小沢裁判
- 2011年 3月 7日
- 交流の広場
- アマス小沢裁判
小沢裁判は
井上被告~小沢被告の裁判は、間違いなく有罪が確定している。判決文の大筋も想定できる。
結審するまでの法廷は茶番劇である。検察に不利な証拠、証人証言の全ては信憑性にとぼしく信用できないとして、或いは全く無視される。弁護の能力は関係ない。
検察の、あの恫喝詐欺まがいの取調べ調書だけが採用される、有罪が確定される、茶番である。
まるで何処かの独裁国家の政治犯裁判である、16,17世紀の魔女裁判と本質的にかわらない。
21世紀、現代国家の裁判とは、絶句するいがいにない。憤懣やるかたない現実をつきつけられる。
なぜか?・・・
日本国に三権分立は存在していない。行政と司法はつながっている、バカな立法は二者に隷属している、意識できないだけである。
まさに、司法府そのものである最高裁と行政府の中核である財務省には実態のない暗黙のヤミ取引が存在する。微塵の証拠も残しようがない、闇のなかである。
すなわち、役人天国、公務員のやりたい放題を保証する公務員個人責任追及裁判では、常に最終的に無罪を用意する、引き換えに、判決の正当性を擁護する法曹界全体をも支配できえる潤沢な予算をかくとくする。もちろん、人事院、会計検査院もこのスクラムに組み入れる鉄壁の官僚支配体制、それも、全体が暗黙の了解のもとで、大臣ごときでは勝負にならない。したがて、この日本国には真の民主主義は存在しない。三権分立もない偽民主主義の国が近代国家といえるのか?
司法(最高裁)の国民支配とは裁判官と法曹界を制度と権威と資金により統制、支配することです。
しかも、間接的に暗黙の了解のもとで、巧みです。
裁判官は独立してない、地位とそれに伴う生涯収入は最高裁の采配です、下級裁判官は常に
最高裁(=行政)の意向を組みとることが評価につながるとおもわされている。そのために事実と法律をたくみに操ることが上の地位につながると思っている。我々は妄信している、決して裁判官は清廉潔白な人間達だけではない。上向思考の強い常に上をみている裁判官がこの裁判に選ばれた。
井上被告裁判とそれにつながる小沢被告は、だから、間違いなく有罪の判決を受ける。たとえ、一円の違反罪でも有罪とゆう言葉が一人歩きをはじめる、これで十分、二審,三審の結果はどうでもいい、政治生命は完全に絶たれる。官僚体制維持と愚かにもそれを悪用した政治家達に。
以上
私の個人的な悪夢と妄想であってほしい。
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