社会理論学会 第116回月例研究会 2017/6/17開催 負の体系、その解放 ― レジュメ―
- 2017年 6月 7日
- スタディルーム
- 川元祥一
- 日時:2017年6月17日(土) 14:00~17:00 ●会場費:なし●場所:渋谷区笹塚区民会館4階和室 [東京都渋谷区笹塚3-1-9]。 区民会館は問い合わせに応じません。
- 待ち合わせ―当日・6月17日(土) 13時30分に京王線・笹塚駅改札にて待ち合わせ。
社会理論学会 第116回月例研究会 2017/6/17開催
負の体系、その解放 ― レジュメ― 講師 川元祥一
日米戦争敗戦の原因『失敗の本質』(戸部良一・寺本義也・鎌田伸一・杉之尾孝夫・村井友秀・野中郁次郎・ダイヤモンド社1984年)。丸山真男の『日本の思想』(岩波新書1961年)
最近各地で行う『人権に関する世論調査』(東京都生活文化局・平成26年など)。
これらには、意外にも、あるいは当然にも、共通な日本人像が浮かぶ。その全体像を「負の体系」と呼び、歴史的背景をたどりながらその体系の超克・解放の手掛かりを考える。
Ⅰ 負の体系――「二重性=二面性」「科学より主観」「同質性」「空気」「無責任」など。
①『失敗の本質』は「曖昧」「二重性=二面性」「科学より主観」「グランドゼザイン欠如」「無責任」「空気」。
②『日本の思想』は「内面的同質化」「曖昧」「無責任」「社会的二重構造」「むら意識」。
③『人権に関する世論調査』での部落差別は、「曖昧・二面性」「イエ意識」「ムラ意識」「同質性」「空気」「無責任」など。
これら多くの一致点を見出せるとしたら、その本質は一つ、日本人の実像を示すだろう。
それを教訓、反面教師として、その原因・原理などを考察する。
◇中田暁子はハンセン病者・治癒者について次のようにいう。
「日本には、民主政治の行われる国会もあり、平和主義や人権の尊重が謳われる憲法もある、世界の中でも先進国としての位置付けがなされている国である。(略)しかし、このハンセン病を通して見える社会の実態は全く違ったのである。政府は『公共の福祉』の理論を武器にしてハンセン病患者を見殺しにしてきたといっても過言ではない。 (略)その実態は責任の所在のなさをいいことにした無政策である。(略)患者の置かれた現状を直視せず、弱者に対して心ない政治が放置されつづけるのを許してしまう、日本の政治における政策決定プロセスのあり方に強く疑問を感じた」
(http://www.kwansei.ac.jp/s_sociology/attached/5295_44425_ref.pdf・「ハンセン病政策の変遷」)。この言葉はハンセン病者だけでなくこの国で歴史的な背景をもつ偏見・差別、人権問題に共通する言葉と思って間違いない。
◇『失敗の本質』が指摘する「空気」はこれと闘う小池東京都知事の姿勢が注目される。
Ⅱ その歴史的背景
①丸山は日本近代の国家と社会的統治を「国体」に見る。明治22年(1889)「大日本帝国憲法」)制定時の伊藤博文の「我国ニ在テ機軸とスベキハ、独リ皇室アルノミ」が典型。その「国体」を批判して「まさに国体が、『思想』問題にたいして外部的行動の規制-―市民的法治国家の法の本質-―をこえて、精神的『機軸』としての無制限な内面的同質化の機能を露呈していく」(『日本の思想』33p)。「内面的同質化」の指摘。
②『失敗の本質』は「神風特攻隊」について、その案が戦艦大和の「海上特攻隊」より早くレテー海戦の時とし、連合艦隊の作戦が「総合作戦の不一致」で敗色濃厚な状況下「劣弱な航空戦力を補ために、『作戦の外道』と考えた特攻攻擊に踏みきる」(150p)―◇経済の高度成長を成し遂げた日本人は「『天皇戦士』から『産業戦士』への自己否定的転身の過程で日本的経営システムをつくり上げた」と指摘。「神風」「天皇戦士」
③「人権意識調査」に見る部落差別は―天皇制価値体系としての「忌穢・触穢」あるいは「貴賤・浄穢」が深く関連している。そのための「ムラ意識」「空気」「無責任」。
⒈ 天皇の「終戦の詔書」に見る「神国」「国体」
「朕(ちん)深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑(かんが)ミ 非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ」「為ニ大道(だいどう)ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ(が)如キハ朕最モ之ヲ戒ム 宜(よろ)シク挙国一家子孫相伝へ 確(かた)ク神州ノ不滅ヲ信シ(じ)」「総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ 道義ヲ篤(あつ)クシ志操ヲ鞏(かた)クシ 誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運(しんうん)ニ後(おく)レサ(ざ)ラムコトヲ期スヘ(べ)シ」(http://ironna.jp/article/1855)。
⒉ 「神国」と仏教「虚像の信仰・思想」―「神仏二つの価値体系」「科学より主観」
①平凡な神話の「神国」。『日本書紀』神功天皇期、新羅王が日本をそう呼んだ。
②国難=元寇(1274年と81年)を「予言」「奇跡」として見る仏教の虚像と台風の実像。
「異国降伏祈祷」―「仁王経」「仏の言はく,一には日月度を失し、日の色改変して白色と赤色と黄色と黑色となり。二には星辰度を失し(星のめくりが狂う) 。三には龍火・鬼火と人火と樹火と天火萬物を梵焼す。四には時節改変し寒暑恒ならず。多雨ふり雷電し。五には暴風敷々(しばしば)起こり月日を皆隠し。六には天地亢陽(日照り)し 百穀成せず。七には、四方の賊來りて国の内外を侵し(略)百姓喪亡す」 (HP・近代デジタルライブラリ『国訳仁王護国般若波羅蜜多経』373p・コマ191)。六難までが自然現象の異変・天変地異、七難が外敵来襲。「神風」「神国」として現代へ。
⒊ 「殺生禁断=天変地異の制御」=「虚像の信仰・思想」―百姓・民衆の内部矛盾
「科学より主観」「無責任」「空気」「ムラ意識」
平安末期から鎌倉中期までの政治記録『百錬抄』(著者不明・『新訂増補 国史大系第十一巻 日本紀略後編 百錬抄』吉川弘文館2000年)天治二年(1125)十二月二十七日の記録「此年以後、殺生禁制殊甚」実際に諸国で魚網を焼き捨てたりして殺生禁断を実行した。その次の年の十二月二十七日の記録で「今年五穀豊稔(略)殺生禁断之報」(前掲56p)とする。殺生禁断が天変地異を制御し、豊作をもたらしたと認識。これは当時、自然制御、天変地異制御の国家イデオロギーとして仏教、ことにその不殺生戒が重んじられる強力な認識となつて百姓・民衆に浸透する。本地垂迹説の台頭もこうした認識が後押したかも知れない。
この認識を「殺生禁断=天変地異制御」とする。いうまでもなく、この構図は、現代科学からして間違っているので「虚像の信仰・思想」とする。しかしこれが百姓(後の士・農・工・商・皮田<穢多・非人>)の分断の原因となる。これは<Ⅲに続く>。「科学より主観」「無責任」。
⒋ 二面性・二重性の基層=「神仏の二つの価値体系」=神仏習合政治―「延喜式」
①「延喜式・神祇」では国家祭祀の禁忌・タブーが規定。「忌穢・触穢」。
「穢忌」は([]内川元)「人死限三十日。産七日。六畜[牛・馬・羊・犬・猪・鶏]死五日。産三日。其喫肉。三日」。六畜に絞られるのが特徴。
「触穢」は「甲處有穢。乙入其處乙及同處人皆為穢。丙入其處、只丙一身為穢」。穢の三転。(『新訂増補 国史大系 交替式・弘仁式・延喜式前編』吉川弘文館・1972年68・69p)。
②同じ「延喜式・神祇」で、この規定と並んで「凡鴨御祖社南辺者。雖在四至外。濫僧・屠者等。不得居住」(『新訂増補 国史大系 交替式・弘仁式・延喜式前編』前掲69p)がある。濫僧・屠者は朝廷の儀式に関係ない。民間で仏教の不殺生戒で禁止される家畜の「殺生」と「肉食」を常態とする者。
③義江彰夫は神仏習合の仏を「古代王権神話とケガレ忌避観念をこえるものを創造しなかった」『神仏習合』(岩波新書208p))とする。
④鎌倉幕府の記録である『吾妻鏡』の文応元年(1260)六月十二日に、全国の寺社に向けて「仁王会」(仁王経の法会)を開催すべし制令がある。「諸国の寺社、大般若経転読の事。国土安穩、疾疫對治のため」この時期諸国で天変地異が続いた。 (『全訳 吾妻鏡 第五卷』訳注者・貴志正造・新人物往来社・1987年(昭和六十二)397~398p)。つまり、鎌倉幕府は現実の自然現象の異変を仁王経による法会を開いて制御しようとしている。
井原今朝男はこの仁王会について「仁王会・仁王講といい、天武五年(676)には諸国で営まれていた」とし「天変地異や兵乱、外寇、虫害除去、地震、旱魃・疫病などの国家的危機に際して宣旨などで執行が命じられた」(『中世の国家と天皇・儀礼』校倉書房・2009年(平成二十一)164~165pp)とする。「二面性・二重性」「神仏の二つの価値体系」
⑤黒田俊雄は「神国」の推進体である神道について「両部神道および山王神道は、それぞれ真言・天台系の神道説として、その原基形態はすでに平安末期に発生していた」(『日本中世の国家と宗教』岩波書店1984年266p)とし「所詮『神国』とはいうものの仏教の教説と信仰の一形態にすぎない」(529p)とし、中世の神仏習合、あるいは元寇に見る「虚像の信仰・思想」も前提に「つまり、神国思想は、都鄙民衆の素朴な寿祝的な神崇拝を『天下太平、国家安穏』という国家イデオロギーに塗り替え」「神国思想はこのようにしてこの後、封建支配の反動イデオロギーの切札となった。それは一向一揆の弾圧にも、キリシタンの弾圧にも強調され、ついには明治の国家神道や帝国主義戦争にも利用された」(前掲538p)とする。非常に大切な指摘である。これを放置してはいけない。「神国」「国体」「同質化」。
Ⅲ その超克、解放―― 百姓・民衆の位置から歴史を書き直す。
⒈ 負の体系としてのタテ社会(『失敗の本質』)と、分業者・技術者の自主的連帯としてのヨコ社会
「共同体内分業」と「共同体間分業」―古代・中世にかけて地域の村落共同体――豊臣政権の検地の対象―の村の構成員は「百姓」と呼ばれ農耕を軸に、狩猟・漁労・細工(屠者・鍛冶・大工など)・商など諸職能者、技術者、分業者の集合体だった。皇族・貴族が武士化した源氏・平氏を除けば侍・武士もこの中から出現した。
この段階を本論で「共同体内(ない)分業」=ヨコ社会と呼び、豊臣政権以後「兵農分離」「商農分離」「職人分離」などの分離分断によって諸職能が孤立した職業的共同体に編成され「天下」の支配になる形態を「共同体間(かん)分業」=タテ社会と呼ぶ。
①「共同体内(ない)分業」=ヨコ社会の時代を、丸山真男がいう現代的文化・文明論の「共通の広場」とし、「ササラ型文化」、「私たちの生活と経験を通じて一定の法や制度の設立を要求しまたはそれらを改めていくという発想」(『日本の思想』171p)の基盤とする。
②自主的連帯「共同体内分業」の再講想――地域的分業総連合=アソシエーションへ。
「惣村」「分国・大名領国」「国人」を支えた百姓・民衆の連合体。その典型「惣村」。
「惣村」「中世後期の自治的な村落共同組織」「惣村は鎌倉後期から戦国時代に至る時期に畿内近国を中心とする地域に広く存在した。その内部は、地侍・百姓・下人(富豪農家に帰属)などの身分的な階層構成を成していたが、全体としては惣百姓として強固な結び付きを形成し一つの法的な主体として社会の中に位置づけられていた。(略)成員全体が参加して寄合をもち、衆議によって惣掟が定められ、(略)惣の鎮守神に田地を寄進・集積し、それを惣として維持運営して惣村の経済的基盤とした」(『日本歴史大事典』(小学館)。
③ 惣村の崩壊、その失敗の本質と教訓
戸田芳実は『初期中世社会史の研究』(東京大学出版会・1991年)で、「田堵百姓(専農的百姓・川元)の現実的利害から生じた武士罪悪視の意識は、他面で勤労生産者として殺生を業とする人々、あるいはその悪報をうけたとみなされる人々を嫌悪し、差別する意識の形成・強化へとつながる」(173p)とする。武士罪悪観―殺生をする武士を仏教の「不殺生戒」で嫌悪した―を惣村の内部矛盾とし、それが同じ殺生をする屠者・皮田に及んだ様子を述べる。ここで述べる「田堵百姓」と武士の対立は本来共同体内分業の連帯にあった。そこに「虚像の信仰・思想」―「殺生禁断=天変地異制御」の国家イデオロギーが浸透して「共同体内の矛盾」を起す。「田堵百姓の現実的利害」とは、「殺生」の排除を意味している。これを改めて「共同体内分業」を基軸とし、現代の「城下」を軸に地域的分業総連合を構想する。
④ 十九世紀フランスの社会学者=E・デュルケムの『社会分業論』(訳・井伊玄太郎・講談社学術文庫1989年)は生態的実態としての社会的分業の連合を国家レベルで構想。中世ヨーロッパの自立的同業組合ギルドを基盤とし、その総連合によって民衆が自立する基層とする。そこでは職業の「水平化」が起こる。日本の「惣村」初期に類似している。
時間厳守・遅れた人は08066254802(川元)へ電話。
案内図:https://www.city.shibuya.tokyo.jp/est/kmkaikan/km_sasazuka.html
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