卑屈な日本、嵩にかかるトランプのアメリカ
- 2017年 1月 26日
- 交流の広場
- 合澤清
「極端主義者」トランプは米国内ばかりでなく、世界中の世論を真っ二つに割りながら第45代米国大統領に就任した(1月20日)。直後の日本とEUの反応は、対米関係を象徴的に語るものである。
日本のメディアは、一応は米国内での反トランプのデモやそこでのマドンナの刺激的な発言(「今から「革命」が始まる」…云々)を取り上げてはいたが、肝心のアベシンゾーは、他国に先駆けて「共に手を携え、アジア太平洋の平和と繁栄を確保し、世界が直面する課題に取り組むことを楽しみにしている」との祝辞を送り、いかなる政権が誕生しても、日本はアメリカに追随しますというまことに卑屈そのものの態度表明をしている。
この「、アジア太平洋の平和と繁栄」のため、という空文句は、私にはかつての「大東亜の平和と繁栄のため」といううたい文句で始まった「大東亜戦争」と相似にしか思えない。またこの卑屈さは、沖縄基地をはじめ、日本の各地での米軍基地とその周辺での米軍の横柄さ(日米基地協定による、米軍の治外法権)と二重写しである。
この日本的な「卑屈さ」をクローズアップするために、1月20日の大統領就任時のドイツの新聞「DIE ZEIT」を紹介したい。タイトルは、「今、新たに(トランプが)配られる」(Jetzt wird neu gedealt)というのであるが、このdealは多分英語からそのままとられているのであろう。とすれば、「商取引がなされる」というトランプの「ビジネス政治」への痛烈な皮肉を込めた表題なのであろう。
「トランプは大統領になるが、彼の使命はといえば、『これからずっと、アメリカの進路と世界の進路をわれわれは共有するであろう』というものだ。これは脅し(eine Drohung)である」「トランプの大統領就任はアメリカが突然独裁的な体制になるという日ではない」(意訳)
もちろん、私が言いたいことは、「ドイツが正しくて日本は間違っている」などということではない。私自身は、仮にヒラリーが大統領になっても、あるいはバニー・サンダースがなったとしても、それが米国を含む世界の根本的な変革(格差や難民問題、若年層の大量失業などが生じる社会の変革)につながらない限り、そして、そういう展望を見据えた国際・国内政治の変革をやらない限り、実際にはトランプと大した位相があるとは思えないのである。
既にいろんな論者がご指摘のように、様々な利害関係が複雑に絡み合った現今の世界(自己利益優先の資本主義世界)の中では、一方の利益は他方の不利益に、また逆の関係につながる事はその通りであろう。競争・競合しあい、その中で相対立する国家間、企業間のどちらに味方しようと一方的な、片手落ちの判断でしかない(それ故、複眼的な視方が必要である)事は明らかである。
しかしまた、「複眼的な視方」だけに止まっていてもいけないのではないだろうか。それは悪しき相対主義(両者それぞれに言い分があるといった相対的な思考)を出来させるだけで、対立の根本的な解決(止揚)にはならない。対立を根拠(現実社会)とその発現(現象)との運動と捉え、その根本に迫る運動を構築する以外に解決方法はないように思う。
それは、稿を改めて提起していきたいと思う。
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