スライス危険!「生前退位」をめぐる議論
- 2016年 12月 13日
- 時代をみる
- 天皇天皇制田畑光永
暴論珍説メモ(153)
「象徴としてのお勤めについての天皇陛下のおことば」が今年8月8日に国民に伝えられてからすでに4か月が過ぎた。「おことば」を受けて政府はその間、安倍首相の私的諮問機関「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」(座長・今井敬経団連名誉会長)を設置し、11月には3回に分けて合わせて16人の専門家の意見を聞いた。そして12月7日の会合から論点整理に入った。有識者会議では14日にも論点整理を続け、年明けにそれを公表する段取りと伝えられる。
私はことの進み方のゆっくりさに驚くと同時に、この間の経緯は天皇の「おことば」が提起した問題を解決するというよりも、第二次大戦後に制定された「日本国憲法」が規定するいわゆる象徴天皇制を、この機会に別のものに変容させていこうとする動きが表面化してきた期間であったように見える。
そのことは後で考えるとして、私自身が「おことば」を聞いてまず感じたのは、自らの身体能力の衰えを冷静に見つめ、なおかつそれを自分以外は言い出せないことを斟酌して、自ら地位を退く意思を明らかにするというのはなかなか出来ないわざだということであった。とすれば、「生前退位」に関する規定がないとしても、なんらかの方策を講じて、それを実現する条件を早急に整えるべきだ、というのが私の考えである。
ところが、その後の事の進み方は丁寧といえば聞こえはいいが、実際は結論を出したくないのではないかと勘繰りたくなるほどゆっくりである。有識者を集めて「有識者会議」を設置したのだから、その人たちが知識を出し合って、せいぜい1か月くらいで結論を出すのだろうと思ったら、その前に今度は専門家を読んで1人ずつ意見を聞くことが始まった。それも16人もの専門家を3回に分けてというゆっくりペースである。
そしてその16人専門家の意見というのを報道で見て驚いたのは、天皇が示唆された「生前退位」に賛意を表した人が意外に少なかったことである。私の計算では(だから間違っている可能性もあるが)、16人中5人に過ぎない。逆に否定的な人は8人、どちらなのかよくわからない人が3人であった。
無識な私が憲法の「第一章 天皇」と「皇室典範」を読んだ限りでは、皇室典範の第三章「摂政」の条文を改正すれば、ことは簡単に思える。そこにはこうある、「第三章 摂政 第十六条 天皇が成年に達しないときは、摂政を置く。(第2項)天皇が、精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為をみずからすることができないときは、皇室会議の議により、摂政を置く。」
つまり天皇の生存中に代理(摂政)を置かねばならないときにはそうすることを皇室典範も予期しているのである。ただその条件として第1項が未成年の場合、第2項が精神または肉体の事故または病気の場合、を想定している。制定時には現今の高齢化社会は想定されなかったとしても不思議はないのだから、天皇の高齢がその中に入っていないのは自然であって、高齢化社会の今、高齢による身体状況の不適を加えても何ら不都合はないはずである。
ところが意見を聞かれた専門家には、この摂政の条件を緩和するという案は概して評判がよくない。勿論、それでいいという人もいるが、反対意見は高齢ゆえに公務から離れた天皇と摂政が並立する場合、その期間が長引く可能性があり、それは「象徴の二重性」を生んだり「国民統合の象徴」が分裂したりする、というのである。
すでにある摂政という制度を使わないとすれば、あとは新しい取り決めをつくるしかないわけだが、そうなると特例法でいいか、恒久法にすべきか、と話はややこしくなる。
それはそれで有識者に考えてもらうとして、専門家とされる人たちに先に書いたように「象徴天皇制」を別物にしようとするかのような発言が散見されるのが目についたことを取り上げたい。
それはどういう発言か。
「天皇家は続くことと、祈るという役割に意味がある。それ以上のいろいろなことを天皇の役割と考えるのはいかがなものか」(平川祐弘氏)、
「天皇の仕事は昔から第一の仕事は国のため、国民のために祈ることだ」(渡部昇一氏)、
「歴代天皇は、まず何よりも祭祀を重要事と位置づけ、国家・国民のために神事をおこない、その後に初めてほかのもろもろのことを行った。・・・天皇はなにもしなくてもいてくださるだけでありがたい存在でることを強調したい。その余のことを天皇であるための要件とする必要性も理由も本来はない」(桜井よし子氏)
天皇は言うまでもなく国家機関である。そして憲法20条は政教分離の原則を明確に規定している。天皇の役割の第一を祈ることとする考え方は、戦前の天皇制の「現人神」を引き継ぎ、日本を神国とすることに通ずる。それは八紘一宇から大東亜共栄圏へと拡大し、戦争の思想的バックボーンとなったのは歴史的事実である。
この思想は日本国憲法によってなくなったはずであるのに、時折、不死鳥のように姿を現す。2000年5月、当時の森喜朗首相が「日本の国はまさに天皇を中心としている神の国であるぞということをしっかりと国民に承知していただくために我々(神道政治連盟)は頑張ってきた」と発言し、おおきな物議を醸した。
今また天皇の生前退位の議論に紛れてこういう発言が出てきた。憲法第7条の「天皇の国事行為」には10の行為が列挙されていて、その10番目に「儀式を行ふこと」というのがあるが、これは引用した論者たちが言う「祈り」ではないはずだし、まして天皇の第一の仕事ではない。
有識者会議が論点整理の中でこうした発言をどう扱うか、よもや象徴天皇を現人神にもどそうとする議論の拡散に手を貸すことのないよう見張っていなければなるまい。(16.12.11)
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