5・13ポスト資本主義研究会:公開シンポジュウム ――青木孝平著『「他者」の倫理学――レヴィナス、親鸞、そして宇野弘蔵を読む』をめぐって
- 2017年 4月 29日
- スタディルーム
- 松田健二
日 時 : 2017年5月13日(土) 13時30分~16時30分(開場13時)
会 場 : 専修大学神田校舎7号館7階772教室
http://www.senshu-u.ac.jp/univguide/profile/access/kanda_campus.html
資料代 : 500円
パネラー : 青木孝平(鈴鹿医療科学大学) 平山昇(変革のアソシエ)
主 催 : ポスト資本主義研究会 問合せ先:090-4592-2845(松田)
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マルクスvs.宇野弘蔵
――フッサールvs.レヴィナス あるいは 聖道門vs.親鸞との類比において――
青 木 孝 平
昨年9月に『「他者」の倫理学』という著書を公刊し、幸いにも今年2月に版を重ねることができた。これまで私は、ほぼ40年間、宇野理論によって微調整されたマルクス理論を学んできた。しかし近年は、マルクスと宇野をまったく別の思想体系であり、宇野のもつ独自の規範理論、より正確には「科学」の背後に潜む「倫理学」を救い出したいと思うようになった。それがこの書物を執筆した動機である。
マルクスの思想には「外部」の「他者」がいない。その初期から『資本論』にいたるまで、彼は自己を普遍化した「人間」を主語とし、その内的「労働」の弁証法的展開によって商品や貨幣を、それゆえ私的所有を導き出す。ヘーゲル左派の労働疎外論を古典派経済学の労働価値説にオーバーラップさせて、これを前提に資本主義の「不払い労働」を告発する。また、蓄積の進展から資本構成の高度化による利潤率の低落や労働者の窮乏化によって体制の自動崩壊を説こうとする。いまやそうしたマルクス理論の破綻は明白であろう。
これに対して宇野弘蔵は、その発想が根本的に異なる。人間の労働の外部にある流通形態そのものを主語にして、労働者(人間)は、「あたかも永遠に繰り返す」資本循環に包摂された小ブルジョア・イデオロギーの持ち主としてのみ描かれる。それゆえ、体制変革の担い手は、決して資本主義「内部」の労働者や市民、ましてやそのアソシエーションなどではありえない。資本主義の生成が原始的蓄積という歴史の偶然であったのと同様に、その終焉になんら内的必然性はない。宇野は歴史の理論化を放棄したのである。
けれども宇野は、資本主義を閉じた円環体系として捉えることで、逆説的ではあるが、かえってその「外部」に無限の可能性を秘めた「他者」の存在を示唆しているのではないか。たとえばフッサールの現象学は、世界の一切を自我の内部に超越論的に還元することを志向したが、これを否定したレヴィナスは、自我の全体性の外部に顕現する「他者」にこそ倫理の根拠を見出した。同様に親鸞は、聖道門仏教の自力作善による悟りを断念し、自己の涅槃を如来の絶対他力による救いに求めた。宇野による完結した体系知としての資本主義認識は、レヴィナスの「他者」や親鸞の「他力」と同様に、外部に「絶対的に他なるもの」があるという変革の展望を鮮やかに蘇らせるのではないだろうか。
資本主義的「自我」は、自己の内省によってではなく、「他者」の現前によって、初めて倫理的審問に付されるはずだからである。
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