石ころを孵化するのと等しい(二)
- 2017年 1月 3日
- 交流の広場
- 金剛力士
出所 【 民主中国 】 時間 : 12/24/2016
中国を市場経済国として認めないのは米日欧の間違いか?(二)
著者:高智晟(弁護士)
市場経済の地位は、以下の厳しい条件を備えていなければならず、一つも欠けてはならない。その一、市場経済は自由経済でなければならない。それは、自由平等の市場参入を意味し、自由平等の市場競争と自由平等の経営環境の保障を意味している。その二、当然のことながら、自由経済は、経営主体が差別なく、偏見なく、自由で自主的にマスメディアを経営する権利を含む。即ち自由に各種の媒体を創建する経営の権利である。その三、独立、公正な司法制度は市場経済に欠くことのできない条件及び保障である。その四、政府は市場の具体的な経営者であってはならない。且つ経営或いは取引に関与乃至支配する条件制度は無い。国内の普遍的な経済ルールの制定、保護、保障ルールの良好、調和ある運営は政府と市場の関係と境界である。その五、独占経済を取り締まり、官権による独占経営はあってはならない。
中国共産党の恐怖統治下で残虐なことを勝手気ままにする中国では、上記の5つの条件に対する野蛮と反動については既に如何ほどに人々の心を痛ませていることか!無法の限りを尽くす権力は何時でも何処でも気の向くままに如何なる経営主体或いは具体的な取引を絞殺することができ責任を負わない。自由なマスメディアの経営は当局には恐怖犯罪以上の「公共の危険」である。官権の独占下にある業界は、中国では官のお面をつけた拳銃を所持した略奪である。のみならず、司法は即ちブラック権力の掌中の物で、当局が企業、財産を奪っても、被害者は告発できない。経営者或いは所有権者からの略奪は「公務執行」であり、被害者が告発するとそれは挑発してトラブルを起こす、社会秩序を乱していることとなり、このような白黒転倒、天に背き、道理にもとることは「政府の日常事業」となっている。
人々が数十年かけて労働して蓄積した財産、これらの集団経営企業の全体の構成員は処分権を享受できない。このような企業も生きるのでもなく死ぬのでもない、或いは生存が危ない場合は、反って安全である。最も危険なのは巨額の財産を蓄積した集団企業で、ここ30年来、難を逃れた企業は一社もないと聞く。
私は嘗て一定期間この種の案件の代理に関与し、全国で名が知られた。しかしあまりにも血生臭く、一回も司法手続きに入ることが出来なかった。何故ならば表に出る暴力団はすべて地方の腐敗役人や横暴な官吏の指図の下の公安検察司法の人間であり、「共同執行」と呼ばれている。その後私は意図して苦難の主の追跡から隠れた。何故ならばこれは公開の横暴で野蛮な略奪行為であり、私個人は邪悪に対しては決して妥協しないので、各地の犯罪政府は矛先の一部の私を叩くとして、一人も例外なく私の依頼人に対して野蛮な強制連行、不法拘禁を行った。強盗は財産を略奪してから、裁判官の顔で被害者を処罰する。このような残酷な現実は私の心に非常に大きな負担を課し、私にとって人としての天性正義の感情に災難性の抑制をもたらした。あのような罪悪の公開の傲慢さ及び白黒転倒の気焔には何時も悲憤を抑えることが出来ない。目の前の犯罪者たちのやりたい放題を見てもどうすることもできない。彼らは必要に基づいて、いつでも公安検察司法の顔で、時には直接政権の顔で虐待を行う。依頼人の末路は非常に悲惨で、2002年の1年間で、山東省で2件私の当事者は強制・u椈A行されたのち不法拘禁された悪例がある。
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