1960年代精神史とプロフェッショナリズム――岡崎幸治「東大不正疑惑 『患者第一』の精神今こそ」(2014年11月8日付け『朝日新聞』朝刊「私の視点」) に寄せて (その6)
- 2016年 12月 5日
- スタディルーム
- 折原浩
- 16.真相究明の手がかり――「半日公開文書」の記述変更と沈黙
- 17.活かすべき先人の技法――マンハイムの知識社会学とヴェーバーの因果帰属論
- 18.「T ⇄N行為連関」における「T先手」の「明証的」理解とその「経験的妥当」
*本論文は折原浩(東京大学名誉教授)により2014年11月~2015年2月 にかけて書かれたものです。全体は大部(A4で51ページ)になるため、およそ10回に分けて連載することにしました。今日の問題にも通ずるものです。是非お読み頂きたいと存じます。(編集部)
文教授会による12月1日半日公開文書「N君の処分問題について」は、「10月4日事件」における教授会側委員の一斉退席までは、従来と変わりのない所見を述べている。しかし、T教官の退席とN君の行為との関連にかんする記述が、つぎのとおりに変更された。この変更は、理非曲直と真相の究明に向けての一歩という観点から見れば、「八日間団交」の成果というほかはない。
「教授会側委員は教授会出席のため、一斉に退出しようとした。そのとき議場入口付近にいた『オブザーバー』学生はこの退席を阻止しようとして入口の扉付近に集まったが、教授会側委員は、築島助教授、関野教授、玉城教授、登張教授の順で、学生たちをかきわけて扉外に出ようとした。このとき一学生が、すでに扉外に出ていた築島助教授のネクタイをつかみ、大声を発して罵詈雑言をあびせるという行為に出た」。
変更はごくわずかで、注意して読まないと、見逃されかねない。しかし、築島助教授が先頭に立って「扉外に出ようとした」時点と、N君が「すでに扉外に出ていた」築島助教授の「ネクタイをつかむ」時点との間に、何が起きたのか、については沈黙している。一見些細なこの隙間が、注目を引く。ちなみに、医処分にかんする医教授会の文書も、「春見事件」の事実関係について、「上田病院長は、一時は路傍の植え込みの中に押し込まれる形にもなったが、通報によってかけつけた上田内科春見医局長他数名の医師に守られて、内科病室内一階廊下に達することができた」、そのさい「春見医局長は、学生らの集団に取り囲まれた上田教授に近づくにあたって暴力を用いたと非難されることをおそれ、腕組みをして近づくだけの配慮をしていたし、数名の医師もこの情況を目撃している」[43]と主張した。これも、漫然と読んだのでは看過されかねないが、春見氏が「学生の囲み」に「腕組みをして近づく」時点と、上田氏がその春見氏「他数名の医師に守られて、内科病室内一階廊下」に向け移動を開始する時点との間に、何が起きたのか、別言すれば、上田氏がどのように「学生の囲み」から脱したのか、については沈黙を守っている。こうした類型的沈黙の背後に、いったいどんな事実が潜んでいたのか[44]。
ところで、筆者がかつて院生として「1962~63年大管法」反対運動の渦中で読んだカール・マンハイムの「知識社会学」的著作は、ある言語形象 (言表なり文書なり) の「イデオロギー性」ないし「存在被拘束性」を具体的に検出し、究明しようとするさいには、「何が語られているか」よりもむしろ「何が語られていないか」に注目せよ、と示唆している。意図して人を欺く単純素朴な「嘘」(「部分的イデオロギー」) ではなく、無意識裡にも (ことによると「主観的には善意をもって」) 犯され、結果としてはいっそう深刻に人を欺く、いうなれば「思考範疇として常習化し」、ある意味で「体系化」された歪曲 (「全体的イデオロギー」) は、肝要な点にかんする端的な沈黙や、抽象化による「焦点ぼかし」「はぐらかし」に「氷山の一角」を顕す、というのである。
他方、マックス・ヴェーバーは、歴史上のある事件について、「素朴実証主義」的な記述の域を越え、「因果的意義」の究明にまで進むには、当の事件にかんする「史実(論) 的知識ontologisches Wissen」だけでは足りず、「所与の (類型的) 状況に、人間は通例、どう (類型的に) 反応するか」にかかわる「法則 (論) 的知識nomologischesWissen」(「一般経験則」「日常経験知」「通俗心理学的知見」) を援用し、想像力をはたらかせて「史実 (論) 的知識」と関連づけてみなければならない、と説いた。かれは、「因果帰属」のさい、両知識をどう結合するかについて、方法論上の定式化と例解を企てた[45]あと、かれが蓄えていた厖大な「法則 (論) 的知識」(古今東西の歴史的諸事象から抽出した「一般経験則」) を、あくまで日常経験知に足場を置きながらも、いわば「その圏域内に入り込んでいる異邦の飛び地Enklave」として、かれの「社会学」に統合・定式化し、類型論的・決疑論的に整備しておこうとした。そこに、かれの「社会学」が成立する[46]。
とはいえ、そんな七面倒くさい方法や技法は知らなくとも、市民の健全な人間常識を発揮しさえすれば、東大医・文両教授会文書の沈黙・空白箇所の背後に、どんな「行為連関」が隠されているのか、など、いとも簡単に暴露し究明できる、と主張する向きもあろう。それがさほど簡単かどうかはともかく、筆者もまた、市民自身の常識発揮こそ望ましいと考え、むしろそのためにこそ、たとえばマンハイムやヴェーバーの方法や技法にかんする学知も活かそうと志す者である。それにもかかわらず、いまここでなぜ、かれらの所説を持ち出すのかといえば、それらは、いやしくも「社会科学のプロフェッショナル」であれば、丸山眞男氏はもとより、東大文学部で社会学を講じ、筆者も他ならぬマンハイムについて教わった高橋徹氏にも、学知としては周知の事柄だったはずである。後に文学部長となって衝に当たる歴史学者の堀米庸三氏も、ヴェーバーの「因果帰属」論には精通していたにちがいない。ところが、かれらは、自分の現場に起きた紛争の争点にかかわる、医・文教授会文書の沈黙・空白箇所を、問題とはせず、マンハイムやヴェーバーの(学知としては通じていて、講義や演習では申し分なく解説していたにはちがいない)技法や方法を、じっさいに適用しようとはしなかった。それらを活用して文処分を再検討しようとせず、「話し合い」による解決を遅らせ、そのかぎり (「黄色ゲバルト部隊」の導入による武力衝突・流血とあいまって) 機動隊再導入に道を開いた、というほかはない。マンハイムをして端的に語らせれば、かれら「社会科学のプロフェッショナル」もまた、医・文教授会を捕らえて全学を欺いた「全体的イデオロギー」に「すっぽりと嵌まって」おり、「同じ穴の狢」だった[47]ということになろう。
とすると、少なくともここには、「(マンハイムやヴェーバーにかんする) 学知・学問は何のためにあるのか」、「市民の健全な人間常識の補強・補完として役立つためか、それとも逆に、『専門家』として人間常識から屹立し、『権威』をまとい、『学知の驕りacademic arrogance』にも囚われ、『組織』の自己維持-自己拡張に仕えるためか」、「学知は十分にそなえていながら、いざ自分の現場・職場で去就が問われるや、あっさりと捨てて『全体的イデオロギー』に荷担する『プロフェッショナル』とは、はたして何者か、真正な『プロフェッショナル』といえるのか」、「では、『真正なプロフェッショナル』を『似而非プロフェッショナル』から分かつ一線は何か」、「どうすれば、『似而非プロフェッショナル』に通じる『保身-出世第一主義』の『流れ』に抗して、『真正なプロフェッショナル』のスタンスを獲得、堅持できるか」といった(岡崎君らによって、いままさに再提起されている)問題が、東大現場の「社会科学者」や「歴史家」に具体的に問われていたことになろう。
そして、筆者には、「1968~69年学園紛争-闘争」の機動隊による圧殺と旧秩序の回復以来、この問題が、いささかも解決されず、忘れられ、問い返されることなく、今日にいたっているように思われる。かつては教員を (「流れに棹さして」ではあれ、あれだけ厳しく) 追及した当事者の学生・院生OB/OGも、その後、旧秩序に舞い戻り、その「存在被拘束性」をもろに身に受けて、それだけ批判性を失い、口を噤み、傍観して、問題の解決を遠退かせ、先送りしているように見受けられる。岡崎君らはいま、同じ問題を、データ改竄という学問研究の「末路」に直面して、ふたたび公然と採り上げ、回答を求めているのである。[12月12日記、つづく]
さて、「10月4日事件」の事実関係に戻ると、N君がなぜ、まだ文協会場に残っている委員長の教授玉城康四郎氏をさしおいて、すでに扉外に出てしまった平委員の助教授築島氏に、「ネクタイをつかみ、罵詈雑言をあびせる」並外れて異様な行為に出たのか、その動機が問題であった。「退席阻止」「退室阻止」としては異様に「激越」なうえ、あて先の選択理由が、分からないのである。文教授会は、N君の行為の「並外れて激しい」態様を、動機からは切り離し、それだけを孤立させて取り出し、(当初には)「非礼な行為」、(後には)「暴力行為」と規定-断定して、「処分に値する」との価値判断を力説、強調するばかりであった[48]。なるほど、学生側が、(文教授会側が繰り返し明言して強調している) この態様にかぎっては反論せず、「自己批判要求」にやはり抽象化している事実から推して、教授会側の見紛い難い具体的陳述のとおり「ネクタイをつかみ、罵詈雑言をあびせる」行為であった公算が高い。そうであったとすれば、筆者もまた、そうした行為自体は、遺憾に思う。
とすると、当事者のT氏個人が、そうした行為を受けて、直接的な心理的反応として怒るのには無理はなく、「陳謝請求」に短絡するのも、やや軽率とはいえ致し方ないとしよう。しかし、教授会が、この件を、報復ではない「教育的処分」の手続きに乗せる以上、そこでいったん立ち止まり、冷静さを取り戻す必要があったのではないか。当の行為を、教員にたいする学生の日常的・通則的態度からの逸脱として捉え、それが異様であればあるほど、いったいなぜ、それほど異様な逸脱が生じたのか、と動機を問い、当の具体的動機を突き止め、これにたいして「教育者として」「適切に」対処すべきではなかったか[49]。そうすることこそ、「教育的処分」の本旨ではないのか。
そこで、もっぱら築島助教授に向けられたN君の「異様な」「逸脱行動」について、ありうる動機を、まずは先験的に仮構し、網羅的に数え上げてみると、①N君がそもそも、「動機」を「理解」することも問うこともできない「異常な」挙動にしばしば出る、たとえば「統合失調症」を患っていた、②かねてからもっぱら築島助教授個人に「恨み」を抱いていたが、それを「この機に乗じて」晴らした、むしろ、③築島助教授のほうがN君に、もっぱら築島氏に跳ね返る必然性のある反応行為を動機づけた、ないしはそのきっかけを与えた、という三つの仮説が、定立可能であろう。ところが、仮説①は、そもそもN君が処分された、つまり「有責性」を認められた、という事実によって否定される。仮説②は、10月28日付けの文教授会文書が、「[N君の] 動機に悪意はないと判断し」た、と述べている事実から、まず否認されよう。とすると、残る仮説は、③のみである。
では、いかなる「きっかけ」か。
まず、学生文協委員およびオブザーバーが、教授会委員の (少なくとも前回9月20日の) 一斉総退場以来、オブザーバー問題を理由とする文協閉鎖への危機感をつのらせていた、という事情を想起しなければならない。そこで、この「史実」に、「こういう類型的状況では、学生は通例、文協そのものの存続と次回の日取りにかんする確約をとりつけようとして、その鍵を握る委員長に向かって歩み寄る、あるいは殺到する」という「一般経験則」「法則(論)的知識」を関連づけてみると、N君が、まだ文協会場の中にいるか、あるいは退場の途上にある玉城委員長ではなく、すでに扉外に出てしまった平委員の築島助教授に、よりによって「並外れて激しい」行為を向けた「異様さ」が、それだけ浮き彫りにされ、その動機「解明」が、いよいよもって重要となろう。なるほど、築島助教授が扉外に出てしまったからこそ、会場に連れ戻そうとして「並外れて激しい」行為におよんだ、とも考えられはする。しかし、そうだとすると、「手をつかんで引き戻す」とか、「背後にまわって腰や背中を押す」とか、なにかそういう類の行為に出るはずで、ことさら「ネクタイをつかんで罵詈雑言をあびせる」というのは不自然である。
そこで、築島助教授の側に視線を転じ、想像力ないし「エンパシー」(マンハイム) をはたらかせて「本人の身になってみる」と、真っ先に学生の囲みを割って扉外に出たあと、(すでに教授会が開始されている時刻というので) 教授会室に向かおうと思ったにはちがいない。しかし、そのまま振り返りもせず、一目散に立ち去ったとは考え難い。というのも、そこは「同僚の誼」(「恒常的動機」の「一般経験則」) で、後にとり残されている同僚の委員を気遣い、後ろを振り返って見たにちがいないからである。すると、「入口の扉付近に集まった」[50]オブザーバー学生が、文協の存続と次回の日取りにかんする確約をとりつけようと、後につづく同僚委員とりわけ委員長に歩み寄る、あるいは殺到する様子が、目に映ったはずである。そこで咄嗟に、あるいは(ことによると)「一斉総退場の第二回目決行」という同僚間の「申し合わせ」を思い出し[51]、「手を拱いて見守る」のではなく、同僚の退室空間を確保ないし拡大するために、最後列にいる最寄りの学生を (N君とは知らず) 制止しようと、手ないし着衣を抑えたとしても不思議はない。
築島助教授のこの行為について、学生側は、前記のとおり、「T教官は、入口に立っていた学友の内、N君に手をかけ、自分と一緒に外へ引きずり出すといった暴挙をもおこなった」と主張している。そうした態様は、常日頃は温厚な教員一般の恒常的習癖 (「一般経験則」) には反するので、この点は、学生の文書にありがちな「好都合な誇張」と疑う余地があった。しかし、それにたいするN君側の反応が、これまた「学生一般の日常経験則」には反する「並外れて激しい」行為であったからには、そうした反応を誘い出した築島助教授側の行為も、同じく「教員一般の日常的経験則」には反する「並外れた激しさ」をそなえていた、と考えることはできる。双方を「人間として対等」と見なし、非日常的、その意味で例外的な「摩擦」状況に置いてみれば、むしろそう仮定すべきかもしれない。教授会側の文書に、この仮定への言及がないのは、当の文書に表明された思考そのものが、「学生と教員」という「身分」の非対称性に思いいたらず、学生側の行為態様だけを取り出して他をすべて捨象する「遠近法的視座」を素朴に前提として疑わないかぎり、それだけ「身分」による「存在被拘束性」を帯び、まさにそうした「全体的イデオロギー」の一環をなしている事実を、それだけ鮮かに表明しているともいえよう。
いずれにせよ、態様はどうあれ、築島助教授が先に、N君の身体ないし着衣への物理的接触におよんだことは、まずまちがいない。そして、そうだとすれば、この「行為連関」の他方の当事者N君は、(ともかくもまだ扉外に出ずにいる、反対方向の) 委員長に「気を奪われ」、そちらに歩み寄ろう、あるいは突進しようとして、思いがけず逆方向から (少なくとも) 接触・制止されたわけで、その手応えは、それだけ大きく感じられたにちがいない。とすると、「自分と一緒に外へ引きずり出すといった暴挙」という学生側の記述も、あながち「誇張」一点張りとはいいきれない。かりにそうした動機がなく、N君の行為が、文教授会と加藤執行部が後々まで固執したように「退席阻止」一般であったとすれば、それがなぜ、扉外に出てしまった平委員の築島助教授ひとりに「並外れて激しく」向けられなければならなかったのか、「理解」できず、「説明」できないのである。[12月17日記、つづく]
[43] そこで、医学生・研修生は当然、その目撃医師の証言を求めて、その氏名を問うたが、豊川医学部長は、「人権の問題があるので、裁判にならなければ、証人の名前も証言内容もいえない」と答えた。ところが、後に裁判になっても (1970年11月14日、東京地裁・牧法廷)、豊川氏は応答せず、沈黙を決め込んだ。
[44] そのうち、「春見事件」については、春見氏が「腕組み」をして「近づいた」うえ、学生の囲みに割って入り、学生を左右に振り払って、上田氏のもとに達した、と推認される。この点は、医教授会側の文書よりも先に発表されていた学生側の文書が、「春見氏は、学生を『肘で打ち』、学生の眼鏡が飛んで縁が壊れた」と主張していた事実と、符牒が合う。「腕で左右に振り払う」行為は、体重がかかるだけ、「手でかき分ける」行為よりもそれだけ激烈であろう。
[45] 本HP 2014年欄の論稿「マックス・ヴェーバーにおける『歴史-文化科学方法論』の意義――佐々木力氏の質問に答えて」(11月7日)、参照。
[46]「社会学」を市民運動とどう関連づけるか、肝心の結節点にかかわるので、ここで少々、解説を加えよう。このEnklaveとは、「自国から離れた、圏外の飛び地」ではなく、「自国 (市民の日常経験知) 内に入り込んだ、異国 (歴史社会学的知識) の飛び地」を意味する。したがって当然、「飛び地」とその「囲繞地」との間には緊張関係がある。日常経験知は、ともすれば「自己中心-自文化中心egozentrisch-ethnozentrisch」の自足完結性を帯びやすく、これを脅かす「知性主義」には稀ならず敵対する。それにたいして、知性のほうも、そうした「反知性主義」との「同位対立」に陥って、これまた純粋な学知に自己完結しやすい。ところが、知性が、市民の日常経験知を、まずは「先入観」として引き受け、学知の普遍史的地平に導き入れ、そのなかで相対化-類型化して投げ返すときには、日常経験知が、そうした比較歴史社会学的知見に媒介されて、「自己中心-自文化中心」の制約を脱し、普遍性に向けて開かれるであろう。「ヴェーバー社会学」の主著『経済と社会』は、こうした方法意識とスタンスにもとづく、日常的「社会諸形象」の比較史的・普遍史的相対化・再構成・再定義の企てであった。それは、そのようなものとして、市民の日常経験知を「健全な人間常識」に彫琢し、鋭く研ぎ澄ます媒体として、活かすこともできよう。筆者の専門的ヴェーバー研究は、自足完結的な文献研究と見紛われもするが、じつはそういう専門超越的な動機に根差している。
[47] ということは、言表や文書の内容を「額面どおり」にではなく「イデオロギー」として捉え返す見方を、敵陣営だけでなく、身方にも自分自身にも「普遍的」に適用して、「イデオロギー論」から「知識社会学」に脱皮することができなかった、ということになる。
[48] マンハイム流にいえば、「全体的イデオロギー」の一環として、そういう「遠近法的視座」を固定化・絶対化し、「自由な視点転換」がきかず、「エンパシー」(当事者とくに弱者・被害者の身になって「動機」を察知する「想像力」) も呪縛されてはたらかなかった、ということであろう。
[49] ヴェーバーによれば、人間の「行為」には通例、「明証的evident」に「解明deuten」・「理解verstehen」できる「意味上の根拠」すなわち「動機Motiv」があり、それゆえ、外から「観察beobachten」された「行為の経過」について、なぜ「かくなって、別様ではなかったのか」と問い、当の「動機」に遡って、「適切adäquat」に「説明erklären」することができる。こうした「理解科学」の方法を、個性的な生起に適用し、個性的な因果連関を探求する「現実科学 (ないし歴史科学)」が、歴史学であり、反復して観察された諸経過から、一般的・類型的「規則」を抽出する「法則科学」が、社会学である。
[50]「N君の処分問題について」より引用。この点は、学生側文書も、上記のとおり、「日程をあらためてのオブザーバー問題での交渉の継続を要求して会議室の入口に全員むらがった」と記し、場所の特定にかけては教授会側と一致している。
[51] 築島助教授が、なぜ真っ先に退室したのか、を問うこともでき、これには、「一斉総退場の第二回目決行」にあたって、予めそういう「役割分担」が取り決められていた、あるいは咄嗟に思いつかれた、という「客観的可能性」も否定はできない。
[52] この点については、「理解社会学」の方法論上の要請を参照。「ある行為が、どれほど『明証的』に『解明』されたとしても、そのこと自体が、当の『解明』の『経験的妥当性』までを証明しているわけではいささかもない。外的な経過や結果においては同一の行為ないし自己行動Sichverhaltenが、きわめて異なった動機の布置連関から生ずることもありうる[分かりやすい例としては、「飛び下り自殺」と「転落事故死」]ので、そうした動機連関のうち、理解できる明証性を最高度にそなえたものが、つねに現実に作用したものdie wirklich im Spiel geweseneでもある、とはかぎらないからである。むしろ、いかに明証的な解明も、それが妥当性もそなえた『理解による説明』となるためには、当の連関の『理解』はさらに、他領域では普通におこなわれている因果帰属の方法によって、できるかぎり検証されなければならない」(M. Weber, Gesämmelte Aufsätze zur Wissenschaftslehre, 1922, 7. Aufl., 1988, Tübingen, S. 428, 海老原明夫・中野敏男訳『理解社会学のカテゴリー』1990、未來社、pp. 9-10)。
初出:「折原浩のホームページ」より許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study794:161205〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。