アベ改憲願望発言に見える焦り
- 2017年 5月 3日
- 時代をみる
- 澤藤統一郎
超党派の「新憲法制定議員同盟」(会長・中曽根康弘元首相)という組織がある。これが、昨日(5月1日)「新しい憲法を制定する推進大会」を開催した。日本を昔の暗い時代に逆戻りさせようとの組織的改憲共謀の準備行為に該当する。
この集会は例年のことだそうだが、昨日はアベ晋三が現職の首相として初めて出席して、壇上から発言した。「憲法改正について強い意欲を示した」と報じられている。
「新憲法制定議員同盟」の「新憲法制定推進大会」において、「憲法改正」が語られることが腑に落ちないが、アベの頭の中では、どう整理されているのだろうか。
産経が、「首相の発言詳報」を掲載している。アベ自身が「本日は自民党総裁の安倍晋三としてここに立っておりますので、念のため申し上げたいと思います。」と断っているのに、「首相の発言」である。含むところがあるに違いない。
産経の伝えるところを読んでの限りだが、アベの改憲論は「どこでもよい、なんでもよいから、ともかく改憲」というもの。改憲を自己目的化してしまって、理念も理想も語るところがない。なにゆえ、憲法のどこをどう変えようというのか、その具体案がない。だから、まったく迫力がない。人に訴え、心を揺さぶる力がない。改憲の焦点が定まらない以上どうしようもないのだ。
「機は熟した。今求められているのは具体的な提案だ。理想の憲法の具体的な姿を自信を持って国民に示すときで、しっかりと結果を出さなければならない」「この節目の年に必ずや歴史的一歩を踏み出す。新しい憲法を作っていくことに全力を傾けると誓う」と、言葉が空回りだ。
客観情勢は、アベ改憲願望に順風を送ってはいない。「自民党は、圧倒的な第一党として現実的かつ具体的な議論を憲法審査会においてリードしていく覚悟だ」「憲法改正を党是に掲げてきた自民党の歴史的な使命ではないか」と訴えたという。しかし、今国会での憲法審査会審議は、衆院でも3回に過ぎず、参院はまだない。明らかに改憲機運は停滞しており、アベ発言は焦りにも聞こえる。
なお同集会には、自民党のほか、民進、公明、維新、日本のこころの各党から、改憲派議員がが出席したという。産経によるアベ発言の詳報は次の通り。太字がアベ発言(抜粋)で、細字が私の突っ込みである。
60年の節目にあたっても(私が)内閣総理大臣でしたが、この年ようやく国民投票法が成立しました。憲法改正に向けた大きな一歩をしるすことができたと考えています。あれから10年がたち、18歳投票権など3つの宿題も解決された中にあって、憲法改正の国民的な関心は確実に高まっている。かつては憲法に指一本触れてはいけないという議論すらもありました。しかし、もはや憲法を不磨の大典だと考える国民は非常に少数になってきたと言ってもいいのではないでしょうか。
「憲法を不磨の大典だと考える国民」は昔から非常に少数だ。憲法改悪阻止を訴える多くの国民は、できることなら憲法をよりよいものに変えたいと思ってきた。たとえば、天皇をなくし、自由や平等を形式的なものから実質的な保障に裏打ちされたものに進歩させ、人権と民主主義と平和をより豊かで確実なものにしたいと思ってきた。だから、「アベ自民党には、憲法に指一本触らせない」とは言っても、憲法を完成した「不磨の大典」として、拝跪の対象とすることはない。「憲法改正の国民的な関心は確実に高まっている」は、本当だろうか。各種世論調査に表れた結果は、少なくとも9条など憲法の中核に関しては、改正賛成派は過半数に達していない。
いよいよ期は熟してきました。
まったくそうは思わないね。国民の関心は、憲法改正からは確実に薄れている。
今求められているのは具体的な提案であります。もはや改憲か護憲と言った抽象的で、そして不毛な議論からは私たちは卒業しなければいけないと思います。
勝手なことを言ってもらっては困る。「もはや改憲か護憲と言った抽象的で、そして不毛な議論からは私たちは卒業しなければいけない」という改憲派の願望は分かる。しかし、現実は「改憲か護憲か」という綱引きがこの国の政治の基軸をなしている。しばらくは、「卒業」などできっこない。そもそも「改憲か護憲か」と言う議論は抽象的ではない。わが国を軍事大国化し、権力を集中強化して、人権を抑制しようという「改憲派」の策動と、それと対峙する「護憲派」の対峙ではないか。その議論を「不毛」とごまかし、切り捨ててはならない。
この国をどうするのか、わが国の未来へのビジョン、理想の憲法の具体的な姿を自信を持って国民に示すときです。そして、しっかりと結果を出していかなければならない。
今こそ、「理想の憲法の具体的な姿を自信を持って国民に示すとき」? まだ示してないの? 2012年の「自民党改憲草案」は、「理想の憲法の具体的な姿を自信を持って国民に示した」ものではなかったというわけ?
政治とは結果であります。自民党は谷垣(禎一)総裁の時代に憲法改正草案をまとめ、国民にお示ししました。これは党としての公式文書であります。しかし、私たちはこれをそのまま憲法審査会に提案するつもりはない。どんなに立派な案でも衆参両院で3分の2を形成できなければ、ただ言っているだけに終わってしまいます。
あっ、そう。「自民党改憲草案」は当て馬だったという訳ね。
どんなに立派な案でも衆参両院で3分の2を形成できなければ、ただ言っているだけに終わってしまいます。政治家は評論家ではありませんし、学者ではない。
なるほど。だから、失言も放言も妄言も「でんでん」も、いい加減なことが言えるんだ。勉強不足も恥ずかしくないんだ。
ただ立派なことを言うことに安住の地を求めてはいけない。
おやおや、こうも開き直れるものかね。たまには立派なことを聞きたいと思うのだが、どだい無理な話か。
70年前、日本は見渡す限り焼け野原でした。しかし、先人たちは決して諦めなかった。先ほど中曽根先生から大変力強いごあいさつをいただきましたが、中曽根先生をはじめ、多くの尊敬すべき先人たちが廃虚の中から敢然と立ち上がり、祖国再建のため、血のにじむような努力をされました。そして70年後を生きる私たちのために、世界第3位の経済大国、世界に誇る自由で民主的な日本を作り上げてくれました。
えっ? 日本国憲法が働き続けてきた戦後70年を積極評価するの? 日本国憲法による統治の70年を「世界に誇る自由で民主的な日本」と言って、なぜ改憲が必要だというの?
私たちもまた先人たちにならい、この節目の年にあたり、今こそ立ち上がるべきときです。
わけが分からない。「先人たち」は日本国憲法の下で「世界に誇る自由で民主的な日本」を作ってきたと言いながら、突然どうして、今こそ改憲に立ち上がるべきとき、となるというのか。論理が混乱しているよ。
私たちの世代に課せられた責任をしっかりと果たさなくてはなりません。次なる70年、私たちの子や孫、その先の世代が生きる日本の未来をしっかり見据えながら、大きな理想を掲げ、憲法改正、そして新たな国造りに挑戦していこうではありませんか。
むしろ、こう言うべきだろう。
「私たちの世代に課せられた責任をしっかりと果たさなくてはなりません。次なる70年、私たちの子や孫、その先の世代が生きる日本の未来をしっかり見据えながら、大きな理想を掲げたこの憲法を遵守し、憲法の理念をいっそう具体化し充実させることによって、新たな国造りに挑戦していこうではありませんか。」
少子高齢化、厳しさを増す安全保障情勢。平和で豊かな日本をどうやって守っていくのか。私たち全員が顔をあげ、その視線を未来に、そして世界に向けていく必要があります。足下の政局、目先の政治闘争ばかりにとらわれ、憲法論議がおろそかになることがあってはいけません。憲法を最終的に改正するのは国民です。しかしそれを発議するのは国会にしかできません。私たち国会議員はその大きな責任をかみしめなければなりません。
分かることは、とにもかくにも「改憲」ありきの結論にもっていきたいという執念だけ。妄念と言ってもよい。これで国民を説得出来るわけがない。改憲の焦点が定まっていないのだから、空回りにしかなりようがない。
アベ発言の最後は、超党派の改憲派出席議員に向かって、「皆さん、一緒に頑張っていきましょう。」で結ばれている。「皆さん、憲法改正のために一緒に頑張っていきましょう。」の意味だが、「憲法改正」を「憲法擁護」に一括変換して、「皆さん、憲法擁護のために一緒に頑張っていきましょう。」と結んでも、さしたる違和感がない。それほどの抽象的議論であり、その程度の改憲指向発言なのだ。
(2017年5月2日・連続第1493回)
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2017.05.02より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=8508
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔eye4038:170503〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。