天皇誕生日に思う
- 2016年 12月 24日
- 時代をみる
- 澤藤統一郎
1915年生まれの私の母は、現天皇(明仁)出生時に2度鳴ったサイレンを聞いたと言っていた。サイレンの2吹は男児出生の合図だったという。1933年12月23日、83年前の今日のこと。北原白秋作詞・中山晉平作曲の唱歌「皇太子さまお生れなつた」も覚えていた。
その3番だけを引用する。
日の出だ日の出に 鳴つた鳴つた ポーオポー
サイレンサイレン ランランチンゴン
夜明けの鐘まで
日本中が大喜び みんなみんな子供が
うれしいなありがと 皇太子さまお生れなつた
昭和天皇(裕仁)の第1子から第4子までは女児であった。女児の誕生は「失望」と受けとめられていた。第5子にして初めての男児誕生が、「日本中が大喜び」「うれしいなありがと」と、目出度いこととされたのだ。もっとも、今退位を希望している天皇である。男児として生まれたことを自身がどう思っているかは計り知れない。
私の母は、自分の心情として「嬉しかった」とは言わなかったが、「みんなが喜んでいた。嬉しがっていた」とは言っていた。おそらくは、お祭り同様の祝賀の雰囲気が巷に満ちていたのだろう。
天皇制は、不敬罪や治安維持法、あるいは宮城遙拝強制・徴兵制・非国民排斥・特高警察・予防拘禁・拷問などの、おどろおどろしい制度や強制装置によってのみ支えられたのではない。天皇制を内面化した民衆の心情や感性に支えられてもいたのだ。
「日本中が大喜び みんなみんな子供が うれしいなありがと 皇太子さまお生れなつた」という民衆の素朴な祝意は紛れもなく天皇制の根幹をなすものだった。北原白秋も中山晉平も大いにその演出に貢献したのだ。
本来他人事に過ぎない天皇家の慶事に「目出度さの押しつけは御免だ」とは言えなかった。天皇家の弔事の際には歌舞音曲を慎まなければならなかった。いや、多くの民衆が天皇制を内面化し、天皇家の慶事も弔事も、わがこととしたのだ。こうした民衆の心情が天皇制を支えた。
ポツダム宣言の受諾と日本国憲法の成立によって、天皇制を支えていた大逆罪も不敬罪も治安維持法も国防保安法もなくなった。軍隊も特高警察も、徴兵制もなくなり、いまや神社参拝・宮城遙拝強制もない。天皇を誹謗したとして非国民扱いを受けたり、予防拘禁や拷問をされることもない。天皇制を支えていた、おどろおどろしい制度や強制装置はなくなった。しかし、天皇制を内面化し、天皇制の根幹を支えた民衆の意識は生き残った。それが、本日の「天皇誕生日祝う一般参賀」33000人という数字に表れている。
いうまでもなく、天皇制は日本国憲法体系の例外であり夾雑物である。憲法の基本である国民主権・民主主義・人権尊重の立場からすれば、天皇制の存在を極小化することが望ましい。とりわけ、国民が自立した主権としての意識を徹底するには、内面化された天皇制の払拭が必要である。
天皇制を廃止するには改憲手続きを必要とするが、その存在を限りなく小さくし、予算も最小限に削減する運用は国民の意思でできることである。
臣民に天皇制を鼓吹し、内面化させたものは、教育とマスコミであった。その教育は学校と軍隊で行われた。今軍隊はなく、天皇制鼓吹の学校教育は一応姿を消したことになっているが、日の丸・君が代強制などはこれに代わるものといって良い。
そして、いまメディアにあふれる「日本中が大喜び みんなみんな うれしいな ありがとう 天皇誕生日」のトーン。天皇や天皇制は、批判しにくい聖域として定着しつつある。これは、自立した主権者意識を育むための、大きな支障と言わねばならない。
(2016年12月23日)
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2016.12.23より許可を得て転載
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