日ロ首脳会談を終えて:国家の「嘘」の罪深さ
- 2016年 12月 28日
- スタディルーム
- 塩原俊彦
日ロ首脳会談については、「閑話休題:安倍晋三首相の「一本負け」を解読する」という論考を自分のブログ(https://jp.sputniknews.com/blogs/shiobara_toshihiko/)で紹介している。「ちきゅう座」にも寄稿せよとの御下問があったので、「国家の「嘘」の罪深さ」というタイトルで拙稿をお届けしたい。
国家の「嘘」①
第一は、国家の北方領土問題に対する「嘘」に真正面から立ち向かう姿勢が筆者を含めて多くの日本国民に不足していたという反省からはじめなければならない。それは、北海道をめぐる開拓の歴史を多くの人々が知らないという事実にかかわっている。明治以後、大日本帝国政府が結んだ条約を手掛かりに北方領土問題を論じる大方の人々はそれだけで国家の術中にはまっている。国家の「嘘」に気づかぬままに国家の都合に沿った議論しかできないからである。
沖縄返還と北方領土返還の問題を比較すると、北方領土返還のうさん臭さを知ることができる。沖縄には多くの人々が現に住み、明治維新前にも長きにわたる歴史が刻まれてきた。沖縄の人々の葛藤、慟哭、苦悶に影響を受けるなかで、国家が返還にかかわったことになる。国家が日本と沖縄の歴史について「嘘」を教え込もうとしても、沖縄の文明はそれを許さない。そうした緊張関係のなかで返還が実現したことになる。
だが、北方領土については、はっきり言って、日本人の99%以上がその歴史を知らない。国家の説明を鵜呑みにし、国家の「嘘」に簡単に騙されてしまう構図がある。江戸時代の松前藩によるアイヌ民族とのかかわり、蝦夷地に箱館奉行を置いた一時的直轄地化、その後の松前藩による蝦夷地収奪、ロシアの南下政策への対処、明治維新後の開拓使、北海道庁の諸政策について、人々はどの程度知っているだろうか。松前藩のアイヌへの収奪ぶりを描いたとされる松浦武四郎著『近世蝦夷人物誌』はご存知か。
筆者は、井沢元彦著『逆説の日本史17 江戸成熟編:アイヌ民族と幕府崩壊の謎』を読んだだけだから、偉そうなことはなにも言えない。ただ、近代化後の大日本帝国政府になってからも、めちゃくちゃな「同化政策」が継続されたこと、それを「アイヌ解放」であるかのように喧伝してきたことにくらいはうすうす感づいている。本当は、近代国家成立後の明治以降にあって、どのようにしてアイヌ民族との間で北方領土と呼ばれる土地が日本人のものに仕立て上げられたのかという詳細について知るところからはじめなければ北方領土の問題への解決の糸口は見えてこないはずなのだ。
国家の「嘘」②
第二の国家の「嘘」は北方領土問題に対する外務省の説明の不誠実にかかわっている。外務省は四島返還交渉をしているかのような説明をしながら、事実上、なにもしてこなかったのであり、いったんは放棄した国後、択捉についてのその後の扱いについても誠実な説明がなされてきたとは言い難い。その結果、二島返還さえおぼつかない有様となっている。つまり、歯舞と色丹の取り扱いと国後、択捉の取り扱いはまったく違うのであり、そうした基本をしっかり説明してこなかった外務官僚および政治家の責任は重大だ。外交交渉の秘密保持を理由に、「嘘」を重ねてきた人々を決して赦してはならない。
この「嘘」を助長してきたのが似非専門家であり、マスメディアの不誠実であった。国家の説明を真に受けて、それを批判するだけの能力も気概もなかったのである。その結果、領土問題への理解そのものが随分と国家に都合のいい、いい加減なものになってしまっている。
現実主義VS理想主義
筆者は鈴木宗男と名刺交換くらいはしたことがあるかもしれない。だが、一対一で話したことはない。彼の意向を受けて北方領土問題にかかわっていた東郷和彦からは直接、北方領土問題について話を聞いたことがある。彼の説明によれば、自分の選挙区との兼ね合いで、鈴木はできるだけ早く二島返還を実現し、多額の国家資金を投じて歯舞、色丹を開発し、それを機に、国後・択捉住民への日本帰属志向を高めようとしているというものであった。それが現実主義的だし、それ以外に日ロの平和友好協力はありえないというものであった。もちろんこうなれば、彼および彼の選挙区住民はその資金のおこぼれにあずかることができる。
筆者は現実主義に異を唱えるような理想主義者ではないから、鈴木・東郷ラインの考え方に反対するわけではない。ただ、国家の「嘘」を白日のもとにさらけ出し、国家の「嘘」を糾すところから出発しなければ、国民は騙されつづけるだろうという点で、彼らの現実主義についていくことはできない。
ロシア側の国家の「嘘」
ロシア連邦の国民も国家の「嘘」によって騙されている。国家が日本との領土問題は決着済みだと国民に教え込めば、もうそれで反論はきわめて難しい状況にある。そのとき、「南クリル」と呼ばれる島々に歯舞群島や色丹島が含まれているかどうかなど、些末な問題としてロシア国民の関心の埒外に置かれてしまう。
日本と同じように、ロシアにも似非専門家がごろごろいる。彼らは国家の御用聞きにすぎない。一方、ロシアのマスメディアは、「国家の犬」のような役割に甘んじている。ただし、ロシア人は国営メディアが国家の手先であることをよく知っている。日本の場合、NHKが「国家の犬」に近づきつつあることをようやく知るところとなったばかりだが、まだまだマスメディアが真っ当な報道をしていると信じている者が多い。
この相違点はともかく、こうした日ロ双方の国内事情を勘案すると、領土問題の真の解決などできるはずもないと言いたくなる。ただし、国家同士がそれぞれの国民を騙しつづけ、国家同士の都合でにらみ合っているのだから、それを逆手にとって国家のリーダー同士がうまく手を握れば、領土問題の決着も可能なのではないかとの見方もできる。
筆者はウラジミル・プーチンと安倍晋三であれば、その気になれば、二島の「引き渡し」くらい簡単にできると思っていた。国家の「嘘」が盤石である以上、首脳同士が腰を据えて話し合えば、解決への糸口は見出せると踏んでいたのである。だが、どうやら二人とも筆者が思うほどの人物ではなかったようだ。国家の「嘘」が暴かれることで、自身の権力基盤が揺らぐことを怖れたのか、結果は惨憺たるものでしかなかった。
国家への疑念
筆者は国家への疑念をいだいている。その発端は、拙稿『ロシア革命100年の教訓』(ただいま出版社募集中)において指摘したように、柄谷行人が指摘したつぎの的確な記述に出会ったことであった。
「「要するに、一八四八年以後の社会主義運動を総括するとき、われわれはその誤謬が資本制経済と国家への無理解にあったと結論することができる」というのがそれである(柄谷, 2001, p. 433)。」
そして、この「国家への無理解」はマルクスによる学術上の「捨象」と深くかかわっている。だからこそ、筆者は拙著『官僚の世界史:腐敗の構造』を書いたわけである。
この本を読んで感動したという「事務局京都フォーラム」関係者から依頼されて、筆者は2017年3月、大阪でちょっとした講義をやることになった。少しずつでもいいから、どうかこうした志をもった人が増えてほしい。そうすれば、北方領土問題をまったく別の角度から考えることも可能となるだろう。
なお、この講義では、もう一つのマルクスの決定的な欠陥についても議論する。ここでの講義に関心のある方は、最初に紹介したブログに、2017年初、アップロードする予定の「閑話休題:マルクスの二つの負の遺産をめぐって」をお読みいただきたい。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study807:161228〕
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