1960年代精神史とプロフェッショナリズム――岡崎幸治「東大不正疑惑 『患者第一』の精神今こそ」(2014年11月8日付け『朝日新聞』朝刊「私の視点」) に寄せて(その3)
- 2016年 12月 2日
- スタディルーム
- 折原浩
- 5.「没意味化」の流れに抗して――「社会学」から「社会学すること」へ
- 6.「教養」教育の理念――理科生こそ「社会学する」スタンスを
- 7.「大管法」法制化に代わる「国大協・自主規制路線」
- 8. 専門「部局」(制度) と「プロフェッショナリズム」(精神) との乖離
*本論文は折原浩(東京大学名誉教授)により2014年11月~2015年2月 にかけて書かれたものです。全体は大部(A4で51ページ)になるため、およそ10回に分けて連載することにしました。今日の問題にも通ずるものです。是非お読み頂きたいと存じます。(編集部)
さて、「学問の自由」「大学の自治」の理念と運動の目標を、そういう方向に意味転換するさい、わたしたちが将来、その「プロフェッショナル」になろうとしている専攻領域の「社会学」については、その現状と今後の担い方をめぐって、好んで議論が交わされた。「社会学」は、学知の一部門とはいえ、専門分化の現状を「自明の前提」として素朴に出発し、学知かぎりで自己完結するのであってはなるまい。その域を越えて社会批判に乗り出すとしても、それが (たとえば東大法学部の大先達のように)「無風の安全地帯に身を置いて (たとえば敗戦後になって) 初めて発動する、気楽な他者批判の事後評論」に止まり、現在進行形の現場問題には口を噤むというのでは、いかにも虚しい。では、自分たちはどうすべきか。
筆者は当時、マックス・ヴェーバーの「実存と学問」について、専門的に立ち入って研究したいと考えていたが、それも、そこからは、つぎのような原則を引き出すことができそうに思えたからである。すなわち、企業・労働組合・官庁・政党・大学・研究所ほか、どんな社会「組織」も、その成熟 (「臨機的」な人間結集の「多年生perennierend」化、継続的に目的を追求する「経営Betrieb」の「合理化Rationalisierung」[22]・「官僚制化」) につれて、「組織」そのものの維持ないし拡大を自己目的とする「利害関心Interesse」が派生し、これがむしろ圧倒的に優勢となって、前景を覆ってくる。それと同時に、当の「組織」が創設されるさいには基礎とされた「理念Idee」や本来の「設置目的」は、それだけ後景に退いて、曖昧となり、疎んじられ、忘れられもする。そのようにして、さしあたりは「組織」の、やがては (そうした諸「組織」が簇生-林立し、「官僚制」ピラミッド状に編制されて成る)「社会」全体の「没意味化」がもたらされる。
とすると、そういう「組織」の内部に生きる個人は、「没意味化」の「流れに身を委ね」、「保身-出世第一主義」に陥り、「組織」の自己運動ないし自己拡張の「歯車(伝導装置) 」に甘んずるか、それとも、そうした圧倒的趨勢を見据えながらも、当初の「理念」(すなわち、大学であれば「真理探求」とその「社会的責任」)を想起し、その「普遍性」(すなわち、大学そのものをも「真理探求」の対象に据えて、特殊な例外とはせず、あくまで理非曲直を明らかにしていく「使命」と「心構え」)に思いをいたし、「流れに抗して」生きるのか、どちらかを選ばなければならない。ヴェーバー自身は生涯、「政治と学問との緊張」(これまた「価値秩序の神々の争い」のひとつ)を生き、大状況の政治にたいする現在進行形の批判と論評も怠らなかったが、若いころの就職事情から始めて、卑近な大学問題への現場発言と行動も欠かさなかった。
そういう姿を (ハイデルベルクの「マックス・ヴェーバー・サークル」で) 間近に見ていたカール・ヤスパースは、ヴェーバーを「現代に生きる哲学的実存」と見て、「哲学Philosophie」に「哲学することPhilosophieren」を対置した。とすれば、わたしたちがヴェーバーから学び、活かすべきことも、「社会学することSoziologieren」であり、別言すれば「現場問題への社会学的アンガージュマン(自己拘束)」(ジャン・ポール・サルトル) であろう。わたしたち自身が、そのように生きて、各々の現場を起点に、日本社会の「根底からの民主化」[23]に向けて、なにほどか寄与していくことはできないものか。
そのように、大学「組織」の現場から出発して「社会学」を「社会学すること」と捉え返し、日本社会の「根底からの民主化」を展望しながら、「大学現場で今後いかに生きるか」という当初の問題設定に立ち帰ると、筆者には「社会学」という「プロフェッション」の、教育上-実践上の意義、とりわけ(日本では敗戦後に創設された)教養課程における「社会学」教育の意義が、つぎのとおりに開示されてきた。すなわち、結果に追われて前提を問ういとまのない生き方を強いる (それ自体、「近代公教育体制」の「官僚制化」の一環として位置づけられる) 受験勉強からは解放されて、しばし「自分自身を顧みる」余裕(モラトリアム)を獲得する教養課程の学生諸君が、「社会学すること」「社会学的アンガージュマン」のスタンスを、自己形成(教養)の核心として身につけてくれれば、そこからどんな専門課程に進学し、卒業後いかなる社会領域に乗り出していくとしても、当のスタンスを堅持して、各々の現場の問題と取り組み、それだけ日本社会の「根底からの民主化」に寄与し、民主主義の裾野を広げていくことができるのではあるまいか、と。
とりわけ、教養課程における「社会学」の講義や演習は、理科生にもそうしたスタンスの会得を促す、制度上も保障された、(現存の公教育体制では) 唯一の機会として、それだけ重要な位置価を帯びる。当時は、「戦中の科学者や技術者は、視野が狭く、批判力に乏しく、与えられた目的を鵜呑みにして、軍国主義の戦争政策に協力した」という反省が、まだ生きていて、理科生にも、教養科目として人文科学三科目、社会科学三科目(他方、文科生にも、自然科学三科目と、専門外の人文ないし社会科学三科目)、計二十四単位の履修が義務づけられていた。
そのうえ、理科生にたいする「社会学」教育の意義を、翻って、日本社会の「根底からの民主化」という展望のなかに位置づけると、つぎのような捉え返しも可能と思えた。すなわち、労災・公害・放射能禍など、(社会体制の如何にかかわりない)「工業化」の「負の側面」の防除から、働く人々を「労働疎外」に陥れる、過剰なまでに高度化した生産諸力の適正な制御にいたる、経済-産業社会の「根底からの民主化」は、専門的な実力は身につけていて、現場で働く人々の信頼をかちえられると同時に、「無知の知」[24]を堅持して「科学迷信」[25]には陥らず、現場の問題と取り組んで「社会的責任」をまっとうできるような (「真正なプロフェッショナル」としての) 科学者や技術者を、現在の理科生のなかから育成し、現場で働く人々との連帯を模索-構築-確立していくのでなければ、とうてい達成されないであろう[26]、と。
ところが、現状では、「全社会的な官僚制化」の一環としての「専門化」、それも (あらゆる領域にわたり、「勉強」や「お稽古ごと」ばかりか、スポーツとくに「選手養成」にもおよんでいる)「早期専門化」につれて、肝心の教養課程が、それだけ圧迫され、縮小され、軽視される傾向にある。その結果、前提を問わない受験勉強と、同じく前提を問わない専門学習とが、短絡的に直結し、教養課程の「モラトリアム」という(人生と世界に批判的に対峙できるようになる)「アルキメーデースの支点」が失われ、全社会的に敷きつめられた「官僚制」のエスカレーターにいち早く乗ること(親から見れば、乗せること)が、人生最大の懸案であるかのように現れている。
当事者の教員自身も、教養課程の「理念」と「設置目的」は顧みず、専門課程への「予備門」くらいに考え[27]、それでいて (「組織」の維持と拡大を自己目的とする、教養学部・教養部にも共通の利害関心と、「旧制帝国大学の専門学部並みに処遇されたい」という「身分的」利害関心とは、専門学部の教員に引けをとらず旺盛で) 専門課程との「格差解消」にはしばしば「血道を上げて」いた。そういう (教養課程の教員自身も陥っている) 「保身-立身出世主義」[28]の「流れに抗して」、教養課程に独自の、とくに理科生の「教養」形成の意義が、上記のように再認識-再確認され、教育目標の設定や教材編成に具体的に活かされ、拡充されていかなければならない、と考えられたのである。
さて、「大管法」反対運動は、政府が法案の国会上程は手控えて、表面上は終息した。しかしそれは、前述のとおり、池田首相と個人的に親しい「学界三長老」の「とりなし」によって、政府が「振り上げた拳は引っ込めた」だけのことである。大学にたいする権力統制強化の意図まで捨てたわけではない。
むしろ、「大管法案反対」には唱和して気勢を上げた全国の大学教員が、政府の法制化見合せを「闘争勝利」と「総括」し、(困ったことに)安堵して「オールを休め」、旧来の「学問の季節」に舞い戻ると、三長老の「とりなし」が「ものをいい」始めた。硬軟とりまぜた、いっそう巧妙な統制強化が、政治日程には登らず、徐々に形を整えた。大学内の管理機関が政府の意向を「自主的に」「先取り」「代行」し、その結果、対抗軸が「政府対大学」という (「社会形象soziale Gebilde」・「集合的主体kollektive Subjekte」間の) 目に見える形から「大学内部」の隠微な「人間関係human relations」に「転移」する、いっそう巧妙な「国大協・自主規制路線」である。
大河内総長ら東大当局が、「第一次研修協約闘争」時に、医学部教授会の「ハト派」的対応への不満から、「タカ派」執行部への交替を使嗾したのも、「第二次研修協約闘争」では、本人からの事情聴取を欠く手続き上の瑕疵が明白な処分案件を、「事情聴取を経ないのは異例」と、いったんは医学部に「差し戻し」[29]ながら、結局は再提案をそのまま承認してしまったのも、この「国大協・自主規制路線」という背後の重圧を抜きにしては考え難い。
ところが、この件を、そうした社会的-政治的背景には思いいたらず、一方では、大河内総長個人の「リーダーシップや決断力に乏し」い「パーソナリティ」に還元し、他方では、「文系で紛争が起こるとすれば文学部、理系では医学部」(の権威主義から) というふうに、問題を個別化・局部化して (それだけ法学部の「城内リベラリズム」や「紛争収拾への貢献」を黙示-顕示して) 問題をはぐらかす(と筆者には思える)類型的所見が、当時からあったし、いまもって(リベラルで進歩的な政治学者と見られていた法学部教員で、「加藤執行部」の「特別輔佐」を務めた)坂本義和氏によって主張され、出回っている[30]。
確かに、東大文学部でも、同じ1967年の10月4日、やはり教員-学生間に「摩擦」事件が起き、これを理由に一学生が無期停学処分に付された。医学部処分の白紙撤回要求を引き継いだ「全学共闘会議」(以下、全共闘)は、この文処分も、本質的には医処分と同様、「国大協・自主規制路線」が、文学部教授会の「前近代的」体質(学生にたいする「身分」差別)を梃子に、学生運動への弾圧措置として発現し、学内に貫徹された一事例として捉えた。全共闘は、1968年7月の「代表者会議」で、同8月には安田講堂前広場の大衆集会で、「七項目要求」を確認し公表したが、そこには「文処分の白紙撤回」が一項目として登録された。
ところで、医処分の事実経過は、医処分を「相撲部屋と同じくらい古い」医学部特有の体質に帰して局部化する所見の無理を、上記 (§ 1.) のとおり明らかにしている。それでは、文処分はどうだったのか。これが、医処分とほぼ同時期に、いまひとつの学部で起きた学生処分であることは間違いない。しかし、双方を「古い権威主義の帰結」という先入観によって括るのではなく、むしろ並行現象として比較・分析してみると、事柄の本質がいっそうはっきり見えてくるのではないか。
そういうわけで、ここからは、文処分の事実関係を、少々細部に立ち入って分析していきたいと思う。しかし、そのまえに、この文処分という問題そのものが「東大紛争」全体の経過のなかで、どういう位置を占めていたのか、細部への導入もかねて、見定めておくとしよう。[11月22日記、つづく]
文処分は、医処分ほど瑕疵が目立つ拙速処分ではなかった。医学部の被処分者17名中、粒良君は、医学部講師の高橋晄正・原田憲一両氏による詳細・周到な現地調査によって、久留米滞在のアリバイが証明され、冤罪が明白となり、これが医処分全体への疑義を広汎にわたって呼び起こした。ところが、文処分は、学生N君ひとりにたいする処分で、文教授会は、「医処分とは異なり、N君を呼び出して『事情聴取』を実施したから、手続き上も、事実認定にも問題はない」と主張していた。
ここで、本題からはちょっと逸れるが、粒良君の足跡調査によるアリバイ証明が、そのように医学部の教員によってなされた事実の意義に触れておきたい。というのも、それがほとんど顧みられず、忘れられているからである。
大学における学生処分は、たとえそれが、手続き上また実質上、正当になされたとしても、「特別権力」の発動による本人への不利益処遇であることに変わりはない。「大学自治」「学部自治」というと「聞こえはよい」が、そこでは警察権・検察権・(予審)裁判権が、近代市民法による裁判とは異なり、理念上・制度上の権限分割 (専門分化) と相互掣肘の関係に置かれてはいないから、素人の学部教授会とりわけ学部長が「特別権力」を一手に握り、恣意的に行使する危険があることは否めない。とすれば、そういう微妙な問題に、大学内で真っ先に関心を寄せ、万一、被処分学生に不当・不法な不利益がおよび、人権侵害の疑いも否定しきれない、という事態が生じたならば、その件を率先して問題とし、事実関係を精査し、再検討する難題を、進んで引き受けるべきなのは、「組織」の理念と本来の設置目的からすれば、どこよりもまず「法学部」を名乗る部局ではあるまいか。ところがこの場合、じっさいに粒良君の足跡調査を実施したのは、問題そのものにかけては素人の医学部教員であった。
高橋・原田両氏は、当初には医教授会に調査結果を報告して「善処」を要望しようとしたが、豊川執行部が、「教授会が一度決定したことに異論を唱えるとは何ごとか」「教授会への叛逆だ」といきり立つばかりで話にならないので、やむをえず調査結果を公表し、そこから波紋が広がった。ところが、そうなっても、法学部の教員は誰ひとり、高橋・原田報告の追跡調査に乗り出そうとはしなかったし、医教授会側の所見と比較・照合し、高橋・原田報告の真偽を再検証して所見を発表しようともしなかった。
そのうえ、1968年6月24日、豊川医学部長は、新聞記者との会見で、明らかに粒良処分を念頭におき、「『疑わしきは罰せず』とは『英国法の常識』で、わが東大医学部はそんな法理には支配されん」(趣旨)と豪語した。この報道に接して驚いた荒瀬豊氏 (当時、新聞研究所助教授) は、『東大新聞』に投稿して抗議し、そのさい、「自分は必ずしもこの問題にかんする専門家ではないので、法学部の先生方には、ぜひ専門家として発言していただきたい」と要望した。ところが、法学部教員は誰ひとり、発言しようとはしなかった。
「学問は何のためにあるか」「プロフェッショナルはいかなる使命に生きるべきか」という岡崎君の問いは、当時もそのように、東大現場で問われていたのである。「制度」の柵をこえて理非曲直を求め、「プロフェッショナル」の「精神」に生きようとする先達は、医学部にも新聞研究所にも、確かにいたのだ。
[22]「理知ratio」をはたらかせて、ものごとや人間の処遇を決めること。したがって、「理知」によって予測・計算・再現が可能となる。ただし「組織の合理化」が、当の組織に編入される「個人の合理化」をもたらすとはかぎらず、かえって「個人の非合理化」をもたらすことが多い。後段の「没意味化」論を参照。
[23] そのさい、この「根底から」には、「現場から」、あるいは「『全社会的な官僚制化』の『抑圧移譲』をもっとも厳しく受けている『社会の底辺』から」という「社会学」的な意味に加えて、「人間存在の根基・原点から」、「水面を流れのまにまに漂い、互いに絡み合って安定を保っている水草群の一葉ではなく、同じ水草でも、川底に根を下ろして『流れに抗せる』茎でありたい」(アンリ・ベルクソン)という根源的・「哲学的」意味も予感されていた。「1968~69年大学紛争」時には、その延長線上で、滝沢克己の普遍神学(「神-人の不可分・不可同・不可逆の原関係」「エンマヌエルの原事実」)に出会うことになった。
[24] 科学研究がどんなに進んでも、既知の限界は「旅人にたいする地平線」のように、そのつど後退して、けっして「完全知」「全体知」にはいたりえない、という洞察。
[25]「科学迷信Wissenschaftsaberglaube」とは、「無知の知」を欠いて科学の権能を過信する態度で、ヤスパース科学論のキーコンセプト。『東大闘争と原発事故』pp. 82-85 参照。
[26] この点は、別稿で詳論されるべき問題であるが、当時の院生仲間のうち、リベラルな(といっては形容矛盾であれば)人間的に信頼し合えるマルクス主義者と筆者との一争点をなしていた。管見によれば、マルクスは、恐慌による資本主義体制崩壊の「危機」までは、経済学批判として論証した(ヴェーバー流に言い換えれば、「禍の予言」「禍の神義論」を構築した)。ただしそのさい、旧体制下で(とりわけ資本主義体制下では飛躍的に)発展した生産諸力を引き継ぎ、そのうえに社会主義体制を構築すべき「労働者」層の主体形成・「階級」形成については、学問としては未完のままに逝去した。歴史上じっさいには、1929年の「大恐慌」後、「『産みの苦しみ』というにはあまりにも大きすぎる」ファッシズム/ナチズムとスターリニズムという犠牲(随伴結果)を生じた。こうした惨事は、「資本主義からの悪辣な包囲攻撃ゆえ」と「ひとのせい」にして済ませられる話ではないし、「唯物史観」の「発展段階論」(学問上は、レーヴィットが、世界史上は特異な一宗教・キリスト教に固有の「終末論」の世俗化形態として捉え返し、その歴史的被制約性を克明に論証した特異な信念)を「全体知」に固定化し、歴史的「必然」ないし歴史的「救済目標」に抽象化して、片づけられる問題でもない。そこは、責任ある社会科学的変革主体として、ヴェーバーのいう「責任倫理」論を体し、突き詰めれば「こうしなければならなかった」と総括し、そのうえで「今後はこうすればよい」との大筋は示すべきではないか。それで納得がいけば、「われわれ近代主義者」も、「根底からの民主化」をへて「社会主義化」へと踏み出す (あるいは前者を後者につなげていく) ことができよう。とくに、既存の「官僚機構」は(ヴェーバーが喝破したとおり、「危機」においても、それ自体の規律と大衆の日常的要求に応えて、機能を継続し、どんな「首長」にでも仕えるから)外から強権的に「ひきまわす」こともできようが、労働者層他・人民の「根底からの民主化」と「技術労働者との連帯」にまで、労働者層の「階級」形成が進むかどうか。それが「未熟」というのでは、いったいどうやって、高度化した生産諸力を現場で制御-管理し、社会主義という「過渡期」を乗り切って、共産主義という「目標」にまでこぎつけられようか。
学部学生のころ、日高六郎先生から「マルクス主義と近代主義との協力(相乗的相互交流)」という問題提起を受けていた筆者は、(「マルクスとヴェーバー」とは豪語せず、むしろ「一ヴェーバリアン」として)「近代主義者」の範疇に属すると自認していたが、(その後は「大きな物語」として忌避される)こうした一連の問いを、誠実なマルクス主義者ないし社会主義者と議論することが、(当時は「大管法」闘争の渦中でも、あるいはまさにそうであればこそ) できたのであった。
当時の議論仲間、たとえば元島邦夫君(1936年生まれ)は、「マルクスとヴェーバー」論を、『変革主体形成の理論』(1977、青木書店)に集約・彫琢したうえ、『大企業労働者の主体形成』(1982、青木書店)へと実証的に展開していった。見田宗介君(1937年生まれ)は、周知のとおり、マルクスの「物象化」論を、サルトルの『方法の問題』『弁証法的理性批判』を媒介に、『現代社会の存立構造』(1977 、筑摩書房)論に止揚し、(今夏の急逝が惜しまれる) 舩橋晴俊君初め、多くの優れた弟子・後輩 (「先になるべき後なる者」) を育てた。石川晃弘君 (1938年生まれ)は、東欧諸国に飛んで、社会主義を現場で捉え返し、『くらしのなかの社会主義――チェコスロヴァキアの市民生活』(1977、青木書店)を著し、比較研究『職場のなかの社会主義――東欧社会主義の模索と挑戦』(1983、青木書店)へと展開していった。こうした業績には、「大管法」闘争時の「思念」が結実しているように思える。それに比して、筆者自身は、その後も「学知と実践との緊張」を生きようとつとめて、教養課程の教材編成には些少の成果をあげえたとしても、「専門的研究業績」となると、「ヴェーバー文献学に後退して、実証研究の実績に乏しい」と批判されてもいたしかたない。「実践と学知との緊張」と「ヴェーバー文献学への後退」の関連と意味については、別稿で詳論したい。
[27] その証拠に、当時の東大教養学部では、研究業績と教育経験を積んだ老練な教員が、たとえば法学の教授ならば法学部に進学する文科一類の学生への講義のみを担当し、理科生への大教室講義は、若い助教授や講師に委ねるという慣行が成立していた。時間割も、理科生への人文-、社会科学講義は、朝早い一時間目か、他の講義・実験・演習で学生が疲れ切った五時間目か、どちらかに割り振られていた。
[28] 教養課程の教員も、「教養課程の理念と使命に生きる」という「プロフェッショナル」の自覚を欠く場合、専門学部から「お声がかかる」と「尻尾を振って」移籍に応ずることになってしまう。
[29] 学部長会議は、この「いったんは差し戻し」措置を、後に (1968年9月) 文学部処分「解除」のさいにも採用している。みずからも、うすうす問題とは感じ、もしも後刻、問題として追及される羽目にでもなったら、「だから差し戻しはした……」と申し開きして、責任を当該学部の再提案に転化する伏線は張っておこうというのであろう。それ自体、無責任体制の一環をなす「安全儀礼」とでもいうほかはない。
[30] 坂本義和『人間と国家――ある政治学徒の回想』下、2011、岩波新書、とくにp. 12。
初出:「折原浩のホームページ」より許可を得て転載
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〔study791:161202〕
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