近頃はやる言葉と消えた言葉
- 2017年 5月 8日
- カルチャー
- 内野光子
私はブログの記事を書く時も、短歌関係の文章を書く時も、過去の事実、目前の現実からものごとを考え、動きたいと思っている。短歌を詠み、短歌史や女性史をたどるときも、政治を語るときも、地域や旅先での出来事を書くときも、自分自身の耳目で、身体で確かめられる事実からスタートしたい、と思っている。こんな物言いも、抽象的なこと、この上ないのだけれど、つたないブログ記事ながら、そんな思いで書き続けてきた。
表現する者にとっての想像力や創造力の源は、「事実」に違いない、思いからである。ありふれる情報と自らの限られた体験の中から、なにが「事実」なのかをみきわめる能力を身に着けることが、市民として、表現者としての責任でもある。その事実を確認するための手立てや作業には、大変な労苦が伴うこともある。あふれる情報の表面を撫でて、都合のいい情報を集めただけの物言いが横行し、しばらく盛り上がることがあっても、長続きしない。いわゆる「ポピュリズム」とか、「同調圧力」とも呼ばれる現象なのかもしれない。
2チャンネルまがいは論外として、インターネット上の世界でも、論壇という堅い世界でも、近年、明確な物言いや持論を展開すると、「こだわりすぎる」「そう単純には割りきれない」「狭量」とかいう俗語や妙なレッテル貼りで返されることが多いようだ。昨年、このブログ記事で紹介もした、ある歌人との論争をめぐってのわずかな体験でも、そんな現象が見て取れた。これらの評語は、やや「堅気」を装った世界でも、「解決しがたい難題」を目の前にすると、
「<地平>や<時空>を超えて、<通底>した、<通奏低音>のように問いかけられている課題だけに、<複眼的><重層的>な<視座>が必要で、<二項対立的>な考え方では、容易に結論が出せるものではない。多様な選択肢を踏まえ、バランス感覚をもって向き合うべき課題である・・・」
のように、すべてを「相対化」して、結局、自らの結論を先送りするような論調が目立っている。さらに、「良心的な」論者は、「苦渋の選択」を披露することもあるが、一時期、若手論者の間で流行していた「差し違える」「切り結ぶ」覚悟は、どこかに消えてしまったようなのだ。
私は、遠い学生時代、その後もいささか「判例集」、裁判官の判決文を読むことがあった。あの難解な言い廻しはなじめるものではなく、何が結論なのかが一読ではわからないことが多かった。機会があったら、裁判官の用語や方法にも触れたいのだが、また、手に負えなくなるかもしれない。余談ながら、裁判における判決直後の報道で、勝訴側の喜びの声とともに、敗訴側の「まだ、判決文をくわしく読んでいないので、コメントは差し控える」と報じられるだけである。その後「コメント」が報じられることは、まずない。重要な判決に限っては、少し時間を経た「解説」報道になることはあっても。
初出:「内野光子のブログ」2017.05.07より許可を得て転載
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/05/post-609c.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture0475:170508〕
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