ヤコヴ・ラブキン教授のシオニズム批判 「政治イデオロギーの宗教的源泉:シオニズム揺籃の地、ユダヤ教とキリスト教」
- 2017年 1月 19日
- 評論・紹介・意見
- 松元保昭
- This article’s PDF(MEDITERRANEAN REVIEW | Vol. 5, No. 1 [June 2012])
《はじめに―訳者から》
1、本論考について
本論考は、シオニズムの思想と運動は数世紀前にさかのぼるキリスト教プロテスタントの考え方に触発されたものだと、ユダヤ教の側から論証したものです。シオニズムは、ユダヤ人はエルサレムを象徴するシオンの丘に「帰還」するべきだという19世紀後半に生まれた思想と運動で、かつては「シオン主義」と訳されていました。1948年のイスラエル「建国」でその思想と運動は「結実」したかにみえましたが、いまやこのシオニスト国家は、泥棒国家、侵略国家、テロ国家、戦争国家、人種差別(アパルトヘイト)国家、ジェノサイド国家、極右民族主義国家、植民地主義国家などと形容される国になってしまいました。たとえば世界サッカーリーグでも、隣国のすべてから対戦拒否(ボイコット)を受けてアジアリーグに留まることができなかったくらいです。
シオニズムは歴史を偽造するためにユダヤ教を利用し、その歴史の偽造を世界中に押し付けて自らの野望を正当化しました。神なきシオニストたちが野蛮な侵略と暴力を実践している一方で、ユダヤ教を隠れ蓑に利用してきた運動と歴史を著者は深い学殖の力で拒絶しています。
著者ヤコヴ・ラブキンさんの邦訳書はつぎの2点です。
■邦訳主著「Au nom de la Torah: Une histoire de l’opposition juive au sionisme」(2004)の日本語訳『トーラーの名において―シオニズムに対するユダヤ教の抵抗の歴史』(菅野賢治訳、2010年、平凡社。すでに12か国で翻訳刊行。現代ヘブライ語訳が2014年イスラエル国で刊行された。)
■普及版『イスラエルとは何か』(菅野賢治訳、平凡社新書、2012年):普及版といってもダイジェストではなく、日本人読者のために大幅に新規加筆されたものでイスラエル/パレスチナ問題の名著といえます。
この論考は、上記普及版に章立てされた第3章「シオニズムのキリスト教的起源」から第4章「シオニズムの企図」の一部をエッセンスとして独立に考究されたものです。とくにシオニズム生誕の思想的源泉および生誕の地域と時代を特定したその意義は大きいものがあります。プロテスタンティズムとシオニズムの聖書理解の逐語主義の共通性を指摘して、シオニストたちはユダヤ教の伝統に反して「神学的なプロジェクトを政治的なプロジェクトに転化した」と論証しています。あるいは、今日のイスラエルの「反ユダヤ主義」利用やシオニズムとナチズムの共犯関係の前史となる初期シオニストの「反セム主義とシオニズムとの親和関係」の暴露、また当のシオニスト自身がユダヤ・ナショナリズムの明白な非ユダヤ人起源を大部分が見落としたという点など、ユダヤ教の側からの根源的なシオニズム批判として貴重で重大な証言となっています。随所に著者の信仰的学問的洞察の深さが現れています。シオニズムの多義にわたる詳細は上記2書で縦横に論じられていますが、この独自に論究された本論考も併せて参考にしていただけると幸いです。
2、歴史の偽造と日本
本論考は、シオニズムというユダヤ・ナショナリズムの誕生の記録であり、シオニストによる歴史の偽造を解明したものでもあります。日本人との比較対照を考えてみたいと思います。
シオニズムによる「歴史の偽造」は日本にも逸早く移入されました。とくに、無教会派の内村鑑三は聖書の逐語主義的理解を基礎に、19世紀末から20世紀初頭に形成されたユダヤ・ナショナリズムのシオニズムをほとんど無批判に鵜呑みにし、ユダヤ教ないしユダヤ民族史の理解を日本に移植しました[臼杵陽:2004]。ヨーロッパ植民地主義の尖兵を自認したシオニズムの受容から、新渡戸稲造、矢内原忠雄のような植民政策学が根付いたのも偶然ではありません。彼ら影響力ある知識人のシオニズム受容は、その後の日本人の「ユダヤ人」「イスラエル」「パレスチナ」理解に決定的な影響を及ぼし、戦後のいまも漠然とながらも市民に引き継がれていることは見過ごすことができません。
たとえば、1948年のイスラエル「建国」と同時に無教会の一教派としてスタートしイスラエル支援の「特別」の関係を築いた「キリストの幕屋」。あるいは、「キリストの再臨はイスラエルの復興を通してのみ実現する」という教義をもつホーリネス系福音派教団「聖イエス会」。日本的キリスト教を標榜して靖国神社も参拝する前者は、すでに8000人もの巡礼者をエルサレムに送りパレスチナへのユダヤ人入植のために支援しています。後者は、神学院も備え全国104の教会に5000人もの信徒がいて1995年には広島県福山市にホロコースト記念館を設立しています。これら極右のキリスト教会だけでなく、「日米同盟」の長い蜜月のために、一般のプロテスタント諸教会でも「イスラエル(国)のために祈る」福音派の宣教師や牧師が増えている現実があります。
他方いまもって、パレスチナ問題の集会では、必ずと言ってもいいほどに「なぜホロコーストの虐殺に遭ったユダヤ人がパレスチナ人にあんなひどいことをするのか?」という質問が飛び出します。その問いには、ホロコーストへの同情論と抱き合わせにシオニズムがつくりあげた「2000年のユダヤ民族離散と苦難」という神話が伏在しています。石田友雄ら日本の「ユダヤ民族史」「ユダヤ教史」にかかわる出版状況をみれば一目瞭然です。神社本庁と歴史修正主義者たちを中心とする日本会議には、さきの「キリストの幕屋」も名を連ね右派知識人や政財界の人脈が重なって深刻な極右政治勢力にまでなっています。
エルサレムに「ヤド・ヴァシェム」というホロコースト記念館があります。ホロコーストの追悼を記念するものですが、「ユダヤ民族2000年の苦難の歴史」が陳列されています。もともとユダヤ教とは無縁の「民族や国家」を礼拝(らいはい)記念する国家施設である点で、日本の靖国神社を想い起こさせる施設です。こういう施設を前面に立てて、ホロコーストこそ歴史に変わらぬ「反ユダヤ主義」の象徴であると利用する一方で、イスラエル国の蛮行を批判するあらゆる言説を(BDSボイコット運動も)反イスラエル=反ユダヤ主義として逆攻撃しています。シオニズムを支えてきた「歴史の偽造」が、日本や欧米各国では歴史修正主義、反知性主義、排外主義として姿を変え、イスラエルでは強引な国策として生き延びているのです。
宗教を利用したこの「歴史の偽造」は、日本の近現代史にとっても無縁ではありません。たとえば、「万世一系」「神国日本」「国家神道」「神社は宗教にあらず」「日本固有の民族宗教」などという偽造された歴史[井上寛司:2011]が朝鮮・中国侵略と国民教化の手段にされただけでなく、戦後の象徴天皇制にいたるまで日本の民衆を翻弄しています。維新の「王政復古」にはじまる歴史の偽造は、偽国「満州」の五族共和から八紘一宇へとその嘘をひたすら拡大してきたのです。
歴史の偽造は自民族美化と手に手を取って増幅拡大していきます。中東唯一の「民主主義国家」と美化する一方で、政治家もメディアも国民も自ら被害者に貶めた隣人のジェノサイドを叫ぶイスラエル。侵略地への入植を非難する国連決議に、3000年前からの「約束の地」だと嘯くイスラエル。他方、「美しい日本」といいながら戦前回帰を目ざす日本会議など極右勢力の台頭は氷山の一角にすぎません。その見えざる底には、経済コスト(カネ儲け)一辺倒で際限なき「近代化」を盲信する国力信仰への民族的エネルギーが渦巻いています。市民の一挙手一投足がカネ勘定の動因に侵されている一方、家族、コミュニティ、セーフティネットが崩壊しつつあることには互いに目を塞ぐ。大量の米核ミサイルを列島に配備し北朝鮮を脅迫していることを棚に上げて、「核だミサイルだ制裁だ」と隣国を脅迫しつづける日本。札束と脅しで「和解」を強要する日本。世界一「安全・安心」と自画自賛する一方で、親殺し子殺し、ヘイト殺人、いじめ、自殺、過労死が横行し続ける日本。イスラエルも日本も人心は閉ざされ社会は荒んでいます。
2014年から2015年、維新以降の野蛮な国家形成を絶えず正当化したがる日本国がイスラエル国と、軍事同盟まがいの握手をして、国家主導の軍産学複合体形成に着手し、戦争をする国・戦争で儲ける国に向けてひた走っています。自分たちの野心だけを粉飾・聖化して、歴史的な現実、民衆の現実を無視するその際立った国家信仰(ナショナリズム)と根深い歴史偽造の民族的性向をもつ両国の連携は、民衆を殺害する先端武器供給だけでなく民衆を誤魔化す新たな言説供給の火種となる危険も併せ持っています。歴史的事実の歪曲と加害責任の否認を繰り返す日本人の歴史偽造は、アイヌへの姦策をみてもその根は深いものがあり、ネタニヤフならぬ日本の死神は、「あなたがたは過去と未来の両方共を手に入れるでしょう」と民衆に囁いています。Restoration(復興、維新)神話への回帰を共にする両国の変わらぬ民族主義的野望、とくに民族国家主義に回収され続ける日本人を考える参考になるとともに、「対テロ戦争」の今日的状況にまで、著者の分析力は達しています。
また第二次大戦直後の国連憲章や世界人権宣言にもかかわらず、テロリズムの容認、侵略と領土拡大の容認、国家転覆の容認、国際法蹂躙の容認、歴史偽造の容認、などなど戦後国際紛争の多くの障壁はイスラエル「建国」容認から始まったといえます。これら「国際社会の容認」は、冷戦枠組みからアメリカ一極支配へと米欧中心の国際政治の「道具」として都合よく利用され、いたるところに国際的二重基準のブロックを積み上げてきました。その歴史の中心軸には、植民地主義的暴力の隠蔽をともなうシオニスト・イスラエルによる歴史偽造の国際的容認が一貫して底流に流れているのです。
アイヌモシリ、琉球、朝鮮半島、中国大陸、東南アジア、さらにアメリカ・インディアンやブラック・アフリカの人々にとって、偽造された歴史がどんなに過酷な運命となったか、辛酸をなめた人々でなければわからないことです。1948年のパレスチナ難民から現在のシリア難民にいたる幾百千万人を地獄に突き落としている「対テロ戦争」こそ、イスラモフォビアを扇動し続け「文明の衝突」を演じさせる米欧イスラエルが造りだした新たな歴史の偽造です。テロリストを養成し武器と資金を供与してきたすべての国が責任を負うべきですが、同時にこの歴史の偽造を許してきた国連はじめすべての国と人々が共犯者であることも間違いないところです。近現代の世界に深く嵌め込まれたこの歴史の偽造と戦うためにも、ラブキンさんのこの論考は大きな示唆を与えてくれるものと思います。
また、本論考でもたびたび「モダニティー(近代なるもの)」との遭遇による民族主義の獲得について述べられていますが、日本の近現代史においても、戦中の「近代の超克」論議から戦後の「近代主義」との相克へと枢要な論題になってきました。現在も日本社会を覆う「近代」信仰というこの欧米中心主義の宿痾(板垣雄三氏の中東学会基調講演「学知の建て替えに向けて」(2014年)を参照されたい。)についても貴重なヒントが得られると思います。最後に、アイヌや琉球や世界の先住民族の人々が、シオニズムや日本主義といった欧米産ナショナリズムのように歴史を偽造してまで自民族中心主義の暴力的な「普遍性」を僭称することがなかったという事実から、私たちが何を学ぶべきか突きつけられていると思います。(2017年1月10日記、パレスチナ連帯・札幌:松元保昭)
3、著者について
ヤコヴ・ラブキン教授は、その主著訳『トーラーの名において―シオニズムに対するユダヤ教の抵抗の歴史』が刊行された2010年に3度目の来日をして、明大キャンパスで講演しNHKでも取り上げられるなどユダヤ教内部からの学問的で根本的なシオニズム批判として大きな話題となり、日本でのパレスチナ問題理解に大きな転機をもたらしたといえます。その2年後に普及版『イスラエルとは何か』が刊行されましたが、本論考はそれに先立って地中海レヴューに投稿されたものです。
ラブキン教授は、1973年以来、カナダのモントリオール大学でユダヤ史、ロシア史、および科学史を教えてきました。ロシア、ソヴィエト文化における科学研究、科学、文化、伝統との関連における非西欧の学術研究文化の研究、同様に現代ユダヤ人の歴史およびシオニズムと伝統との関連などが含まれる専門的な出版物のリストは200以上のタイトルに及びます。とくに、『スーパーパワー間の科学―科学・技術のソヴィエト・アメリカ関係の研究』(Priority Press, 1988)の著者であり、『現代における科学とユダヤ文化の相互作用』(The Edwin Mellen Press, 1995)の共同編集者であり、『ポスト共産ヨーロッパの最新テクノロジーの普及』(Kluwer, 1997)の編集者で科学技術にも明るいことがわかります。主著の『トーラーの名において』は、カナダ政府議会賞とイスラエルのシオニズム研究に対するヘクト賞にノミネートされ、日本の朝日新聞は2010年の年間ノンフィクション・ベスト・スリーに選定しました。すでに、20以上の研究賞、学識者、特別研究員などの称号を受けています。
また、BBC、NHK,ラジオ・カナダ、ラジオ・フランスなど主要TVやラジオ・ネットワークで、印刷メディアでもインターナショナル・ヘラルド・トリビューン、ボルティモア・サン、エル・ミレニオ、ニューズウィーク、ラ・プレス、そしてエルサレム・ポストなどで、中東および国際関係への論評にたびたび登場しています。
あるいは、カナダ議会の対外問題と国際通商にかんする常任委員会の専門的な助言者であり、世界銀行やNATOなど様々な国際組織にも助言してきました。英国、カナダ、イスラエルにおける訴訟では専門家としての参考人を務めてもきました。(以上は本論考に付された著者自身のプロフィールによる。)
以下、読者の便を図って不十分ながらいくつかの訳注を施してみましたが、ユダヤ教については訳者の能力を越えてもおり解説的註釈は控えました。原著者の原文( )は[ ]で、訳者の補いや挿入は( )で表記しました。
【主な訳語について:①本文の冒頭にも述べられているように、この論考で著者は、ユダヤ人Jewとユダヤ教Judaism、ユダヤ人のJewishとユダヤ教徒のJudaic とを明確に区別しているので、「Jew, Jewish,はすべてユダヤ人、ユダヤ人の」と訳した。②また、nationalist、nationalismは、民族主義、ナショナリズムを場によって使い分けたが、ethnic nationalismは、民族的ナショナリズムとした。③secular、sacralization、については訳注1を参照。】
Religious Roots of a Political Ideology:
Judaism and Christianity at the Cradle of Zionism
政治イデオロギーの宗教的源泉:シオニズム揺籃の地、ユダヤ教とキリスト教
Yakov M. Rabkin
ヤコヴ・M・ラブキン著(松元保昭訳)
2012年6月
地中海レヴュー
http://www.cerium.ca/IMG/pdf/04_yakov.pdf
概要
シオニズム・イデオロギーは明らかに非宗教的(訳注1)にもかかわらず、宗教思想に触発されたものだった。伝統的宗教はしばしば民族主義の大義名分を支えてきたものだが、ユダヤ教とシオニズムとの関係は極めて異なったものである。伝統的なユダヤ教を熟知した人々はシオニズムをただちに拒絶したし、この拒絶する否認派の姿勢は今日に至るまで消え去ることはなかった。これに対して、キリスト教徒とくにプロテスタントの神学者たちは、1897年の第一回シオニスト会議に先立つ数世紀も前から聖地へのユダヤ人の集結という着想を展開していた。これは、もともと社会主義に向かっていた世俗的な社会改造の企てが、なぜ福音派キリスト教シオニズムの焦点となって神聖化されたか、その理由を説明している。シオニズムおよびシオニスト国家にたいするこれら福音主義者の寄与については、現代中東におけるイスラエル国家とその立場、またこのような福音派諸団体が重大な影響力を及ぼしているそれらの国々の政策決定などを分析する際、重大な考慮が払われなければならない。
【訳注1、世俗的、世俗化(secular, sacralization):著者のシオニズム分析の枢要な概念なので少々の解説を試みる。著者によれば、もともとユダヤ人の起源はトーラーというシナイ山での神の契約を受け取った集団に始まる。したがって、ユダヤ教への帰依ないしその行動規範を実践するものがユダヤ人である。ところがフランス革命を境に、キリスト教・ヨーロッパに長く根付いた反ユダヤ主義からの「解放」と市民への「同化」を求めてユダヤ教徒も従来の共同体を脱け出してさまざまなアイデンティティを選択・獲得するようになった(cf.ハスカラー運動)。自由思想家、無神論者など多様であるが、多くは「国民」アイデンティティのなかに回収されていく。ところが、フランスやドイツと違って、東欧やロシア帝国のようにユダヤ教徒を集住させ「解放と同化」の可能性をほとんど許さないところに、まさに「世俗的ユダヤ人」(菅野賢治氏の訳では「非宗教的ユダヤ人」)が誕生した。自らは伝統的ユダヤ教の規範から脱け出し、他者からはもっぱら生物学的、文化的次元から存在が規定されるようになる。著者は言う。『折しも…続くポグロムと社会主義の時代は、非宗教のユダヤ人をそれまでとはまったく異なる自己定義へと導くこととなった。…もはやユダヤ教によって定義づけられるのではなく、アルメニア人、ウズベク人、ロシア人などと並んで一個の民族性を獲得し、身分証明書の記載事項としてその旨を掲げるようになった…。…こうしてロシアの非宗教的ユダヤ人は、ユダヤ教の実践に含まれた意志的かつ規範的な内容物とはまったく無縁の客観的アイデンティティーを獲得した。以後、この観点から、「ユダヤ人であること」がもはや個々人の身の振る舞いとは無関係に規定されるようになったのである。…人種的反ユダヤ主義がヨーロッパに出現したのが、まさに非宗教的ユダヤ人のアイデンティティーが考案された数年後のことであった…』(以上、『トーラーの名において』p74~76から引用。)
このように、もともと規範的な行動原理と価値体系をもつ伝統的宗教から離れ、脱け出し、非宗教化し、新たな「民族的アイデンティティ」の獲得を準備した事態を「世俗的、世俗化」と表現している。日本では「聖と俗」という対比で「世俗」が語られることが多いが、著者はフランス革命後の市民社会の拡大に伴うモダニゼーション(現代化、近代化)によって伝統的宗教を忌み嫌い「民族」という集合アイデンティティのもとで人間の力に依り頼む危険な傾向を「世俗化」と表現しシオニズムがユダヤ教離れから始まったことを強調している。こうした文脈で、「非宗教的ユダヤ人」が民族的アイデンティティを獲得しプロテスタンティズムの「ユダヤ人の聖地への帰還」というヴィジョンを「シオニズムによるユダヤ民族の解放」に転化したものと著者は主張していると思われる。以下、非宗教的、非宗教化、宗教離れ、神離れした世俗的な、神なき世俗化などと訳してみた。】
シオニズムは、社会を改造しようと試みる比較的最近のイデオロギーのひとつである。シオニストと彼らが創設したイスラエル国家は、ユダヤ人の歴史における革命を、すなわちヨーロッパ・ユダヤ人の解放と世俗化とともに始まった革命を象徴している。すべての革命と同様に、シオニズムはより早い段階の考え方に触発されていたもので、この小論はそうした着想にかんするユダヤ教とキリスト教の起源を検討するものである。
19世紀と20世紀におけるユダヤ人の生活の神離れした世俗化は、かつての規範的な生活原理をユダヤ人らしさというただ単に目に見える外面的な概念枠組みに転換してユダヤ人のアイデンティティに革命を起こした。伝統的なユダヤ人は、彼らが為すこと、あるいは為すべきことによって識別されたものであるが、新しいユダヤ人は彼らが在るところのものとなった。ほぼ2世紀のあいだ続いたアイデンティティのこの分裂は、今日、形容詞の「ユダヤ人のJewish」と「ユダヤ教のJudaic」とを区別することを余儀なくさせている。この論文で使われる「ユダヤ教の」という用語は、さきの分裂状態よりむしろ連続性を強調して、その霊的、典礼的な性格をもつ宗教つまりユダヤ教の規範的な意味に向けられている。
反対に、はるかに広範に用いられている「ユダヤ人の」という用語は、彼らの振る舞いや考え方を彼らのユダヤ教との結びつきを無視してユダヤ人に関係づけているものである。ユダヤ人が西欧でモダニティ(近代なるもの)に遭遇したときユダヤ教が言葉のキリスト教的な意味で宗教になった[Barnitzky 2011]と一部の学者は主張しているが、それ以前はユダヤ教の信仰と行ないがユダヤ人であることを正しく意味した基本であったことはなんら疑う余地がないものである。
シオニズムは、まさに「イスラエル」という言葉がその意味を転換したようにユダヤ人の生活を確かに激烈に改造した。ラビでありシオニスト活動家であり、最も著作の多いアメリカのユダヤ教解釈学者の一人である、ジェイコブ・ノイスナー:Jacob Neusnerによれば:
今日、一般的に「イスラエル」という言葉は、海の向こうの政治的国家、イスラエル国を指す。人々が「私はイスラエルに行く」と言えば、テル・アヴィブかエルサレムへの旅行を意味する。…しかし、聖書、およびユダヤ教、この宗教の聖典の諸文書における「イスラエル」という言葉は、聖なる信仰共同体を指している。神がアブラハムとサラを通して呼び起こした、神がシナイ山でトーラー[「教え」](訳注2)に与えた、…詩編および預言者たち、あらゆる時代のユダヤ教の賢者たち、ユダヤ教が教える祈祷などなど、すべては「聖なる信仰共同体」を意味する「イスラエル」という言葉が使われる。大部分のユダヤ教徒のあいだでは、「イスラエル」であることは、トーラーに示された神の似姿にちなんだイメージの模範的な生き方を意味している。今日、シナゴーグにおける礼拝では「イスラエル」が聖なる共同体として語られるが、ユダヤ人・コミュニティでの「イスラエル」は「イスラエル国家」を指すのが現状である[Neusner 2002: 3-4]。
【訳注2、トーラー:原義は「教え」でユダヤ教の成文集成の総体として律法とも訳される。創世記から申命記のモーセ五書およびその後の預言書を成文トーラーとし、ミシュナー、タルムード、ミドラシュを口伝トーラーとして、ユダヤ法(ハラハー)、祭儀、倫理規定、諸議論、聖書解釈などの法文化がユダヤ教の礎となっている。著者のシオニズム批判においては、口伝トーラーの意義が強調される。】
ノイスナーは続けて、「ユダヤ人よりも国家が重要なものとなってしまった」[p4]と結論を下し、また彼らが現にある信仰共同体から運命共同体の形成に向かって進んだように、前世紀を通じて多くのユダヤ人が経験したことはアイデンティティの転換であると強調する。
シオニズム内部の多くの潮流のあいだでは、4つの主要な目標を達成することが優勢となった。すなわち、1)トーラーを中心とした国家を越えたユダヤ人アイデンティティを、当時、中欧、東欧に共通に見られた民族的ナショナリズムに相応しい民族的アイデンティティに改造すること。2)聖書的ラビ的なヘブライ語を基礎に、新しい民族固有の言語を開発すること。3)ユダヤ人を彼らの生まれた国からパレスチナへ移住させること。4)必要なら力づくで、「新たなかつての地」に政治経済的な支配権を確立すること。他のナショナリストたちが「自らの主人」となるべく帝国権力から自国の支配権を単に奪取すればよかったものを、シオニストたちはこれらの目標すべてを同時に達成しようとしてはるかに大きな挑戦に直面した。
理論から実践へ
シオニズムは、モダニゼーション(近代化、現代化)を強要する点で不遜で大胆な試みであった。そのイデオロギー的党派の大部分は、彼らが後進とみなした地域にモダニティをもたらすことを目標とし、またヨーロッパ人移住者による救済(贖罪redemption)を切望した。イスラエル国家は、依然、中東におけるヨーロッパ風モダニゼーションへの挑戦という立場にある。シオニズムにかんするどんな議論にも行き渡っている複雑さを把握するためには、「トーラーとその掟のくびき」から全面的に解放されるまで神離れした世俗化という手段によって啓蒙とモダニゼーションを成し遂げる運動、ハスカラー(Haskalah)(注3)の理解が不可欠である。ハスカラーは、先の2世紀において大部分のユダヤ人に影響を及ぼした。19世紀以前にはユダヤ人と言えば、規範的な行動原理を指し示すことであった。すなわち、ユダヤ人とはその行いが当然のこととしてユダヤ人すべてにとっての共通分母であるユダヤ教の典礼や相当数の行動基準を体現していなければならない人間である。こうしたユダヤ人は、たとえトーラーを逸脱するとしても、その正当性を拒絶はしない。「あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう」[Exodus 19:6]と、戒律、召命、切望が遺されている。ラビ・ユダヤ教にかなった非逐語解釈の伝統にしたがって、この嘆願は典礼的、道徳的かつ精神的な自己修養に努めるべき義務と理解されている。神なき世俗化はこの義務の意味をほとんど無視して、ユダヤ人が周囲の社会の中に文化的に同化することを容易にさせた。
【訳注3、ハスカラー(Haskalah):菅野氏訳によれば原義は「人を知的にする行い」で、一般的には西欧文化への統合を目指すユダヤ啓蒙主義と訳される。創始者はモーゼス・メンデルスゾーン(1729~1786)。18世紀フランス革命を後押しした啓蒙思想の影響でゲットーに閉鎖された西欧のユダヤ教内部からも言語(イーデイッシュ語の廃棄)などヨーロッパ文化への啓蒙主義(ハスカラー)運動が起こりキリスト教・ヨーロッパの歴史に深く嵌め込まれた反ユダヤ主義の差別からの解放と法的平等を求めるユダヤ人の「同化」を促進した。その担い手をマスキール(Maskilim)という。しかしその改革運動は、著者が指摘するように伝統的ユダヤ教からの分離をも促進した。1881年のポグロムから運動は退潮する。】
わずか中欧の大部分が同化されたユダヤ人たちが、19世紀最後の10年のあいだユダヤ民族主義に関心をもつようになった。形式的な解放に続いて、彼らの一部は上流社会に入ることを切望したが、そのような連中からは排除され拒絶されていることを味わった。彼ら、また多くの場合彼らの両親は、もはやトーラーの戒律には従っておらず、ユダヤ教の規範的な性格についてはほとんど何も知らなかった。他方、同化に向けた彼らの試みは、期待した社会も心理的な恩恵も生み出すことができず、全面的な受容を達成することはできなかった。他方では、「シオニズムは、知識人と同化ユダヤ人の発明であった。…彼らはラビに背を向けて自らの実存的不安の特効薬を必死に捜し求めてモダニティを切望したのだった。」[Barnavi 2000: 218]
いかにたくましくとも、いまだ個々の欲求不満だけでは政治的な運動を成功裡に生み出すには十分ではなかった。集団としてのユダヤ人にとって社会的政治的状況が徹底的に不利なところでは、こうした運動は必要十分な勢力を結集したときにのみ可能であった。実践的シオニズムの真の可能性は、中欧ではなく東欧なかんずくロシア帝国領にあった。
帝政ロシアのツアー体制は、ロシア文化の中心から離れた何の魅力もないユダヤ人強制居住区パーレに大部分のユダヤ人を抱えていた。これが、世俗化がロシアのユダヤ人に広範な同化をもたらさなかった理由である。トーラーへの忠誠を諦める一方で、これらの神離れした世俗ユダヤ人は「プロトタイプの民族的性格と民族的な展望」を育くんで、とくに彼らのうちの多くがシオニズムのアイディアに感染したものだった[Leibowitz 1995: 132]。ロシアのユダヤ人は、「標準的な」民族の少なくとも二つの属性を備えていたからである。すなわち、共通の領土[ユダヤ人強制居住区パーレ]および共通の言語[イーディッシュ語]である。
ポーランド、リトアニア、フィンランドなど、いくつかの他の民族運動が勢いづく一方、20世紀前半を通してヨーロッパを悩ませた残酷な反セム主義(訳注4)への反動としてシオニズムが主導権を獲得した。これらの情況は、アイザイアー・バーリン:Isaiah Berlin による現代ナショナリズムの誕生の「捻じ曲げられた小枝」論[“bent twig” theory](訳注5)によく描かれている[Berlin 1972]。
【訳注4、反セム主義(antisemitism):著者は、ヨーロッパ社会に古くから根付いていた宗教的な「反ユダヤ主義 anti-Judaism, anti-Juwish」と、19世紀後半に現れ20世紀に猛威をふるい今日イスラエルに利用されている民族主義的、人種主義的「反セム主義 anti-Semitism, anti-Semitic」を区別している。】
【訳注5、バーリン「捻じ曲げられた小枝」論:18世紀後半、ルネサンスやフランス革命の辺境ドイツで育まれたヘルダーに祖型をもつナショナリズムが2度の世界大戦を経て戦後第三世界のナショナリズムとなり、1960年代後半からの中国やフランスにおける若者の反乱やベトナム反戦のような、押さえつけられ捻じ曲げられた民族の痛みの反動としてナショナリズムの動因が描かれている。邦訳『バーリン選集』第Ⅳ巻(岩波書店)所収。第Ⅰ巻所収の「ナショナリズム―過去における無視と現在の強さ―」(初出1978年)の方が、よりまとまっている。なお、バーリンのナショナリズム称揚の核心には、1948年のイスラエル建国の絶賛がある。】
たとえ、世紀の変わり目の移民のうちわずか1パーセントがやがてはパレスチナで成功したにせよ[大部分は北米を選んだが]、ロシア民族こそがシオニズムの政治的行動主義、すなわち実践的シオニズムの中核を成した。ロシアにおけるシオニズムは、ハスカラーの信奉者マスキール(Maskilim)の中からその衝動を汲みだし、イェシバで教育されたユダヤ人たちはほとんど正規の教育を受けずにヨーロッパ文化の多少の理解を修得したのだった。
シオニズムは、民族主義の気運を助長する神なき世俗化の波に乗った。東欧ユダヤ人に関して言えば、シオニストたちは「国民性の形成」に向かって神離れの世俗化から恩恵を受けていたヨーロッパの前任者の足跡を追った[Hastings 1997]。シオニズムのアイディアは、それを受け入れる当時の大部分のユダヤ人の拒否反応が説明しているように、ユダヤ人の伝統に属する至福千年(訳注6)を捨て去るまったく新しい何かであった。大部分の宗教的ユダヤ人のように、世界の多くの神離れした世俗ユダヤ人たちは、20世紀の変わり目ではまだシオニストではなかった。ロシア帝国内部でさえ、シオニズムの受容はけっして自然なことではなかった。それは、ユダヤ人の集合意識に深い方向転換を必要とした。シオニストたちはこの転換をもたらすために真実を広めているのだと信じて「大衆教育」に訴えなければならなかった。
【訳注6、ユダヤ人の伝統に属する至福千年(millennia of Jewish tradition);一般に至福千年(millennia)は、再臨したキリストが1000年間統治するというキリスト教の千年王国説で語られるが、ここで著者は、もともと旧約聖書の各預言書で指し示される終末予言に生きることこそ、救済(贖罪)の道であり至福千年でありユダヤ教の核心であると強調しているようだ。】
シオニストたちは、こうした神なき世俗的なアイデンティティに向けて民族主義を移植することにまさに首尾一貫していた。「ユダヤ人アイデンティティの修復された[すなわちシオニストの]定義は、ユダヤ教の世俗化の上ではなくキリスト教の世俗化の上に建て増しするものだと主張した。」すなわち、キリスト教およびキリスト教諸国の近年の歴史の上にということである[Piterberg 2008: 247]。ユダヤ人の民族アイデンティティは、「発明された」[Sand 2009]だけでなく、ヨーロッパ・キリスト教のプロトタイプに適合させるべく成型されたものであった。例えばポーランドではカトリックが民族感情の要であったが、ユダヤ民族主義の発明はヨーロッパの他の場所でみられるイニシアチブとは極めて異なっていた[Anderson 1991]。逆に、シオニズムは正統派のユダヤ教徒から改革派のユダヤ教徒までそろった宗教的な権威者たちからのほとんど満場一致の抵抗を乗り越えなければならなかったのである[Rabkin 2006]。
「アブラハムの子孫のイスラエルへの集結」
キリスト教シオニズムの歴史的なルーツにかんする学問的・論争的な文献は有り余るほどある[Tuchman 1956, Sharif 1983, and Sizer 2007]。「聖書的、神学的、あるいは政治的な場におけるパレスチナへのユダヤ人の『復興“Restoration”』に対するキリスト教会の支持は、ほぼ4世紀にわたって世俗的ユダヤ人のシオニズムに先行しており、19世紀後半における後者の出現への道はすでに開かれていたのである。」[Masalha 2007: 85]イスラエル国家が多くのプロテスタントのキリスト教徒たちに囲まれて享受してきた計り知れない心情的な支持を、この歴史は明らかにしている。
シオニズムとプロテスタンティズムとの共通点は、(聖書理解の)逐語主義に起源をもっている。すなわち、非比喩的、非伝統的な聖書解釈である。聖なる伝統の役割をあまり重視しない旧約聖書[聖書のみ]への回帰がプロテスタント宗教改革の基本信条であることを人は想起することになろう。イスラエルの歴史家、アニタ・シャピーラ:Anita Shapira によれば、「聖句に対するプロテスタンティズムのアプローチと聖書理解の逐語主義に対するユダヤ人[すなわちシオニスト]の受け止め方は相等しい。」[Shapira 2004: 33]
ヨーロッパの宗教改革の結果として、「新しきイスラエル」のようなキリスト教の万人救済の思想は、南北アメリカ大陸からオセアニアまでキリスト教植民者グループをときに競合させ幾つかは国家と結びつけ世界中の異教徒に聖書をもたらそうと熱中させていた。同じころ、プロテスタント・ヨーロッパにおけるユダヤ人は、たんに異邦人というより、むしろやがてはパレスチナに戻るべきパレスチナ人として知られるようになった。1585年、ユダヤ人のパレスチナへの復権を提案した最初期の書物がひとりの英国国教会の司祭によって出版された[Masalha 2007: 89]。そこでは、聖書の預言を実現する手段として、ユダヤ人国家の創設という中心的な役割が据えられていた。
キリスト教的な動機―キリストの再臨を早める手段としての聖地へのユダヤ人の結集―は、ユダヤ教の動機というよりシオニズムの企図の中により顕著にあると思われる。聖地への「ユダヤ民族」の独力による帰還は、ラビ・ユダヤ教とは相容れず本質的にはキリスト教神学に保存されているものである。はやくも17世紀には、「イスラエル国家の復興」、「イスラエル民族の復興」、あるいは「イスラエルの自らの地への帰還」などというプロテスタントの引証に見出すことができる[Vereté 1972: 17]。これらの引証は、歴史的現実を無視している。つまり事実は、イベリア半島のキリスト教レコンキスタの期間、15世紀後半にスペインから大部分のユダヤ人が追放され、彼らのうちのほんの一握りの人々がイスラエルの地に入植したものの、大部分はオスマン帝国の至るところに分散していった。そのときパレスチナは、まだオスマン帝国の一部であって、その国境の内側に寛大に、彼らユダヤ人を迎え入れていたのである。
千年王国論(訳注7)の信条は、17世紀に急速に広まり主流教派の側に迫害があったにもかかわらず人気を博した。一世紀のち、著名な科学者であり神学者であるジョセフ・プリーストリー:Joseph Priestley (1733-1804) は、パレスチナへのユダヤ人の移住を組織するため英国のラビたちに説得を試みた。ラビたちは、古代イスラエルの民へのエレミアの呼びかけ(訳注8)を引き合いに出して異議を唱えた[Sharif 1983: 39]。当のユダヤ人の側ではまったく関心がないにもかかわらず、約束の地へのアブラハムの子孫の復帰を信ずるプロテスタントの信念は大西洋の両側の英語圏地域にしっかりと根付くようになった。同じ頃、例えばロイド・ジョージ:Lloyd George (1863-1945)のようなイギリスやアメリカの中枢の著名な人物は、彼らが知った諸国の歴史学や地理学よりもパレスチナにかんする聖書物語や地誌の方がより優れていると受け入れて、聖書の歴史的な真実性を確信したのだった。
【訳注7、千年王国論(Millenarian, Millenarianism):ここでは、17世紀に再度プロテスタント世界に隆盛しはじめた前千年王国説を指している。神の王国は、キリスト再臨の後、最後の審判を経て到来するが、その間の過渡的段階において、まずメシアによるイスラエル民族の復興があり、次いで人の子(メシア)が天から現れて地上にキリストの千年王国が確立されるという。キリスト教終末論の一種でディスペンセーション主義の救済史観と補い合っている。この「イスラエル民族」が1948年からの「イスラエル国家」であるという倒錯が福音派キリスト教のシオニズムに根付いているわけだ。】
【訳注8、エレミアの呼びかけ:自分の住んでいる国の幸せのために働くようにとの呼びかけ。】
植民地主義的利害は、聖書的感受性をより強固なものにした。英国保護領下のユダヤ人国家という着想は、この着想がユダヤ人のどんな重要なグループをも引きつけるずっと以前に、ヨーロッパに広まり始めていた。1838年に、エルサレムの最初の英国領事館が開設された。2年後、影響力のあるシャフツベリー卿:Lord Shaftsbury (1801-1885) は、ヨーロッパのプロテスタントの君主たちに向かって、神学的なプロジェクトを政治的なプロジェクトに転化した覚え書きを公表した。パルマーストン卿:Lord Palmerston (1784-1865) はヴィクトリア女王に直接会って、ユダヤ人入植者の生存圏をつくり出すために現地の人々を追放すると同時に、ユダヤ人によって聖地を植民地化する計画を持ちかけた。またユダヤ人の復興は、文学的創造力をもかき立てた。ジョージ・エリオット:George Eliot (1819-1880) の『ダニエル・デロンダ』やローレンス・オリファント:Laurence Oliphant (1829-1888) の『ギレアドの地』のような小説は、大英帝国および合州国の読書愛好家の中にそのアイディアを大衆的に普及させた。
ユダヤ人はヨーロッパに属していない、むしろパレスチナに属するという反セム主義の信念は、英語圏の領域に限定されてはいなかった。すべてのユダヤ人を送り込むために聖地を征服すべしと提唱したヨハン・ゴットリープ・フィヒテ:Johann Gottlieb Fichte (1762-1814) と同時に、インマヌエル・カント:Immanuel Kant (1724-1804) は、ユダヤ人を「われわれの間に住むパレスチナ人」とみなした[Sharif 1983: 56-9]。エジプト遠征のあいだ、ナポレオン:Napoleon は、フランス軍の援護のもとでパレスチナに入植することをユダヤ人に求めた。
パレスチナへのユダヤ人集結に着手するのは、ユダヤ教の基本理念よりもキリスト教に精通していたテーオドル・ヘルツル:Theodor Herzlを大いに鼓舞したウィーンの英国領事館附設国教会司祭のウィリアム・ヘクラー:William Hechlerであった[Duvernoy 1996]。[ヘルツルのシオニズムはドレフュス裁判によって覚醒したというしばしば繰り返された主張は、ほとんど実体がないと思われる。][Kornberg 1980]むしろ脱ユダヤ教であったヘルツルのシオニズムの覚醒においては、明らかにヘクラーのキリスト教の影響が重要な役割を果たしていた。イスラエルで出版された一冊の本が、この役割を非常に詳しく分析している。元エルサレム副市長で終生シオニスト活動家であったアンドレ・チョウラキ:André Chouraquiが、その本の序文で想い起こしている。はじめヘルツルはウィーンのユダヤ人をカトリックに改宗させようとしたが少し後になってユダヤ人の集結を追求し始め、その使命を諦めないよう熱心に勧めたヘクラーにしっかりと導かれていた[Duvernoy 1996: 3-4]。
ユダヤ人の復興を求める請願は、しばしば反ユダヤ感情の表現を伴っていた。19世紀に反セム主義が大衆的運動として確立されたとき、その熱心な信奉者がシオニズムの企ての最も熱狂的な支持者の中に見い出された。結局ユダヤ人の復興という教義を広めたヘルツルは、反セム主義者を彼の運動の最良の「友であり同盟者」と見なしていたのである[Segev 2000: 47]。また彼の短い外交経歴を通じて、その大義名分のために[皇帝アレクサンダーⅢ世やニコライⅡ世の親密なアドヴァイザー、コンスタンティン・ポベドノスツェフ:Konstantin Pobedonostsev (1827-1907)のような]抜きん出た反セム主義者たちを彼は首尾一貫して引き寄せようとしていた。重要な意味をもつことは、バルフォア宣言の起草者バルフォア卿:Lord Balfour (1848-1930)が、シオニズムの企てに対する自国の支援を表明する数年前に、英国へのユダヤ人移民制限に影響力を行使していたことである。事実上、バルフォアのシオニズムに対する支援は、それを明白に反セム主義的と呼んでいた英国の著名なユダヤ人たちに激しく非難されていたのである[Montagu 1917]。
実際には、反セム主義とシオニズムは互いに排他的になるどころか、互いにより補強し合った。これは疑いなく天啓史観(訳注9)の信奉者たちの実例であり、19世紀後半に英国に根を降ろした福音派グループはまた、今日、アメリカ合州国に5000万人を超える支持者をもつと主張している最も活発なキリスト教シオニズム運動を形成している。英国国教会に不満を抱いていた聖職者ジョン・ネルソン・ダービー:John Nelson Darby (1800-1882) によって創設されたこの運動は、彼が救いがたいほど堕落したと見なすキリスト教世界は、再び鼓舞された神の啓示の最初の受取人であるイスラエルの民に取って代えられるであろうと宣言した。この神学は、イスラエルに起こると予定される血まみれの黙示録的な戦いは、悪に対する善の最終勝利に帰着すると力説する。このシナリオの肝心な部分は、数千のユダヤ人はイエスの前にひざまづき救われるだろう、だが一方、約束の地に集結した残りのユダヤ人は避けられない最後の審判が起こり間違いなく滅びるだろう。
【訳注9、天啓史観あるいはディスペンセーション主義(Dispensation, Dispensationalism):神によって人類の歴史が七つの時期に区分され最終的に人類は神の国へと救済されるとする救済史観。パレスチナの相続、神殿の復興、ダビデ王朝における異邦人世界の統治など、イスラエルに関する旧約聖書の預言が字義通り成就すると考える。この千年期前再臨説を不可欠の要素とする神の救いの計画は、イスラエル建国を旧約聖書のディスペンセーション(神の摂理)の成就と理解し、福音派ファンダメンタリスト(原理主義者)たちの信条となっている。日本のプロテスタント諸教会の一部にも広がっている。】
イスラエルに対するキリスト教徒の支持者たちは、その後のシオニズム運動によってイスラエル政府がつくり出した「地上の現実」よりも、むしろ過激なイスラームこそが中東における紛争の核心だと主張している。これは、イスラエルの政治的支援のためにキリスト教福音派グループをいよいよ当てにしている世界中のイスラエル・ロビーの中心的なメッセージとなった。[Gorenberg 2002; Sizer 2004]しかしながら、ユダヤ人を含む他の宗教諸教派の場合のように、キリスト教徒はイスラエルの行動に批判的な見方を持っているデズモンド・ツツ大主教:Desmond Tutuのような指導者たちと共に、イスラエル/パレスチナ問題については深く引き裂かれている。
宗教を利用するシオニスト
ラビ・ユダヤ教として知られる価値体系と行動原理の核心となる心構えは、たとえ今日、大部分のユダヤ人がその日常の慣習的な行為規範にもはや従わないとしても、ほぼ2回の千年期間でユダヤ人の生活を明確にしてきた。ラビ・ユダヤ教は主として口伝トーラーを基礎にしており、通常、第二世紀のキリスト教時代に編集されたミドラシュ(聖書註解書)、ミシュナー(口伝律法)、タルムード(律法と伝承の集大成)、およびレスポンサ(問答書)から成ると見なされてきた。敬虔なユダヤ人にとって口伝トーラーの正当性は、そのとき碑銘に彫られたトーラーとしてシナイ山で与えられた信仰を再現している。法の分野においては、聖書の箇所を非常に広く解釈しており、明らかに口伝トーラーが最優先されて受け止められている。例えば、サバト(安息日)に働くことの聖書的な禁制は39種の労働のタイプを意味しており、文体や韻律は似ているものの、本来それらはまったく違う文脈で語られていることなのである。口伝トーラーは、「目には目を」という勧告を違反者の眼を抜き取るというよりむしろ金銭的な補償の意味に変わることなく解釈してきた。聖書に対するこの反逐語主義的なアプローチは、現在ほぼ消滅したカライ派から、さらに今日勢いを得ているプロテスタント・シオニズムの諸教派からも、ラビ・ユダヤ教を峻別している。
ローマの軍勢によるエルサレム滅亡という口伝トーラーによる解釈は、暴力、抵抗運動、およびイスラエルの地に対する平素の規範的なユダヤ人の態度を、ユダヤ人の連続性という文脈の中でそれ以来ずっと明確にしてきた。伝統的ユダヤ教は、神とその民との契約の枠組みにおける彼ら自身の行動によるものとしてユダヤ人の運命を考える。とりわけ約束の地から追放されたユダヤ人に降りかかった艱難は、それゆえ彼らの罪の償いを意味した神の懲罰と見るべきなのである。救いをもたらすためには、もっぱら神の摂理に叛く軍事的、政治的行動に頼るより、むしろユダヤ人は悔い改めねばならないのだ。
2度の至福千年を経て育まれたラビ・ユダヤ教は、戦争を憎み、非ユダヤ人に紛争を煽ることを明確に禁じている[Rabkin 2006: 93-134]。過ぐる二千年期のユダヤ人の伝統は、神殿の破壊や引き続く追放をユダヤ人が犯した罪に対する神の懲罰と解釈してむしろ暴力否定主義者であった。したがって、一世紀のローマのエルサレム包囲と同時に起こった軍事行動の記述について口伝トーラーは簡潔である。だが、それは明らかに最も重要な訓戒を強調している。つまり、神殿はユダヤ人の罪のために、もともとユダヤ人自身の中に根拠なき憎悪があったために破壊されたのである [Babylonian Talmud, Tractate “Yoma”, p. 9b]。伝統はまた、武装闘争を支持する者たちを非難しており都市防衛から離れた人々を褒め讃えている。タルムードと一部の古典学の解釈者たちは、とりわけ厳しい条件を付けて武装闘争を支持した人々を叱責していた。ユダヤ教における破壊された神殿の中心的な位置を忘却しないことは、その告発が厳粛なものであり、また何世紀ものあいだ武力行使に対するいかなる誘惑に対しても警告として保持されてきたということである。同時に近年では、伝統の多様な解釈を許す曖昧さを十分に残してはいるが[Eisen 2011]。
ところが、「歴史の権能を神の権能に取って代えた」[Piterberg 2008: 96]人々を代表するシオニズムの創設者たちは、それ以来どんなに筋違いな解釈であっても彼らの見方で、過去二千年のユダヤ人の歴史は、パレスチナにおけるシオニスト入植地を導きかつ正当化した無力な少数民族の迫害の連続と変形されたものを伝統と見なしたのである。
ユダヤ教の典礼は聖地へユダヤ人を帰還させるため神に対する懇願で満ち溢れており、いまだに一部の人々は、聖地の紛争は宗教的な要請によって引き起こされたものだと主張するかもしれない。権威あるシオニズム思想史の著者、シュロモ・アヴィネリ:Shlomo Avineri は述べている:
ユダヤ人は、大部分のキリスト教徒がキリストの再臨を考えたより以上に、積極的なやり方で帰還のヴィジョンを語ってはいなかった。それは、信仰、統合作用、および集団アイデンティティのシンボルとして価値体系の力強い要素ではあったが、しかし歴史的実践の活動的な要素また歴史を通して現実を転換するものとしては、それはまったく静寂主義的(つまり無抵抗主義的)なものであった[Avineri 1981: 4]。
アヴィネリは、ユダヤ人の伝統である「イスラエルの地との密接な結びつき」にシオニズムを関連させることは、彼自身の言葉を使って「平凡な追従者ないし弁解」であろうと認めている。「歴史に回帰する」誇り、多くのシオニズム唱道者を熱狂させたこの誇りについてはさらに説明されるだろうが、ユダヤ人は敬虔な行いと祈りを通してこそ歴史に影響を与えると考えるユダヤ人の伝統とは相容れない点なのである。
その発生時には、シオニズムを宗教的な衣に着せようと試みてはいなかった。それを試みた人々は、ほとんどもっぱら無神論者であり不可知論者であった。ユダヤ教の人々にシオニズムが根を下ろすことを意図して常時協力していた二人のラビ、ツヴィ・ヒルシュ・カリッシャー:Zvi Hirsch Kalischer (1795-1874) とイェフダ・サロモン・ハイ・アルカライ:Yehuda Salomon Hai Alkalai (1798-1878) 、彼らはユダヤ人の伝統に頼るよりも、むしろ19世紀ヨーロッパ民族主義の性急な雰囲気に鼓舞されていた。彼らは、ユダヤ人の伝統の言説からユダヤ人を引き離す名誉と誇りについてしばしば言及した:
イタリアや他の国々の人々が彼らの父祖の地のためにその命を犠牲にするのはなぜなのか、片や我々は、力強さや勇気を失った男たちのように、何にもしないではないか?我々は他のすべての諸国民に対して劣っているのか、彼らの土地と民族への愛と比較したなら、我々は人生と運命を少しも考えないではないか?イタリア人やポーランド人、ハンガリー人の例を考えてみよ、彼らは民族独立の闘いで命と財産を捧げたではないか。片や我々は、我らが相続した最も光栄で最も神聖な土地をもつイスラエルの子孫でありながら、何もせず死んだようなものだ。我々自身を恥ずべきではないか?[Avineri 1998: 4]
じつに、1947年から1949年にかけての現実の戦闘行為[イスラエル・シオニストの語彙ではMilhemet ha-shihrur、あるいは解放戦争であり、パレスチナの語彙ではナクバ:Nakba、破局である]は、宗教的なスローガンを掲げての戦争ではなかったし、宗教上の目的を達成しようとするものでもなかった。シオニストたちにとっては、彼らが多数派を形成してその地を支配するという、それゆえ領土のための戦争であった。1948年のキリスト教徒・イスラム教徒のパレスチナ人の追放と強奪は、宗教的アイデンティティの指針に従ったかのように見えるかもしれないが、[イスラム教徒・キリスト教徒のパレスチナ人はターゲットとされた一方で、ユダヤ教徒のパレスチナ人は彼らの大部分が反シオニストであったにもかかわらず大目に見られた]これらの処置はユダヤ教のやり方で考えられたり区分けしたりしたのではなく、むしろシオニズム創設者たちの中にあったヨーロッパ風の民族ナショナリズムと一致していたのである。
この紛争に「民族的 ethnic」という用語を適用することに反対する人々は、「ユダヤ民族」という観念はシオニストによってまたシオニストのために発明されたものだと主張する[Sand 2009]。だが、サンドの主張を受け入れたとしても、人はイスラエル/パレスチナ紛争の起源をいまだに「宗教的」と定義することはないであろう。パレスチナに対するシオニストの要求を確かなものとするためにユダヤ教が間違いなく利用されてきたにもかかわらず。
同時に、ユダヤ教はいざという時のアイデンティティの指針としてその役割を果たし、また若干の著名なシオニストたちは自らのイデオロギーとその実践的な達成に失望した時の避難所としても仕えてきた。ヘルツルの盟友であり「シオニズム」という用語の発明者ナータン・ビルンバウム:Nathan Birnbaum 、および一世紀後のイスラエル議会の前議長アヴラム・ブルグ:Avrum Burg 、ともに以前、世界シオニスト機構の議長を務めたのだが、彼らは公然とシオニズムを拒絶しながら同時に個人的アイデンティティの基盤としてはユダヤ人の価値を擁護している[Burg 2007; Fishman 1987]。
二人の共通の経歴は、シオニズムのかなり発端からその効果を現してきた。世俗的なものの世俗化と神聖なものの世俗化、すなわち「世俗的なアイディアに宗教的意味を付与すること、それゆえそれら世俗的なものを神聖なものと扱うこと」になり、また「世俗的なアイディアを適応させる」ために、宗教用語を再定義することになる[Tepe 2008: 55]。
これらのプロセスは、20世紀初頭に東欧で地歩を固めた(宗教的シオニズムの)ミズラヒ運動から立ち上がった国家的ユダヤ教[ダーティ・レウミ(宗教=民族派)](訳注10)に肉体化されている。それは当初、大部分のユダヤ人とりわけラビ・ユダヤ教に結びついている人々に拒絶された[Rabkin 2006: 66]。ユダヤ教解釈の外側にある初期の潮流は、シオニズムと武装闘争のアイデアを喜んで受け入れた。この教義は、そのインスピレーションをシオニストの歴史家たちでさえ「過激で革命的」だと見ていたラビ・クーク:Rabbi Kookの神秘思想から汲み取っている[Avineri 1981: 188]。この運動の発展は、イスラエルが植民地主義的な帝国国家の役割を公然と身に着けた1967年の戦争以来、深刻な影響を及ぼすようになった[Penslar 2007: 111]。
【訳注10、国家的ユダヤ教[ダーティ・レウミ(宗教=民族派)](National Judaism (dati leumi):ラビ・クークにおける贖いの夢をそのまま引き継ごうとする国家メシア主義。ユダヤ教の歴史を「ユダヤ民族」の歴史と解釈し「イスラエルの地」の領有・再興を世界観の中心に位置づけ「ユダヤ人国家」建設に邁進するシオニズムの企てに共鳴するユダヤ教の一派。伝統的な正統派ユダヤ教のあらゆる潮流から「メシア主義であり」「ユダヤ教とは相容れない」と根本的な拒絶にさらされている。】
帝政ロシアに生まれたラビ、アブラハム・イサーク・クーク:Rabbi Abraham Isaac Kook (1865–1935) は、英国によってパレスチナのアシュケナージ・コミュニティの主席ラビに任命された。シオニズム先駆者たちの理想主義と自己犠牲に魅せられたラビ・クークは、「崇高な理想に刻まれた人々の上に立つ理想的な国家」、「この世界で神の玉座の台座」となる国家を待ち望んだ。彼にとって、その国家はメシア的な「イスラエル王国」の地上の体現であり、天上と地上を結ぶヤコブの梯子であろう[Ravitzky 1996: 131-37]。ラビたちの[言うまでもないが、世俗的なイスラエルの人々も]広範な大多数は、シオニストをエルサレムにメシアを連れてくる「白いロバ」と表現するラビ・クークの運動を拒絶した。ロシアのロマン主義的な民族主義に鼓舞された彼は、土地への愛着が果敢な先駆者たちに神秘的な作用を与え、新たな世俗的ヘブライ人を伝統に立ち返らせるだろうと期待した。神離れした世俗主義の高まりは「一時の病」であり、イスラエルの地への帰還がすぐにもそれを癒すだろうと、彼は信じた。この信念が、シオニストとの協力の根本理由を捜し求めたラビたちにとって本質的なものとなった。一世紀後、こうした期待がいまだ実現していない一方で、国家的ユダヤ教の一部の信奉者たちは、「現代世界の力の政治の主観的な現実は、結局、客観的なハラハー:halakhic(ユダヤ法)の事実として姿を現すようになるだろう」と信じ続けているのである[Berkowitz 1994: 40]。
ほとんどあらゆる傾向のシオニストたちは、ユダヤ人は2000年も続いた追放の経験を克服することによって聖書の追放以前の歴史に回帰するため、強く逞しくなっていなければならなかったという点では、意見が一致している。彼らの約束の地への帰還が「すべての諸民族のように」正常な状態に連れ戻すだろうという発想は、明らかに聖書が承認しなかったものである[1 Samuel 8: 20]。帰還に対するシオニストのこの力説は、ユダヤ人の伝統と矛盾しているだけでなく、「プロテスタンティズムと反セム主義との交差点に位置しうるし、すべきである。」[Piterberg 2008: 257]これはユダヤ人についての固定したキリスト教徒の考え方を反映しているものであって、それによると、ユダヤ人はイエスをメシア(救い主)と認めるまでまたは認めないなら歴史から除外されると考えられる。ユダヤ人は彼らの存在理由を失っている、彼らはせいぜい生き残ることが出来ても繁栄はしまい、彼らの最終的な運命は地上から姿を消すか、あるいはキリスト教に帰依するかなのである。
聖地におけるユダヤ人の復興がキリスト再臨の前兆であるという信仰に基づいて、シオニスト指導者たちにキリスト教徒の支持を動員することを思い止まらせることはなかった[Vereté 1972; Sharif 1976]。シオニズムの企図におけるキリスト教の動機に対するこの依存は、1917年のバルフォア宣言の発布で比類なき効果が証明された。その起草者は、イギリスへのユダヤ人移民を制限させただけでなく、これらの終末予言もまた共有することになったのである。
キリスト教徒の価値観へのこの依存は、利己的なごまかしと見るべきではない。むしろ、完全な意見の一致と考えるべきである。その聖書に対するアプローチにおいて、ベングリオン:Ben-Gurion (1886-1973) がこの密接な関係の実例を示している。ラビの伝統を蔑んだ彼は、シオニスト入植地の経験を通してダイレクトに成文トーラーを解釈する権利を要求した。[Ben-Gurion 1972: 85-87]。彼およびイスラエルの政治家たちは、国際的な支援、通常キリスト教徒の支持を得るために、ときどき聖書を象徴的に利用している[Masalha 2007]。公然たる不可知論者ベングリオンは、聖地に対するシオニストの要求を正当化するために、英国委任調査団の先頭に立ってモーセ五書のコピーを指し示した。救済(贖い)を表す用語がシオニズム・イデオロギーの大部分の見解の中に遍在しており、またユダヤ教の思想や[ヨシュア記のような]テクストがナショナリストの目標に合致するよう利用されてきた。シオニズムの創設者たちは、ユダヤ教の実践、連続性、および伝統を公然と蔑む一方で、ユダヤ教をこうした政治的利用に結合させたのである。
ベングリオンの労働シオニズムは、とりわけ首尾一貫して救済のイメージを利用してきた。例えば、ユダヤ人によるアラブの土地の買収を表明するために、ゲウラット・ハ=アーレツ:geulat haaretz[土地の贖い]という言い回しを利用する。宗教的な価値体系に属する贖いという語を神なき世俗的な概念に実体変化させるこの転用は、自らの手で歴史を創り出すユダヤ民族の前衛と自認するシオニズムの先駆者たちを鼓舞させた。さらにまた、東欧ユダヤ人の典礼で親しまれたユダヤ教用語の利用は、シオニズム・イデオロギーの宣伝を容易にした。そこでは、急進的でありながら広範囲にわたる不安と抵抗を和らげるために一部の伝統的諸形式を存続させたのである。
イスラエルの政治学者ゼーブ・シュテルンヘル Zeev Sternhell は、もっぱら外向きのシンボルだけ維持してきたこの「神なき宗教」を、ユダヤ教のシオニスト利用と呼んでいる[Sternhell 1998: 56]。プロテスタントの信条の政治的適用は合州国憲法の中にも見られるが、その創設者たちはほとんどの場合キリスト教の習慣を守っていた。しかしながら、イスラエルの歴史家アンモン・ラス=クラコトキン:Amnon Raz-Krakotzkin によれば、シオニストたちは「神は存在しない。だが神は我々にこの土地を約束したのだ」と言い張る無神論者であった。
無神論の指導者によるその他の点での霊的な用語の政治的な利用の慣例は、当代の現象である。この種の利用は、1937年法王ピウス6世が警告した回勅「きな臭い不安とともに」によって非難されていた。「あなたがた聖人となった兄弟たちよ、注意深く見る必要がある。宗教の根本的な概念は、それらの意味内容を空にしてはならないし、神を冒涜する利用のためにねじ曲げてはならない」[Vatican 1937]。1967年に征服した領土の不明瞭な占領を正当化するためになされたユダヤ教概念の積極的な政治的動員は、イスラエルの中で宗教的[Leibowitz 1995]かつ世俗的[Rubinstein 1984]双方の知識人たちから―彼らは他方で政治的社会的な立場ではシオニズムの企図を好意的に見ているのだが―激しい非難を呼び起こした。ところが驚くことに、シオニストの世界観はユダヤ教から疑わしく逸脱していると力説するシオニズムを非難するユダヤ人たちは、このユダヤ・ナショナリズムの明白な非ユダヤ人起源を大部分が見落としたのである。ともかく、こうしたことがキリスト教に疑念をもつユダヤ人の中に大きな論争を巻き起こした。
シオニズムを非難するユダヤ人たち
大部分の人々は、ユダヤ教とシオニズムをほぼ自動的に結びつけて連想する。報道機関はきまってイスラエル国家を「ユダヤ国家」と呼ぶし、イスラエルの政治家は、しばしば「ユダヤ民族の名において」と演説する。一部の人々はイスラエル国家に属して生まれ変わったと言うかもしれないが、出生の拠り所をユダヤ教の宗教と考えること以上にノーマルなものはないだろう?しばしば異邦人やアウトサイダーと見なされ、あるいは長い休暇をとっておそらく遠くの「故郷」に帰るイスラエル市民でさえもディアスポラのユダヤ人ではないのか?他の国外離散者が彼らの以前の国々に関わる仕方とイスラエルに対するユダヤ人シオニストの態度との比較は、重要な違いを見落としている。先祖が[あるいは彼ら自身が]イタリア出身だとすぐ分かる北米のイタリア人と違って、大部分の米国やカナダのユダヤ人はヨーロッパ出身であってイスラエル/パレスチナではない。イタリア語を話すあるいは話していたイタリア人と違って、これらのユダヤ人および彼らの祖先はヘブライ語が何世紀も話されていなかったという単純な理由から、ヘブライ語ではなくイーディッシュ語を話していた。これらのユダヤ人移民たちの食習慣は東欧で育まれたもので、今日イスラエル料理の典型といわれるファラフェルのような中東の食べ物などまったく食べていなかった。現実の多くのユダヤ人の自己理解はともかく、今日のイスラエルの取敢えずのディアスポラは、「想像の共同体[アンダーソン]」のとりわけ興味深いケースとなっている。無論、ほぼ100万人にもなるイスラエル人の国籍離脱者の彼らの母国に関わるその仕方は、イタリア人および世界中の他の国外離散者の態度とよく似ているのだ。
一世紀以上も前に彼らの政治運動が創始されて以来ずっと、シオニストたちはすべてのユダヤの民の尖兵であると主張してきた。彼らの一部の者は、イスラエル国家生存へのいかなる脅威も、世界中のユダヤ人の生存の脅威だと決めつけてさえいる。彼らにとってイスラエルは、ユダヤ人生き残りの保証人となっているばかりか、ユダヤ教の旗手にさえなっている。こうしてみると、現実ははるかに錯綜している。
その始まりからユダヤ人の歴史における不和断絶の先端と広く理解されてきたシオニズムは、大部分のユダヤ人の側で拒絶を引き起こした。彼らの中のシオニズム批判者は、同時代のユダヤ人が経験した全範囲を代表している。シオニズム運動およびイスラエル国家の創設は、ユダヤ人の連続性における最も大がかりな分裂の原因となった。ユダヤ教の伝統を擁護し解釈してきた彼らユダヤ教徒の圧倒的大多数は、新たな社会へのヴィジョン、ユダヤ人の存在にかんする新たな思想、聖地への大量の移民計画、そして現地の政治ヘゲモニー確立のための武力行使、となることに反対してきた。今日、ユダヤ人の中ではシオニズムへの公然たる拒絶が、明らかに衰えたとはいえ、より若いグループがイスラエルのユダヤ人サポーターの立場を放棄し続けている[Goldstein 2011]。
シオニズムに対する活発な宗教的反対者の数は、比較的少数にとどまっている。たぶん数十万人もいないだろう[Ravitzky 1996: 60]。だが、ラヴィツキィや他のイスラエルの専門家たちが主張によると、その影響力は彼らの総数を凌ぐ勢いで敬虔な人々の中に広がっている。ユダヤ教の反シオニズムの基本テキスト、Va-Yoel Moshe(『かくてモーセ好めり』)の著者、ラビ、ヨエル・タイテルボイムの葬儀礼拝のときは[Teitelbaum 1985]、幾人もの著名なラビたち、さらに彼の生涯を通して彼に反対した人々でさえ、故人のたどった道は無比の真実の道であった、また彼に従うことが出来なかったことはただ自らの弱さであった、と表明したものだ。
これはシオニズムに対する宗教者の側からの反対を弱め周縁に追いやろうとするシオニスト指導者たちの決意を説明している。この点で重要なことは、シオニストの軍事組織ハガナによるヤコブ・イスラエル・デ・ハーンの政治暗殺である。彼は、反シオニスト組織アグダート・イスラエル(正統派ユダヤ教徒の政党「イスラエル連合」)のスポークスマンであった。シオニストたちは、アラブ指導者たちとの提携を育成する反シオニストのラビの指導者たちで編成する対抗組織をデ・ハーンが設立すると考え、恐れていた。人口統計上の条件では、当時はまだ彼らはパレスチナの少数派であったので、こうした可能性がシオニストの中に恐れを抱かせたのである[Danziger 1983: 443-4]。(訳注11)
【訳注11、デ・ハーンの暗殺:シオニスト暗殺団によって1924年に実行されたヤコヴ・デ・ハーンの暗殺は、著者の別の論考で告発されている。The General Vanishes Yakov M. Rabkin
http://blizky-vychod.blogspot.com.es/2011/01/general-vanishes-by-yakov-m-rabkin.html、 拙訳「消えた司令官」 http://chikyuza.net/archives/39804】
歴史的には、シオニズムと伝統的ユダヤ教との対抗関係は、ユダヤ教信仰の展開を特徴づけたそれぞれ異なる潮流の相互影響の文脈で考える必要がある。シオニズムの目覚ましい達成とそれを具現した国家にもかかわらず、この種の宗教的抵抗は消え去ろうとはしない。この持続性の理由のひとつは、シオニストの知識人とラビ双方が、シオニズムはユダヤ人の遺産と伝統の否定であるとしばしば一致して彼らに反対していることである[Rabkin 2006]。シオニズムの歴史にかんするイスラエルの権威、ヨセフ・サルモン:Yosef Salmon が新しい政治運動の出現に対する反応について書いている:
ディアスポラとエレツ・イスラエル[イスラエルの地](訳注12)の双方において、まさにその伝統的コミュニティからメシア的待望の対象である相続権を取り上げようとする由々しい脅威を企てた最も重大な危機を提供したのは、シオニズムの脅迫であった。シオニズムは、伝統的ユダヤ教のあらゆる局面に挑戦した。すなわち、現代風の民族的ユダヤ人のアイデンティティのその提案において、新しいライフスタイルに対する伝統的社会の従属において、またディアスポラおよび贖い(救い)の宗教上の基本的な行動原理に対するその態度において、それは挑戦であった。シオニズムの脅迫は、あらゆるユダヤ人コミュニティに影響を及ぼした。それは容赦なく包括的であった。それゆえ、断固とした反抗に出くわしたのである[Salmon 1998: 25]。
【訳注12、ディアスポラとエレツ・イスラエル[イスラエルの地](the Diaspora and in Eretz Israel [the Land of Israel]):ディアスポラは「離散の民」と訳され、バビロン捕囚と2度の神殿破壊のあとに「追放」され離散したユダヤ人の象徴的な言語として日本でも使われてきた。しかしこれは、今日では、「2000年の離散の歴史、ユダヤ人排斥の歴史から脱却してシオンの地エレツ・イスラエルに帰還することによってユダヤ人は解放される」という19世紀のシオニストたちがつくりあげた神話に由来すると検証されている。ユダヤ教徒にとって、原義は「ガルート=流謫」であって離散状態を示すより、むしろエグザイルexile(追放)のもとにあって信仰的、終末論的に流謫を生きることである。エレツ・イスラエルも「イスラエルの地」ではあるが「信仰共同体」の象徴であって、けっして地理的、国家的「イスラエル」を指すものではないと著者は再三注意を促している。】
シオニズムとイスラエル国家に対する強烈な反抗は、いくつかの正統派ユダヤ教運動の特徴であった。彼らはシオニズムを、異端であり、根本的なメシア信仰の拒絶であり、人間の努力で聖地を獲得してはならないという神に対してなされた約束を冒すものであると見なす。彼らの敵意の根底にはエグザイル:exile(追放のもとで流謫を生きる)という中心的な役割が横たわっており、万人救済の宗教原理は地理的位置など問題にならない。第一回シオニスト会議から2,3年のうちに、反シオニスト勢力の同盟は東欧のラビの権威者たちの幅広い範囲から選りすぐったいくつかのアンソロジーを生み出した[Landau 1900; Steinberg 1902]。なかでも、ユダヤ人アイデンティティから規範となるあらゆる意味内容を明け渡すことに、また神離れした世俗的なヨーロッパ人アイデンティティの複製となることへの転化に、彼らは異議を唱えていたのだ。
ドイツにいる正統派ユダヤ人は、東欧にいる兄弟たち―彼らは東方ユダヤ人と呼ばれしばしば見下すように扱われていたものだが―に劣らず、シオニズムの拒絶には堅い決心をしていた。実に、ドイツのユダヤ人は自国で開催されるという第一回シオニスト会議を許可しないよう彼らの政府に圧力をかけた。したがって、結局それはスイスのバーゼルに移動させられたのである。ユダヤ人ナショナリズムへの拒絶は、ユダヤ教の権威者たちからそのインスピレーションを引き出した。ドイツのラビ、アイザック・ブロイアー:Isaac Breuer (1883-1946) は、第一次世界大戦のすぐ後に、声高に非難した。「シオニズムは、かつてユダヤの民を襲った最も恐るべき敵である。反民族主義の改革派は[そのユダヤ民族に]ともかく戦いの火ぶたを切ったが、シオニズムはその民を殺し、ついでその死体を玉座に高く掲げるのである。」[Zur 1998: 111]
また改革派のユダヤ人は、自らトーラーの解釈を引き出しユダヤ教からの批判を系統的に明確にした。事実上20世紀初頭におけるユダヤ教のすべての潮流のように、改革派の運動は新たな民族的アイデンティティをつくり出そうと奮闘したシオニズムに対しては、断固たる態度で反対した。ヨーロッパに政治的シオニズムが登場するに先立ち、1885年にペンシルヴァニア州ピッツバーグで採択した改革派ユダヤ教の綱領は、ユダヤ民族主義のあらゆる形態を拒絶した[Mezvinsky 1989: 315]。改革派のユダヤ人は、ユダヤ人国家を正当化するため反セム主義の無条件の存在を前提とするヘルツルのシオニズム理論に反論するために、こうして準備していたのである。シオニズムの初期の批判者、改革派ユダヤ系の学者モーリス・ジャストロウ:Morris Jastrow (1861-1921) は、政治的シオニズムはユダヤ教の部族段階に戻る時代錯誤に鼓舞されたと強調して、「ユダヤ教とシオニズムは互いに相容れない」と断言した。[Jastrow 1919: 33] 「改革派ユダヤ教は精神的であり、シオニズムは政治的である。改革派ユダヤ教の展望は全世界にあり、シオニズムの展望は西アジアの辺境である」と、ラビ、ディヴィッド・フィリップソン:David Philipson は1942年に明言した[Brownfeld 1997: 9]。
圧倒的大多数のユダヤ人は最初からシオニズムを拒絶していたというだけでなく、運動の創設者もまた彼自身のユダヤ人性に完全に不安定感を抱いていた。「ヘルツルの『転向“conversion”』の発端と見做されている瞬間は、彼が最も強くユダヤ人である事実に目を塞ぎたかった瞬間でもある。」[Piterberg 2008: 2]かなりのシオニスト指導者たちがもつこの不安定感は、また「アシュケナージ・ユダヤ人はセム族よりもインド・ゲルマン族に近かった」と考えるパレスチナにおけるシオニスト入植地の父、アルトゥール・ルーピン:Arthur Ruppin の信念の中にも見られていた[Piterberg 2008: 84]。ベングリオンは、ユダヤ教を「ユダヤ民族の歴史的な不幸」と考えていた[Leibowitz 1995: 144]。とりわけ「ウルトラ・オーソドクス(超正統派)」と呼ばれるイスラエル社会における(伝統的なユダヤ教を実践する人々)ハレディームの宗教的なユダヤ人に対する憎悪反感は、世界の他の所では思いもよらないレベルに達しており、それは、自らがユダヤ国と呼ぶ唯一の国家の只中に反セム主義の偏見が生きて健在だということの証左でもある[Efron 1991: 15-22; 88-90]。
1948年、パレスチナで領土のための戦闘が実際に行われていたとき、1930年代末にパレスチナに入植したドイツの著名なユダヤ人学者マルティン・ブーバー:Martin Buber (1878-1965) は、彼の眼前でシオニズムが実行したそのやり方にみじめにも失望させられた。その場で彼は書き留めた。「この種のシオニズムは、シオンの名の下に神を冒涜している。それはナショナリズムの粗野な形態以外の何ものでもない」と[Buber 1948]。 ユダヤ人の知識人は、イスラエルの政策および実践に対する、またそのイデオロギーの基礎であるシオニズムに対する態度では依然として引き裂かれたままである。
ユダヤ的伝統が個人的・集団的な思い上がり(傲慢?)に対して繰り返し警告している一方で、彼らシオニストたちが成功への古典的な西洋規範の用語で定義されたある種の名声を追求したことは、その性格においてまったくその通りのことであった。ラビ・ユダヤ教をきれいさっぱり捨て去る英雄的な理想主義は、1920年代から30年代に、当時広く賞賛されていたファシズムの特徴を表すこれらの新しいユダヤ人サークルの中に根を張った。これが、インターナショナリズムへの裏切りとして、ファシズムの潮流を助長し民族的ナショナリズムをカムフラージュする粗野な企てとして、社会主義者や共産主義者がシオニズムを公然と非難した理由である。イスラエル国家の社会主義的な創設者たちは、社会組織の社会主義的形態を彼らの民族主義の目標に達する一時的な便宜として利用するため、批判にさらされた[Sternhell 1998]。これが、しばしばヨーロッパにおける近年の反セム主義的過去を伴ってイスラエルが民族的ナショナリズムを広く行使している牽引力を説明することになるだろう。かの古い社会主義的諸形態が広範に見捨てられてしまった今日、この(伝統と他者を破壊し続けることへの)賛嘆の情は反イスラームおよび反移民グループの広い範囲に影響を与えて育くまれ維持されている。シオニズムを19世紀ナショナリズムと植民地主義の名残りにすぎないと見ると検証を誤ることになろう。すなわちイスラエルは、民族的ナショナリズムを信奉する多くのヨーロッパの政治屋のために流行仕掛け人として立ち現れ、差し迫る「文明の衝突」を証明して見せているのである。
多くのユダヤ人にとって、また大部分のユダヤ人組織にとって、イスラエルへの忠誠がユダヤ教への忠誠に取って代わった。ひとりのユダヤ人組織の古参、彼は機関の過去からも、また「ユダヤ人コミュニティのマッカーシズム」からも批判的に距離をおいていた彼が、多くのユダヤ人組織に向かって「もしあなたがイスラエル政府を支持しないなら、あなたの政治的判断ではなく、その時あなたがユダヤ人であることに問題を招くだろう」と述べた。[Hedges 2002]
彼、イスラエルの古参政治家アバ・エバン:Abba Eban (1915-2002) は、イスラエルのプロパガンダ[彼はそれをハスバラ:hasbaraあるいは弁明/公然たる外交と呼ぶだろう]にとって主要な課題は、反セム主義と反シオニズムとの間には何の違いもないということを世界中に明らかにさせることだと指摘していたものだ。その結果、フランスや他の国々では、イスラエル批判の訴えが反セム主義だと企てられてきた。親イスラエル・グループがパレスチナ人へのイスラエルの扱いに対するボイコットや他の非暴力の形態の抗議を非合法化しようとしているが、シオニズム反対者を沈黙させるこうした対策が、これを書いている時にも実を結んでいるようだ[Keefer 2010]。
非アラブの大部分のイスラエル人は、シオニストのパレスチナ植民地化の過程で先住民のパレスチナ人に対してなした不正を認めようとはしていない。つまり、彼らは追放されたパレスチナ人が憎しみに耐えていることを彼らの追放と強奪に対する憤りの所為にはしたくないのだ。パレスチナ人の排除と強奪を彼らの同胞に知らせるイスラエル反体制派の人々[http://zochrot.org/en]の継続した努力にもかかわらず、立法上のイニシアチブはナクバの記念日を非合法化し、さらにその上イスラエルの集合的記憶からこの悲劇を抹殺しようとしている。「アラブ人」および「ムスリム」は、むしろ筋の通らない憎悪の人々、宗教的狂信者、あるいは今日のナチスとさえ描かれる。イスラエルにおけるシオニスト諸政党の中で最近の中道派は、よく軍国主義者およびファシストと非難されている修正シオニズム運動の右派にはっきりと移動した。1948年5月のイスラエル国家の一方的宣言の後まもなく、ハンナ・アーレント:Hannah Arendt およびアルベルト・アインシュタイン:Albert Einstein を含む世俗的なユダヤ人の著名な知識人たちは、現在イスラエルの主流派を代表する政党[リクード、ヘルートの後継]を、テロリズムを実行するファシスト党[New Palestine Party … 1948]とみなした。そのとき以来、リクードは、創設者ウラディミール・ジャボティンスキィ:Vladimir Jabotinsky (1880-1940) やメナヘム・ベギン:Menahem Begin (1913-1992) が採用したよりもさらに排外的な断固たる民族主義へと転換したのである。
左派と右派との間の意味ある区別の消滅、および社会主義的平等主義の経済的エートスからネオ・リベラルへの転換は、イスラエル監視団が名付ける排外的ナショナリズムの着実な成長をイスラエル内部に促進させてきた[Okon 2010; Burston 2007]。過去20年間、「ムスリムの脅威」という誇張した言葉をまとった「アラブの脅威」は、これらのネオ・リベラルの改革を比較的和らげて適用させ、イスラエル政府を引き続き助けた。2011年夏のイスラエルにおける大規模なデモンストレーションは、「アラブ問題」の排除にいたるまで社会正義の問題に焦点を合わせることでこの点を証明したにすぎない。
2001年9月11日の出来事に対する欧米の反応は、進歩と自由に対するムスリムの非合理的な憎しみと「ユダヤ=キリスト教」の価値体系に対する敵意にかんするイスラエルの公式説明を喜んで採用した。この間、欧米各国によって導かれた「対テロ戦争」では、イスラエルは高度の専門知識と装備の特権的な情報源となった。
結論
聖地におけるシオニズムの企図は、100年の節目を経過した。このもともと社会主義を目指していた世俗的な意味での入植活動が、ヨーロッパさらにそれを越えて多くの国々で右派キリスト教ナショナリストの中心課題となり聖なるものとなった。実際に紛争と共に生き、その実践的な帰結を熟知している聖地のユダヤ人やムスリムと違って、キリスト教徒のシオニストたちははるか遠くから紛争に関わる。彼らにとって聖地は、依然として純粋に霊的な実体のままである。これが、民族ユダヤ教の一部の熱烈な信奉者たちと一緒になったキリスト教シオニズムが、イスラエル/パレスチナの平和に対する抜きん出たあからさまな宗教的な障害物になっている理由である。あるいは、もっと正確に言うと、強力な政治上の障害物が宗教的言説の中に根付いたということである。ユダヤ人が帰還の実現に不可欠な手段を制度化する一方で、彼らの役割はキリスト再臨の神学的な願望に従属したままなのである。
もし政治的シオニズムを駆り立てた宗教があったとすれば、それは、ユダヤ教というよりむしろプロテスタンティズムであった。この着想がヨーロッパのプロテスタント世界に生まれた何世紀も後に、ユダヤ人がシオニズムに導かれた。そして最近のキリスト教シオニストの総数は、世界のユダヤ人総数の4倍から5倍と推定されている。シオニズムとシオニスト国家の出現に対するこれらキリスト教徒とヨーロッパ人の貢献は、中東におけるイスラエル国家とその立場についてのいかなる分析においても重大な考慮が払われねばならない。
ヘルツルを信奉するシオニズムの先駆者であるキリスト教プロテスタント・シオニズムは、イスラエルに対する無条件の支持の決定的な要となっている。福音派の伝道者ジェリー・ファルウェル:Jerry Falwell にとって、1948年のイスラエル国家の創設は天国へのイエスの昇天以来、歴史におけるもっとも決定的な出来事であった。また「それはイエス・キリストの再臨が近いという証拠だ。…聖地にイスラエル国家なくして、イエス・キリストの再臨はありえず、同じく最後の審判も終末もない。」[Tremblay 2003: 118]この神学的立場は、アメリカ合州国のキリスト教福音主義者(エバンジェリスト)とシオニスト国家の一体化が完了したことを保証している。2011年7月、イスラエルのためのキリスト教徒連合の年次総会でTV中継された演説において、ネタニヤフ首相は次のように語った。「あなた方がイスラエルを支持するとき、あなた方の利益とあなた方の価値観と、どちらかを選ぶことではありません。あなた方は両方とも手に入れるでしょう。…あなた方の敵どもは、我々はあなた方であり、あなた方は我々であると考えています。さぁ分かりますね?彼らはまったく正しいのです。」[Mozgovaya 2011]
【以上、翻訳終わり。参考文献は省略。】
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion6470:170119〕
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