1960年代精神史とプロフェッショナリズム――岡崎幸治「東大不正疑惑 『患者第一』の精神今こそ」(2014年11月8日付け『朝日新聞』朝刊「私の視点」) に寄せて (その4)
- 2016年 12月 3日
- スタディルーム
- 折原浩
- 9. 文処分にかんする「便乗」疑惑と事実関係の学生側主張
- 10. 処分解除――既成事実化して「火種」を抹消
- 11. 事実関係にかんする教授会情報の一方的散布
- 12.「民主制」の問題傾向と「プロフェッショナル」の使命
*本論文は折原浩(東京大学名誉教授)により2014年11月~2015年2月 にかけて書かれたものです。全体は大部(A4で51ページ)になるため、およそ10回に分けて連載することにしました。今日の問題にも通ずるものです。是非お読み頂きたいと存じます。(編集部)
さて、本題に戻ると、文処分問題は、医処分紛争の全学化以降、医処分より遅れて争点として浮上し、上記のとおり1968年7月、全共闘の代表者会議で「七項目要求」の一項目に加えられ、同8月に大衆的に確認され、公表された。そういう経緯から、教員および学生一般の間には、当時から、「文処分は、医処分に『便乗』して『七項目要求』に『持ち込まれた』のではないか」という疑念があり、尾を引いていた。
しかし、そうした疑惑は当然、処分の理由とされた「摩擦」事件の事実関係に遡って検証され、「便乗」かどうか、確認され、論証されなければならない。そこで、「摩擦」事件の事実関係にかんする、まずは学生側の主張内容を確認し、追って教授会側の主張内容と照合して、真相を究明していくとしよう。
東大全共闘が1968年8月15日付けで発表した文書『東大闘争勝利のために』には、こう記されている。
「文学部教授会は、……『教授会決定を認めぬ限り、いかなる話し合いもあり得ぬ』という立場を固持し、昨年 [1967年]10月4日に開かれた定例文協においても、『オブザーバー排除』という『決定』を認めぬ限り、文協の閉鎖もやむを得ないという『最終方針』を明らかにし、学生側と並行線を辿ったまま、退場戦術を強行せんとした。その際、学生は、[学友会]執行部を中心として、日程をあらためてのオブザーバー問題での交渉の継続を要求して会議室の入口に全員むらがったが、教授会側は交渉の継続要求を拒否し、退場を強行し、その際、教授会側委員のうちT教官は、入口に立っていた学友の内、N君に手をかけ、自分と一緒に外へ引きずり出すといった暴挙をもおこなったのである。N君は当然にもこうした退場が全く不当なものであることに抗議すると共に、特にT教官が個人的に加えた暴力的行為に対する自己批判を要求した。しかし、学部側はこれにいっさい応えずに退場していったのである」。
多少解説を加えると、「文協」とは、「文学部協議会」の略である。これは、敗戦後いつのころからか開設され、文学部の教授会、助手会(以文会)、学生自治会(学友会)の三者を代表する委員によって構成され、文学部の運営全般とくに学生生活に関係の深い諸問題について協議する機関であった。協議機関とはいえ、こういう「話し合い」の慣行が確立していたこと自体、文学部が(たとえば法学部に比べて)特別に「権威主義」的でも「官僚主義」的でもなかった事実の証左であろう。
ところが、1967年には、新設された「学生ホール」の管理をめぐって、教授会と学友会との間に対立が生じ、文協の会場に、学友会委員以外の文学部学生も入室して、傍聴するようになった。教授会は当初、この「オブザーバー」も、(学友会委員と「ホールを利用する学生諸団体」との間に意見のくい違いや対立があって、「利用諸団体」の関心と意向が、必ずしも学友会委員によっては代表されていない、という事情も汲み)「利用諸団体」の代表者と解釈して、認めていたようである。ところが、5月24日の教授会は、(おそらくは、「学生との協議は、正式の代表にかぎれ」という、「大衆団交」化を虞れる「国大協」方針の下達にしたがい)「オブザーバーの排除」を一方的に決めてしまった。そのため、双方の対立が夏を越し、9月20日には、教授会委員が、「オブザーバーがいる」という理由で、文協の会場から一方的に総退場している。つぎに辛うじて開かれた定例文協が、問題の10月4日であった。当日、教授会の前に開かれた文協の閉会直後、教官委員の助教授T氏と学生N君との間に (医学部の「春見事件」の場合と同じく)「摩擦」が起き、N君が「教官への非礼」を理由に、無期停学処分に付され、文協もそれ以後、事実上閉鎖された。
問題は、この場合も、医学部の「春見事件」と同じく、「摩擦」の実態にある。これについて学生側は、上記のとおり、教官側が退場するさい、T教官は「N君に手をかけ、自分と一緒に外へ引きずり出すといった暴挙をもおこなった」と主張していた。ただ、学生側の文書には、(「一般経験則」として) 自分たちに好都合な誇張がしばしば見られるから、それが「暴挙」であったかどうか、そうとすれば、どの程度の、どんな「暴挙」であったのか、については疑いを差し挟む余地があり、他方の主張内容と照合して慎重に検証されなければならない。ただし、N君は、T教官の退場そのものにも「抗議」はしたが、それとともに「特にT教官が個人的に加えた暴力的行為に対する自己批判を要求した」と主張し、どちらかといえば、後者に力点を置いている。学生側のこの主張は、N君の行為の具体的態様は捨象しているとしても、それがじっさいには (少なくとも勝義には) T教官の「先手」にたいする「後手」の「自己批判要求」であったのに、それを「退場阻止」一般に抽象化し、「教官の先手はそもそも論外として、学生の後手だけを問い、これを理由に学生を処分するのは、不公正な『身分差別』である」という主張とも解釈はできる。しかしここでは、この点について性急に結論をくだすことは避け、学生側文書からの問題提起と受け止め、むしろこれにたいする教授会側および(11月に登場して、翌1969年1月18~19日には機動隊を再導入する)「加藤執行部」の、その後の応答と反論に注目していくとしよう。
ところが、文教授会は、夏休み明け直前の9月4日、「手続きにも事実認定にも問題はない」という主張とは裏腹に、当の処分を急遽、解除してしまった。「解除」というと、「解決」とも早合点されて「聞こえはよい」が、じっさいには、処分の事実が学籍簿に正式に記録され、処分が完了-完成し、動かし難い既成事実となる。したがって、解除の条件をみたさない性急な「解除」は、むしろ処分の既成事実化によって政治的な「火種」を政治的に「抹消」しようとする政治「工作」とも解されよう。
そのさい、文学部長が解除案を学部長会議に提出したところ、「本人が知らないうちに解除されていた、というのでは、いかにも唐突で、かえって『誤解』を招く」(趣旨)という異論が出て、医処分案の場合と同様、いったんは文学部に「差し戻され」た[31]。そこで、N君の指導教員の哲学教授・岩崎武雄氏が9月2日にN君を呼び出して面会したところ、「本人は『背景を考えなければ無意味』といって自己の非を認めてはいない」が、それは「組織の中で活動している者としての図式的な答えのように思え」、「話し合いの態度は静かで、……言外に反省の様子が窺え、……停学解除の件を持ち出しても反発する風もなく、勉学意欲は失っていないようであった」という[32]。この報告を受けて、学部長会議と評議会は、翌々4日、文学部の再提案を承認し、処分解除を決定した。
ところが、当時の「教育的処分」制度によれば、処分の解除には、①処分期間中の謹慎、②改悛、③復学への意思表示、という三条件がみたされなければならなかった。「停学」がことごとく「無期停学」と決められていたのも、「応報刑」ではなく「教育刑」としては一理あることで、これら三条件がいつ充足され、「教育」がまっとうされるかは、事柄の性質上、あらかじめ期限を切って予定することができないからである。ところが、文教授会は、N君が、①謹慎どころか、処分期間中の6月25日には登校して、学生大会の議長となり、ストライキを決議している(紛れもなく「矢内原三原則」に違反して、追加処分の対象とされなければならない)にもかかわらず、逆に処分を解除しようとし、残る②③の条件については、上記のとおり岩崎氏の主観的印象をN君の内面に押し込んで「要件事実」に仕立てている。しかも、文教授会は、(「教育刑」から「応報刑」への制度改正の議論と手続きを経ない)「上からの革命」ともいうべき、この場当たり的な恣意強行を、「もっぱら『教育的見地』にもとづく措置で、『教育の府』では『教育的配慮』が『たんなる規則の遵守』に優先する」とまで強弁した。
ところが、そのようにどれほど無理を犯しても、ひとたび「解除」が決定されてしまうと、当の既成事実を問い返すことは、それだけ困難になる。「『済んだ』ことを、なんで『蒸し返す』のか」という反感が生まれ、広汎に浸透するからである。学内大衆のこの直接的心理反応が、文処分について反問し議論すること自体を、(おそらくは文教授会の狙いどおり)著しく困難にし、真相の究明とそれにもとづく理性的な解決には有害な政治的機能をはたしたことは否めない。
さて、夏休みが明け、学内の議論が沸騰して、「七項目要求」中の文処分という「火種が再燃する」兆しを見せると、文教授会は10月28日、「文学部の学生処分について」と題する文書を、当時発行された「東大・弘報委員会」の『資料』第3号に発表した。そこにはこうある。
「事件の発生した昨年の10月4日には最初、正規の委員のみによる文協が開催されていたが、途中より多数の学生が『オブザーバー』と称し教授会側委員の意向を無視して入室し、静穏な協議が行われ難い情況となり、又、教授会もすでに開始されていたので、議長 (文協の議長は三者が交代であたることになっている。当日の議長は以文会側の委員であった) は教授会側の要求により閉会を宣した。そして教授会側委員がすでに開催中の教授会に出席するため退席しようとしたところ、一学生が、退席する一教官のネクタイをつかみ、罵詈雑言をあびせるという非礼な行為を行った。教授会はこの行為の動機に悪意はないと判断し、文協委員長その他の教官を通じ、本人に私的な陳謝を再三うながしたが、本人は説得に応ぜず、遂に処分のやむなきにいたった」。
これは、文教授会が、1967年「10月4日事件」発生から一年後、1968年6月17日の第一次機動隊導入から数えても四カ月後に、初めて、全学に向けて正式に発表した、(医教授会の「医学部の異常事態について」に相当する) 釈明文書である。しかし、その文面内容は、事前の8月には発表されていた全共闘側の要求に答えていないばかりか、じつは、全共闘側の主張内容と噛み合う反論の体もなしていない。というのも、全共闘側は、上記のとおり「特にT教官が個人的に加えた暴力的行為に対する自己批判を要求した」と主張し、これに力点を置いていたのに、文教授会の文書は、「そうではない」という反論・反証をもって応えるのではなく、ただ「退席する一教官への非礼な行為」という当初からの主張を、そのまま一方的に繰り返すばかりだからである。
なるほど、この文書を最初に一読した大多数の人々、とりわけ (文教授会側からの一方的な情報しか受け取っていなかった) 圧倒的多数の他学部教員は、「あァ、医学部につづいて文学部でも、『学生が騒いで、無理難題を吹っ掛けている』のか」くらいに受け止め、その内容を、学生側の主張内容と逐一比較・対照して、「10月4日事件」における双方の「行為連関」を、事実問題として問い、理非曲直を究明しようとはしなかったであろう。ところが、そうであればあるほど、N君初め文学部学生側は、「自分たちの主張内容は無視され、それには噛み合わない情報ばかりを、相手方が『中立』を装いながら一方的に流し、学内多数派の支持を取り付け、自分たちを孤立に追い込み、そのようにして相手方の意思と決定を押し通し、事態を理非曲直でなく政治的に乗り切ろうとしている」と受け止め、それだけ反感をつのらせることになろう。
じつはここに、「民主制」一般の問題傾向が、一端を露している。つまり、当面の具体的問題をめぐって、当事者間で議論を詰め、理非曲直によって解決を見出そうとするのではなく、権力を握る側が、非当事者・第三者からなる外側に向けて決定権者の範囲を拡大していき、そういう多数派の支持を、場合によっては利益誘導や感情操作によって取り付け、いちはやく多数決に持ち込んで、「民主主義」を装いながら、自分たちの特殊利害や既得権益に適う「決定」を押しつけ、押し通そうとする傾向である。周知のとおり、(「1968~69年全国学園闘争の直後から、「水俣病」を契機に、全社会的に問われるようになった) 公害問題においても、つねにこのやり方で、現地住民の直接当事者・被害者には不利な決定が「上から」押しつけられ、同心円の広-狭域間に、差別が持ち込まれ、構造化される。
とはいえ、筆者はもとより、「民主制」一般を否定する者ではない。むしろ、「民主制」がそうした問題傾向を帯びる現実を、冷静に見据え、鋭く剔抉して、多数派工作者が、どれほどもっともらしい主張を繰り広げても、(医学部の高橋・原田両氏のように) 議論を理非曲直の軌道に戻し、少数の直接当事者の窮境に焦点を合わせ、その権利を擁護して、理にかなう解決を目指すこと、少なくともそのために論陣を張ることが、「根底からの民主化」を「使命」とする「プロフェッショナル」には、まさに堅持すべき「使命」として要請されると思うのである。
となると、一口に「プロフェッショナル」といっても、「専門家」群の単純・単質の塊を指すのではなく、こうした微妙な問題にどう具体的に対決するかに応じて、他極にある「保身-出世第一主義者」(いうなれば「似而非プロフェッショナル」「御用学者」) との間に、スペクトル状の分布があり、これが現実にはつねに流動的に再生産されている、という事態が目に入ってこよう。
ここで、岡崎君が、「プロフェッショナルとは、自らの使命を神に公言 (プロフェス) する人」と定義していることが、注目を引く。同君の考える「プロフェッショナル」とは、「専門家」一般ではなく、「神」との関係において、自分の「使命」を選び取り、公言し、そこから (「患者第一」というような) 原則を決め、これに反する状況では「流れに抗して」も生きられる個人を指していうのであろう。ここで「神」とは、筆者としては、必ずしも欧米の「ユダヤ・キリスト教的伝統」に沿って継承されてきた「現世超越的唯一神」のみではなく、たとえば過去の「戦争犠牲者の魂からの問いかけ」や、逆に将来、放射能禍や資源枯渇のため絶滅の危機に瀕する人類の後続世代による「先行世代の責任への問い」というような「超越者」「超越的契機」一般を指すものと解したい。筆者は、岡崎君の「プロフェッショナリズム」に賛同し、ただそれを、このように広く解釈すると同時に、現実の「スペクトル状分布」にも目配りしていきたい、と思うわけである。
さて、話を10月28日付け文書に戻すと、後半部で、「教授会は、[N君の] 動機に悪意はないと判断し、……教官を通じ、本人に私的な陳謝を再三うながしたが、本人は説得に応ぜず、遂に処分の止むなきにいたった」と明記している。とすると、ここからは、教授会の「事情聴取」が、じつは本人への一方的な「陳謝請求」と「説得工作」で、(事実関係にかんする相手方の主張を聴いて、自分たちの確信をいったんは相対化し、事実関係を捉えなおす、という意味の)「事情聴取」の体はなしていなかったのではないか、という疑問が、生じざるをえない。
そのさい、N君の「行為の動機」に (「悪意はない」と、肯定的にせよ、ともかくも) 言及するからには、N君の当の「動機づけ」の要因を、さらに立ち入って究明する必要があろう。そうすると、「行為連関」の相手方についても、同じく「動機」を問わざるをえなくなろう。というのも、(教授会側の主張をそのまま受け取れば、確かに学生一般の行為通則からは逸脱する)N君の「並外れて激しい」抗議ないし「自己批判要求」が、他の教官委員、とりわけ(危機に瀕していることは確かな、文協の存続と次回の日取り決定との鍵を握る)委員長の玉城康四郎教授ではなく、よりによって平委員で唯一の助教授T氏ひとりに向けられ、集中しているのはなぜか、という疑問に逢着せざるをえず、この問いへの応答を避けて通るわけにはいかないからである。ところが、10月28日付け文書には、N君との「摩擦」にいたるT教官側の行為とその動機には、「文協会場からの退席」という他の三教官委員と共通・同一の抽象的契機以外は、まったく言及されていない。これでは、当事者の文学部学生ばかりでなく、大学現場における一「行為連関」の真相を求める科学者も、納得させることはできない。
[31] 医処分のさいにも採用されているこの「差し戻し」措置の意味については、前注29参照。
[32] 1968年9月4日に、東大医科学研究所の会議室で開かれた、評議会の「記事要旨」から引用。ちなみに、筆者も文学部学生のころ、岩崎氏の『弁証法』(東大出版会刊)という解説書を繙き、明快で分かりやすいと感嘆して読んだ記憶がある。その哲学教授が、いざ自分の現場の問題となると、このとおり他人の思想・信条を外見から推し量り、「内心では反省している」と推断し、「教育的処分」解除の「要件事実」に仕立てて、「教育的処分」の「教育」を途中で放棄している。評議会も、この「面会」報告を認めて、「教育的処分解除」を決め、文学部の「教育放棄」を追認した。ここからは、遡って文処分決定時の「事情聴取」も、同様に一方的な「陳謝請求」で、「事情聴取」の体をなしていなかったのではないか、という疑いが生ずる。
初出:「折原浩のホームページ」より許可を得て転載
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〔study792:161203〕
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