「悲惨な戦争体験を越えて」9条改憲阻止の理論的深化を――岩田昌征氏の「自衛国軍」に反対する
- 2017年 5月 25日
- 評論・紹介・意見
- 世界資本主義フォーラム矢沢国光
ちきゅう座に岩田昌征氏が投稿した「日米安保・九条体制のワンセット撤廃」論について批判したい。[岩田昌征「戦争のできる国」と「戦争をしない国」http://chikyuza.net/archives/72907 ]
私は9条改憲反対派であるが、改憲反対派の現状は、こころもとないと感じている。この点では岩田昌征氏に共感する。
憲法9条の戦争放棄・戦力不保持は、悲惨な戦争体験の国民的共有にもとずくものであり、それゆえに、憲法9条の維持は、ながいあいだ、保守・革新を越えた国民的合意であった。 心もとないと感ずる理由は、「悲惨な戦争体験」に依存するだけでは、だめだからだ。
だが、岩田氏のように、「自衛隊を自衛国軍にすべきだ」と自衛隊の国軍化を積極的に主張するのは、まちがっている。以下、その理由を述べる。
(1)日本とアメリカの関係についての認識
岩田氏が自衛隊を自衛国軍にするという理由の一つは、アメリカに対しても戦争できる自衛軍が必要だ、ということである。「自衛隊はアメリカ軍とだけは絶対的に論理的に戦争できない宿命を構造的に背負っている」。
日米安全保障体制についてのこうした認識は、正しいだろうか。
安倍政権は、必ずしも「アメリカのいいなり」ではない。
イラク戦争時の小泉首相は「ブッシュの子犬・ポチ」と揶揄されても仕方のない「アメリカ追随」であったが、TPPを主導しイスラム国テロ・北朝鮮核武装への強行姿勢を国際社会に煽る安倍首相の言動を見ると、アメリカの言いなり、というだけでは、安倍首相の国家主義を過小評価することになる。むしろ「アメリカのアジア太平洋戦略の忠実な協力者となることを通して、(弱体化した)アメリカに代わるアジア・太平洋でのリーダー国家たることをめざしている」とみるべきだ。
今のところ自衛隊は、装備の面でも兵力運用の面でも米軍の下請けに甘んじているが、敵基地攻撃ミサイルの配備も視野に入れた防衛費の増額や解釈改憲による安保法制の実行を進めている。中国・北朝鮮にたいする米日豪韓の安全保障体制が米トランプ大統領の不安定な外交政策によってどのように変わろうとも、安倍内閣は中国・北朝鮮に対する主権国家防衛体制を維持・強化しようとしている。
(2)外交と軍の関係についての認識
岩田氏は、「国軍を有する国家は、あらゆる国と戦争できるが、同時にあらゆる国と外交できる。日本国は国軍を持てない。故に、日本国はアメリカとだけは外交できない。日本国があらゆる国と外交できるようになった時、日本国はいかなる国とも戦争しない決意を実行できる。」という。
国軍をもたない国は、外交できないだろうか?
憲法9条1項は「…国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」と述べている。
「国際紛争を解決する」ことが外交であるとすれば、憲法9条1項「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」は、外交の手段としての武力の放棄をうたっている。
「外交には武力が必要」という岩田氏は、9条の「武力なき外交」を否定するのだろうか?
日中国交回復は、日本に武力があったからできたのか?武力なしの「外交」の成果ではなかったか。
たしかに経済外交では、アメリカの利害を一方的に押しつけられている。これは武力を欠くためか?そうではない。アメリカの武力(日米安保体制)に依存してアジア諸国との経済圏形成を自己規制するからアメリカのごり押しを跳ね返せないのだ。
(3)軍と国家の関係についての認識
岩田氏は「『…いくさ(戦争)はしない、しないができる。できてもしない。但し、しかけられたら、受けて立つ。』の和戦哲学を日本国民の心とする。当然、論理必然的に日本国は自衛国軍を有する。」として、「自衛国軍」の保有は当然のこととする。
ちょっと、待ってほしい。「受けて立つ」のは誰なのか?「自衛国軍」、つまり「日本国の軍隊」か、それとも「日本人(日本の住民)」か?
これは「だれに対する攻撃か?」にも関係する。「日本国」に対する攻撃か、それとも「日本に住む個人・集団」に対する攻撃か?
中東やアフリカで日本人がテロ組織に襲われた事件がいくつか起きた。襲われたのは個人や集団(企業)であったが、私的な恨みで襲われたのではない。日本国が「対テロ戦争」連合の一翼に加わることが日本国への攻撃を誘っているのだ。
北朝鮮は「ならず者国家」だから、強盗が金銭を強要するために暴力をふるうように、不当な要求を押し通すために、日本国にたいして武力行使する――こんなことがあるだろうか?
北朝鮮が在日米軍基地を攻撃する、というなら米軍に基地を撤去してもらったらよい[この点は岩田氏も「日米安保体制廃止」で一致する]。「拉致」はどうか?拉致は戦争ではない。警察力で防ぐべきものだし、拉致被害者を取り戻すのは(武力ではなく)外交でしかできない。
日本人を守るのは、国家の軍隊ではない。国家の軍隊はむしろ住民を危うくする。平和外交が日本への武力攻撃をなくし、住民の治安防衛組織――警察力と住民自衛組織――が日本人を守る。
(4)「国家のない国民」でなぜいけないのか?
岩田氏の「日本国の自衛国軍」の隠れた問題点は、日本人には「国防軍を持って自国を守る」意識――国防意識――がほとんどない(なくなった)、という事実である。
国防意識は、1945年8月15日の敗戦とともに消失した。日本人は、アメリカ占領軍を自分たちをひどい目に遭わせてきた「軍国主義」を解体してくれた解放軍として歓迎した。「大日本帝国」は消失し、それに替わって日本人が自分たちの「くに」として認めたのは、憲法9条によって戦争を放棄し軍隊を持たない「日本国」であった。軍隊を持たぬ「国」が国家でないとしたら、「日本国」は名前は「国」と付いていても「国家」ではなかった。日本人の大多数は、それでよしとした。日本列島に住み、一つの経済的集団にまとまっている「日本国民」が軍隊を欠く「普通の国家」でなくてもよいではないか。われわれはそうやって敗戦後暮らしてきた。
(5)国家と戦争の関係
岩田氏は「戦争をしかけられたら、受けて立つ、そのために自衛国軍が必要だ」という。これでは議論が抽象的すぎる。日本に戦争をしかけてくる国があるだろうか?
中国?中国が、尖閣諸島の争奪のために日本と戦争するなど、考えられない。
北朝鮮?北朝鮮のミサイル・核武装は、アメリカとの平和協定が狙いであって、日本が標的ではない。
戦争は、クラウゼヴィッツが説くように、国家の対外政策の手段であり、国家なくして戦争もない。その(近代)国家は、たかだか16世紀以降、資本主義の興隆とともに出現したものであり、人類史の中ではごくごく最近出現したものである。人間社会にとって恒久的なもの、不可欠のものではない。
現に、二度の世界大戦で死闘を演じたドイツとフランスは、不戦共同体としてのEUを結成して、脱国家に向けて歩み出した。
米ソの冷戦体制も、ゴルバチョフとレーガンの話し合いの中で終結し、冷戦の終結はソ連という国家の解体をもたらした(その後ブッシュのイラク戦争で冷戦が部分的に復活したが)。
国家の解消が戦争をなくし、「国家の軍隊」を不要にする。
自衛隊を自衛国軍(という国家の軍隊)にする(岩田氏の案)のは、国家の解消に逆行し、国家を強化する。国家の強化は、戦争を増やす。戦争が増えれば国防競争になる。こうした国家・戦争・国防力強化の悪循環を絶ち、「国家のない社会」に向けて世界が進むように国際社会に働きかけること――これこそ「国家のない国・日本」「平和憲法の国・日本」の役割ではないか。
21世紀になって「普通の国家」にならなければならない、という政治集団が安倍氏を先頭に出てきて、アメリカの衰退・中国や北朝鮮の台頭といった国際情勢を巧みに利用して、危機を煽り、自衛隊の国軍化をしゃにむに進めてきた。
安倍首相は焦って2020年9条改憲を言い出した。[矢沢国光、安倍「2020年改憲施行・自衛隊加憲」の謎を解く http://chikyuza.net/archives/72583 ]
これに対して改憲反対派は、安全保障と自衛隊の問題について、「悲惨な戦争体験」を越える認識の深化を持って、対処せねばならない。岩田昌征氏がそのための時宜を得た問題提起をしてくれた。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion6691:170525〕
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