季節」に送り込み、そのようにして長期的に「政治の季節」と「学問の季節」との(「単純な循環」ではなく)「スパイラル(螺旋)」[7]を生み出し、発展的に社会を変えていこう、という方向である[8]。
すると、ちょうどそこに、池田内閣が二年後、政治と学問との双方に跨がる「大管法」案という格好の争点を持ち出してきた。
わたしたち院生は、上記のような見地から、この「危機」を (「大管法」制定を阻止して「身に降りかかってきた火の粉を払いのける」だけの) 政治的防御に止めるのではなく、むしろわたしたち自身が今後、「学問の自由」と「大学の自治」をどう考え、どう担っていけばよいか、運動の渦中で議論し、できればわたしたち自身の学問論と大学論、広くは「プロフェッショナル」としての「職業倫理」「職業エートス」[9]を紡ぎ出す「絶好の機会」として「逆利用」しようよ、と申し合わせた。そこで、研究室の一角にライブラリーを設け、「大管法」関連の諸案を資料として集めるとともに、他方では、(当時の学生運動では支配的だった) マルクス主義や左翼の文献ばかりでなく、ドイツ観念論からマックス・ヴェーバーをへてカール・ヤスパース、はては高坂正顕氏[10]にいたる、学問論・大学論関係の諸説、オルテガ・イ・ガセの技術論と「大衆人」論[11]、カール・マンハイムの「イデオロギー論」(知識社会学)[12]と「知識人」論、ロバート・E・パークらの「境界人」論[13]など、関連文献を集めては読み合い、議論した。
当面の「大管法」問題については、文部省・中教審・国大協といった関係団体の諸案を比較・分析して、対文部省関係については、①学長その他の大学人事にかかわる文相拒否権の実質化[14]、学内については、②学長への権限・権力の集中 (評議会や教授会の諮問機関化)、③正教授のみによる教授会構成 (大学の「意思決定」過程からの若い助教授や講師の排除)、④学生の (学外も含む) 「秩序違反」にたいする学内処分の厳正-強化、⑤大学構内への警察力導入にたいする抵抗感の排除、⑥「一般教官」と「一般学生」との (一朝有事のさいには、前者が管理機構の末端としてはたらき、後者を首尾よく「統合」できるように、平常時からそなえておく) 「日常的コミュニケーション」の円滑化・緊密化、というような問題点を摘出し、国家権力による統制強化構想の一環として捉え返した。そのうえで、問題の項目ごとに、諸案の論点を年表風にまとめて比較対照する資料を作成し、各方面に提供して、議論を呼びかけた。
他方、学問論・大学論関係では、「大管法」案にたいする学内の諸部局や学生・院生の多様な対応を見渡し、比較・検討するなかで、「『学問の自由』と『大学の自治』を『守れ』」という従来のスローガンに疑念が芽生え、運動目標の再考を迫られた。
そこにいたる機縁のひとつは、当時の東大法学部長が、「大管法」に反対は反対でも、「大学の講座とは、家族のようなもので、家風に合わない余所者が、外部から無理やり押し込まれたのでは、やっていけない」(趣旨)と発言した事実にある。わたしたちには、この発言内容自体、「講座」内における明朗闊達な発言や議論を妨げる「家父長制」的権威主義ないし「家族主義」的融和精神の残滓を表白する言辞として、確かに問題であった。なるほどそれは、「こういえば通りがよい」という方便として使われたのではあろう。ところが、それでは、「大管法」反対運動にも、「対外倫理と対内倫理の二重性」「対外排斥と対内緊密の同時性」という一般経験則がはたらいて、克服されるべき残滓をかえって補強する「逆機能」を果たしかねない、と危惧された。
しかし、わたしたちがむしろ、それ以上に問題と感じたのは、わたしたち自身がかつて学生として当の「家父長制」的権威主義や「家族主義」的融和精神にたいする批判を学んだ、同じ法学部に在籍する『日本社会の家族的構成』や『現代政治の思想と行動』[15]の著者たちが、この学部長発言に異議を唱えず、沈黙している事態であった。それは、法学部にかぎらず、各学部内、あるいは大学全体の「風通し」の悪さと「ものいえば唇寒し」の伝統的精神風土に根差す、学知と実践との乖離を「問わず語りに語り」出す「灯台下暗し」の象徴的事例として、いっそう深刻な問題ではないか、と思われたのである。
ところが、問題はじつは、そういう「偉い先生方」だけの話ではなかった。わたしたち院生は、「大管法」にかんする資料を提供して議論を呼びかけたうえで、自分たちの属する文学部社会学研究室を皮切りに、各研究室単位で院生と教職員の議論を詰め、連署の「大管法」反対声明を発していこうと企てた。当時はなお「学外権力の介入から『学問の自由』『大学の自治』を守れ」というスローガンが効力を保っていたので、署名は順調に、院生-助手-講師-助教授-教授と進んだ。ところが、主任教授のところで、暗礁に乗り上げた。「60年安保」時には、本郷キャンパスから国会南門へのデモにも加わっていた主任教授ではあったが、こんどは、「そういうふうに『下から』署名を集めてきて、わたしひとりが署名しないとなると、世間に『あ、本郷の社会学科、割れてるな』と思われる、逆に、わたしが最初に署名すると、他の先生方も同じことを考えて、署名せざるをえなくなる、いずれにせよ『内面的な拘束力』がはたらくから、そういう連署の声明はよくない」といって、断られ、押し切られた。「問題は、『世間がどう見るか』ではなく、『先生ご自身が個人としてどうお考えになるか』です」と喉元まで出かかったが、「内面的な拘束力」という言葉に捕らわれて、一瞬たじろいだ。このときは、不覚にも、連署の共同声明は出せずじまいだった。
この一件は、なるほど、大学の講座が、「家父長制」的権威主義と「家族主義」的融和精神との残滓に、いまなお根強く支配され、「世間体を気にかけて言うべきこともいえない」「ものいえば唇寒し」の空気が澱んでいる実態を、客観的事実として露呈していた。そういう残滓が、全社会的な「官僚制」[16]ピラミッド(「立身出世」のはしご)の形成にともなう「保身-出世第一主義careerism」の大勢とも癒着し、自由な発言を内面から抑止し、理性的な討論と合意の形成を妨げている実情を、鮮明に表出した、ともいえよう。この実情を「比較文明論」的に位置づけるとすれば、「欧米近代」の侵略と脅威にさらされた後進的な文化的諸「境域marginal areas」[17] (インド、ロシア、中国、日本など) では、「近代」の熟成を待たずに「超近代」が持ち込まれ、あるいは取り込まれて、「前近代」と癒着するため、「近代的自我」の形成が二重に阻害され、個人の自立が達成されずに伸び悩んでいる事態、とも解されよう。
ところが、問題はじつは、そのように「理屈をつけ」「客観的に位置づけて」済む「他人事」ではなかった。そういう弊害をよく心得、言葉のうえではいつも反対を唱え、思弁も逞しくしていながら、いざ自分の現場の問題として、卑近な「上司」(である主任教授)の意向に逆らう選択と態度決定を迫られるや、躊躇して拒否も反論も鈍る、自分個人の脆弱さを、いやおうなく思い知らされたのである。
筆者の脳裏には、カール・レーヴィット[18]の批判が去来した。一時期東北大学に在籍して日本人学者の生活と意識に通じていたかれは、「日本人学者は、二階家に住み、二階では欧米近代の思想や学問を喋々するが、一階に降りると伝統にどっぷり浸って暮らしている」(趣旨) と辛辣に語っていた。筆者は、「何気なく読み流していた」この箴言の意味を、このとき初めて正面から受け止めた。「図星!!」と思うほどに、「それなら一階でも、二階の原理原則を貫いてみせよう」[19]と気負ったことは否めないが、今後、同じような状況に直面したら、こんどは「ひるまずに初志を貫こう」と思いなおした[20]。
そういう経緯もあって、わたしたち院生の議論はいきおい、「学問の自由」と「大学の自治」とは、「すでに大学内にある」と仮定された「自由」と「自治」を、外部権力(政府・文部省)の干渉や介入から「守る」というのではなく、少なくともそれだけではなく、むしろ大学内部の制度と人間関係において不断に培われる精神を、現場で問題とし、(戦後日本の社会学も問い残してきていた) 大学そのものも研究対象に据え、具体的問題を具体的に切開しながら自己変革を遂げていくことこそ、肝要ではないか、という方向に導かれた。そういう当事者としての現場批判-自己批判のなかから、理性的な議論をとおして「合意を形成」し、「自発的結社」を創設し、首尾よく運営していくことが、「根底からの民主化」の第一歩と思われた。大状況を射程に収めた問題設定も、当面は大学現場で、そういう「自由」と「自治」を達成し、できればそこから漸進的な拡充を企て、(前近代的な「家父長制」や「家族的融和」の残滓を温存し、これと癒着しながら進行している)「全社会的な官僚制化」に抗して、さしあたりは「近代的自我」形成を貫徹し、「個人の自立」を達成し、そのうえに欧米近代と日本的伝統(のなかの選択的に活かせる諸要素)との「現在的文化総合」を追求して、「雑種文化」(加藤周一) という「ひとつの新しい個性」の創成を期す、という方向に、意味転換された。
ちなみに、「官僚制Bürokratie」とは、官庁だけではなく、軍隊を筆頭に、病院・研究所・企業・労働組合・政党その他、多少とも大規模な「組織」には、その「効率性」ゆえにいきわたる、ピラミッド状の (公式には「指揮命令系統」、非公式には往々にして「抑圧移譲」、構成員の側からは「昇進順位」の) 位階秩序を意味する。そして、「全社会的な官僚制化Bürokratisierung」とは、そうした「支配」(「命令-服従」)関係が、「組織」内のみならず、「組織」間にも、たとえば「産学協同」の「利害状況Interessenlage」によって、また、(そうした「利害関係」が「慣習律」となり、「規則」に「制定」され、国家権力によって裏打ち・「保障」されて、「合法性Legalität」という「正当性Legitimität」の)「権威Autorität」をまとい、広く普及していく事態を指していう[21]。
岡崎君が「プロフェッショナリズム」を腐蝕する要因と見ている「目先のお金と業績」も、そうした「全社会的な官僚制化」の支配的潮流が大学内に流れ込んだ支流・分肢・末端の「澱み」として位置づけられよう。筆者の世代には、「産学協同」がなお、科学の批判性と学者の「知的誠実性」(自分にとって不都合な事実を直視する勇気) を損ねる「非難すべき逸脱」として「負のレッテル」を貼られていた。ところが、「高度経済成長」につれて、「金銭上の利益」を疑問なく受け入れ、「自明の前提」として出発する「飽満したgesättigt」気風が、止めどなく蔓延し、「産業界から研究資金を調達し、見返りに研究成果を提供して相応の報酬を受け取るのは当然で、それができなければ『学者として無能』、とやかくいうのは『無能な学者』の妬み」といわんばかりの「正の価値徴表」に転化してしまった。それが、「『誰も』がやっている」「『みんな』で渡れば怖くない」という伝統的「集団同調性」「集団的無責任」と癒着し、「自己正当化」と「居直り」を補強し、その結果「経済と学問との緊張」(ヴェーバーのいう「価値秩序の神々の争い」のひとつ) がゆるめば、データの隠蔽や改竄や捏造までは「あと一歩」というところであろう。岡崎君たちの取り組みは、それだけ困難の度を増していると思われる。
[6] 北川氏は、筆者が文学部に進学した三年次(1956年)には、社会学研究室の主任助手で、筆者も多大な影響を受けた。本HP 2014年欄への寄稿「戦後精神史の一水脈――北川隆吉先生追悼」参照。
[7] ドイツ思想の伝統に倣っていえば、「唯物史観」における「生産力」と「生産関係」、ゲオルク・ジンメルにおける「生」と「形式」、マックス・ヴェーバーにおける「精神」とその「凝結態」(「官僚制」もそのひとつ)、それぞれの「弁証法」的発展の関係。ただ、いまにして思えば、「単純な循環」か「螺旋」か、という「(正の)上昇類型」を考えるばかりで、「ジグザグ」を繰り返しながらの衰退、突発的な死滅、加速度的没落、という「(負の)下降類型」を、対照項として熟慮するにはいたらなかった。
[8] 当時の社会学研究室では、そうした方向で、院生のマルクス主義者と近代主義者(「ヴェーバリアン」の筆者もそのひとり)とが、人間として信頼し合える関係を取り結び、実践を孕みながら、「大きな物語」も含め、活発に議論し合えた(後注25参照)。筆者も、「60年安保」闘争へのそうした周辺的関与と議論に熱中して、修士論文の執筆は一年先に延ばした。
[9] 「職業倫理」といってもよいが、「使命」を核心に据えて、「倫理」が「規範」「建前」の域を越えて「身につき」、「血となり肉となった」生活原則ともいうべき側面を強調するとき、「エートス」と呼び替える。
[10] かつては「京都学派」の一員として「大東亜戦争」「大東亜共栄圏」の「世界史的」意味を唱え、敗戦後には「実存主義」の解説者に転向して論壇に再登場した人物。
[11] 1930年発表の『大衆の叛逆』では、「専門科学者」が、「知識人」ではなく、「大衆人」の一類型として批判的に捉えられている。後年の「大学紛争」における「専門バカ」論の先駆ともいえる。後注37、38も参照。
[12] 政府や大学当局などが発する言説を「額面どおり」素朴に受け取って済ます(たとえば下記⑥の論点を、括弧内の補足なしに読む)のでなく、その担い手の「社会的な立ち位置」と「『存在』による拘束」・「存在被拘束性Seinsgebundenheit」に即して、その「意味」を批判的に捉え返そうとする見方。
[13]「境界人marginal man」の概念そのものは、1920~30年代、移民とくに移民二世の「社会的不適応」「二重人格」「人格解体」が「社会問題」として問われたアメリカ合衆国で、パーク(1864~1944) らの「シカゴ学派」によって設定され、相応の否定的なニュアンスを籠めて、用いられていた。しかし、そこには、つぎのような積極的展開の可能性が潜んでいると思われた。すなわち、「境界人」が、(たとえば移住前と移住後、移住後の家族と学校といった) ふたつの異質な文化圏の狭間で、動揺を繰り返し、類型的には「情緒的不安定」から「二重人格」ないし「人格解体」に陥ることが多いとしても、そうした「窮境」をみずから引き受けて「逆手」にとれば、むしろ双方の文化に距離をとって批判的に対峙し、そのつど自分自身も相対化しながら、多様な諸文化と自己を客観視し、「現在的文化総合gegenwärtige Kultursynthese」(エルンスト・トレルチ) を目指して進み、「ひとつの新しい個性」としての「雑種 (文化)」(加藤周一) に到達することも、不可能ではあるまい、と。
「境界人」のそうした可能性は、パークがドイツに留学して「境界人」論の着想をえた、ゲオルク・ジンメル(1858~1918)の「異邦人der Fremde」概念にも、示唆されていた。また、ジンメルとほぼ同時代人のマックス・ヴェーバー (1864~1920) や、ひとつ若い世代のカール・マンハイム (1893~1947) は、(自分とは異なる「立ち位置」に、相応の「存在被拘束性」を帯びて形成された)異質な文化 (的閉塞) 圏に「身を閉ざす」のではなく、むしろみずから「越境」して分け入り、そのつど生ずる「自己分裂」の「危機」を、「自己相対化」に活かし、そのようにして視界を広げながら「自己同一性Identity」を回復-把持しては「現在的文化総合」を目指す「自由に漂う知識人freischwebende Intelligenz」(マンハイム)として、それぞれの生涯をまっとうした。
そこで筆者も、まずは「欧米近代にたいする後進的な文化的諸境域」(欧米近代の侵略を被り、少なくともその脅威を受けて、伝統文化の解体と社会の再編制を余儀なくされて以降のインド、ロシア、中国、日本など)に生きる「境域人」(広義の「境界人」)と自己規定し、そこに生成してくるさまざまな文化的閉塞圏 (「蛸壺」) にたいしては、意図して「越境」して、狭義の「境界人」の立ち位置を選択しようとつとめた。たとえば「東大紛争」では、教授会と学生との狭間に立ち、双方の主張 (教授会側の甲説と学生側の乙説) を、本稿の後段で詳述するとおり、まずは情報源に遡り、「存在被拘束」的「誇張」「歪曲」「改竄」「隠蔽」等を洗い出して是正したうえ、双方の内容を相互に比較・対照し、それぞれを批判的に「相対化」しながら、「価値自由」に理非曲直を問い、そのようにして突き止められる真実に則って、「紛争」の解決に到達しようとつとめた。「境界人」に関連する理論の収集とヴェーバー論への適用については、拙著『危機における人間と学問――マージナル・マンの理論とウェーバー像の変貌』(1969、未來社)参照。
[14] 文部省はじっさい、後の「学園紛争」のさなか、九州大学が選出した井上正治学長の就任を拒否して認めなかった。
[15] 『現代政治の思想と行動』の著者・丸山眞男氏は、「60年安保」時の活躍で国際的にも注目をあび、2年後、ハーヴァード大学、オックスフォード大学などの招聘を受けて、在外研究中だったそうである。「とびっきりの国際的知識人」として帰国した丸山氏には、その後、自分の現場で学生の「幼い」問いを受け止めるような「愚かな」スタンスは、失われていたのではないか。
[16]「官僚制」については、本節の後段を参照。
[17] 前注13 参照。
[18] かれは、当時、社会科学者にはよく読まれた『ウェーバーとマルクス』の著者で、克明な文献実証に長けた思想史家として知られていた。
[19]「境域人」としては、一方ではそのように「欧米近代の思想や学問」に内在して「精神構造の近代化」を目指すと同時に、他方では欧米近代の問題点も探りあて、これまた「内在的に」乗り越えようと志した。前項を欠く「近代批判」は、「前近代」と「超近代」との癒着構造に呑み込まれ、これを補強してしまう点で、「相対化」されなければならない問題傾向のひとつと目された。ここでは、問題のこの側面には立ち入らない。
[20] しかし、それでもその後、これと同じような局面にたびたび直面し、そのつど逡巡を繰り返した。その挙げ句、こうした現場の問題については、初発には躊躇してとかく「日和見主義」に陥りもするが、その点を反省して再出発すれば、二度目、三度目には「はっきりと態度決定もできる」、したがって「性急に白黒をつけよう」と焦ってはならない、と考えるようになった。
[21] マルクス主義のいう「資本の集積と集中にともなう労働者の生産手段からの疎外」も、「兵卒や官吏の『物的経営手段』からの疎外」のように、資本主義企業以外にも並行現象が見られ、「全社会的な官僚制化」の一環として捉え返されよう。そのように筆者は、当時の「マルクスとヴェーバー」論では「マルクスの理論的枠組みにヴェーバーを任意に取り込む」傾向が優っていたのにたいして、ヴェーバーをむしろ「マルクス以後の思想家」と見て、「マルクス主義の止揚」という側面に注目し、未読の厖大な著作の内在的読解と活用を目指していた。
初出:「折原浩のホームページ」より許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study790:161201〕
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