「平和の灯」が消されるまで ―愛子さんの「怒りと悲しみと希望」―
- 2017年 3月 28日
- 評論・紹介・意見
- 半澤健市
愛子内親王は 2017年3月22日に学習院女子中等科の卒業式に出席した。
400人の卒業生が一人ひとり名前を読み上げられ、愛子さんは「敬宮愛子(としのみや・あいこ)」と呼ばれて起立したという。
彼女が書いた卒業記念作文「世界の平和を願って」が同日宮内庁から発表された。
それは、2016年5月の修学旅行で広島を訪れたときの感想を、書いたものである。
《原爆への「怒りと悲しみ」》
卒業前の青空を見上げて彼女は平和に生きている自分が幸せだと思った。
その感情が湧いたのは、広島で大きな意識変化があったからである。
原爆ドームの前で突然、足が動かなくなった。平和記念資料館の展示に驚いた。現地をみて、原爆投下の「空間と時間」へ没入したのである。彼女はこう書いている。(■から■が原文の引用)
■原爆ドーム。写真で見たことはあったが、ここまで悲惨な状態であることに衝撃を受けた。平和記念資料館には、焼け焦げた姿で亡くなっている子供が抱えていたお弁当箱、熱線や放射能による人体への被害、後遺症など様々な展示があった。
これが実際に起きたことなのか、と私は眼を疑った。平常心で見ることはできなかった。そして、何よりも、原爆が何十万人という人の命を奪ったことに、怒りと悲しみを覚えた。命が助かっても、家族を失い、支えてくれる人も失い、生きていく希望も失い、人々はどのような気持ちで毎日を過ごしていたのだろうか。私には想像もつかなかった。
最初に七十一年前の八月六日に自分がいるように思えたのは、被害にあった人々の苦しみ、無念さが伝わってきたからに違いない。これは、本当に原爆が落ちた場所を実際に見なければ感じることのできない貴重な体験であった■
《平和への実践・思いやりと発信》
オバマ米大統領のものを含む世界中からの折鶴を見た。慰霊碑に燃えつづけている「平和の灯」を見た。こういう平和のシンボルを見て、平和は世界中の願いであることを意識する。しかしそれはなかなか達成されない目標である。彼女は、平和は当たり前の日常だと思ってはいけないと考える。平和は人々は他人への感謝と他人への思いやりという行動から始まるのだと考える。そしてこう書いている。
■唯一の被爆国に生まれた私たち日本人は、自分の目で見て、感じたことを世界に発信していく必要があると思う。「平和」は、人任せにするのではなく、一人ひとりの思いや責任ある行動で築きあげていくものだから。
「平和」についてさらに考えを深めたいときには、また広島を訪れたい。きっと答えの手がかりが何か見つかるだろう。そして、いつか、そう遠くない将来に、核兵器のない世の中が実現し、広島の「平和の灯」が消されることを心から願っている■
《15歳少女の作文が与える衝撃》
特異な環境下で人生を歩んでいる15歳の少女の文章は、私に衝撃を与えた。
それは次の三点の感覚に要約できると思う。
一つ 現場を見て過去の時空に没入できる感性と知性
二つ 「悲しみ」だけでなく「怒り」を表現していること
三つ 行動によって〈「平和の灯」を消そう〉という想像力
三つに共通するものは、自分の目で見、自分の頭で考え、自分の言葉で表現する、すなわち自立した精神である。
後期高齢者の私は、旅行をして何を見ても「テレビで見た通り」という感想に落ち着くようになった。旅行の感想はメディア映像の再生産以上のものでなくなった。
それに比べて愛子さんのタイムスリップ能力はどこから来るのだろうか。それは彼女の鋭い感受性からであり、歴史的に事柄を見ようとする知性によるものだと思う。
私はかねてから日本人の戦争論には、「悲しみ」と「悼み」だけがあって「怒り」や「抗議」がない、と言ってきた。愛子さんは「原爆が何十万人という人の命を奪ったことに、怒りと悲しみを覚えた」と書いている。「怒り」が誰から誰へ向けてのものか。この文章ではわからない。しかし、原爆投下を決定し実行した当事者、不作為によってその実行を容認した当事者は、米大統領や彼女の祖父を含んでいて、しかもその数は多くない。彼女自身の意識はどうあれ、これが文章から導かれる論理である。
バラク・オバマのプラハ演説はノーベル平和賞の理由となったが、そこでも核廃絶には長い時間がかかると言っている。それに対して、愛子さんは「そう遠くない将来に」と言っている。そして、その時には広島の「平和の灯」は消えるのだと考えている。「灯が消える」というイマジネーションに私はうたれた。
《国民の総意 VS 天皇制・時の政権》
現在の天皇家の、歴史観・戦争観には戦後民主主義の「理想主義」の部分が、生き残っていると私は思っている。一方、実態としての戦後民主主義は、「戦争観なき平和論」、「自立意識なき防衛論」、「リアリズムなき護憲論」という「現実主義」によって批判され、気息奄々の状態だと私は感じている。
天皇制が「国民の総意に基づく」ように、日本政治の総体は国民の総意に基づくべきものである。戦後76年余り、国民の総意が理想的に政治に反映されたことはない。それが政治の現実というものであろう。
しかし2017年の今ほど、その関係が「現実離れ」し、「乖離」している時もない。
我々は、敬宮愛子さんに学ぶところにいるのではないだろうか。(2017/03/25)
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