戦時下の女性雑誌における「短歌欄」と歌人たち―『新女苑』を中心に
- 2017年 6月 21日
- カルチャー
- 内野光子
加計問題について調べていくと、いろいろ出て来て、書きとどめておきたいことがある。諮問会議のもとでは、ワーキンググループ、区域会議などの組織が設けられている。さらに、安倍首相が、「<分科会>で専門の先生方にも議論いただいて・・・、<分科会>知ってますか、知らないでしょう!」と、質問の議員に応えていた分科会、その議論の中身とて、首相の言う内容のあるものではないが、分科会自体と諮問会議との関係、内閣府地方創生推進事務局の中での位置づけが明確ではない・・・。今問い合わせているのだが・・・。
今回、加計問題は小休止をして、最近、活字になった論稿をアップしておきたい。
歌人、ジャーナリストであり、国文学研究者であった窪田空穂は、今年生誕140年、没後50年ということで、角川『短歌』6月号で「いまこそ空穂」という特集を組んでいる。私は、ここ数年、阿部静枝と斎藤史研究の基礎作業として、著作目録を作成中だが、二人とも幅広いメディアで活躍したので、かつての「婦人雑誌」と呼ばれ、多くの読者数を誇っていた女性雑誌に多くの作品やエッセイを残していた。そこでの文献探索中に、「婦人雑誌」の短歌欄に着目した。その一端を、『ポトナム』95周年記念号(2017年4月)に寄稿したので、再録しておきたい。紙面に制限があったので、かなり端折ってしまったが、あらためて、本などにまとめる際には、追補したい。
空穂の戦時下の作品については、島田修三「窪田空穂、戦時詠」『昭和短歌の再検討』砂小屋書房 2001年)の論稿があり、空穂の「戦争観」をたどり、「本人の意に添っての錯誤ないしは禁忌として封殺しつづけるならば、この巨大な歌人は生の全貌を不自然に歪ませたまま短歌史の闇をさままいつづけることになりはしないか」と結んでいる。今回の特集の執筆者は、ほぼ、空穂系の歌人で固められているので、この辺りに触れているのは、今野寿美「忘るる得たり」で、『明闇』から戦時下の作品を除いた『茜雲』編集に衝撃をうけ、戸惑い、「報道のままに歓喜する姿の浮かぶ様相は、むしろ痛ましい」ともいうが。
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戦時下の女性雑誌における「短歌欄」と歌人たち―『新女苑』を中心に
はじめに
拙稿「女性歌人はマス・メディアにおいてどのように位置づけられたか―敗戦前の女性雑誌の短歌欄を中心に」(『扉を開く女たち』二〇〇一年)では、主に『主婦の友』『婦人之友』を対象とし、「内閣情報局は阿部静枝をどう見ていたか~女性歌人起用の背景」(『天皇の短歌は何を語るのか』二〇一三年)では、阿部静枝の執筆が多かった女性雑誌の短歌欄に言及した。本稿では、太平洋戦争下における女性雑誌『新女苑』の短歌欄と選者、女性歌人の短歌に焦点をあてたい。
『新女苑』は、『少女の友』の主筆内山基(1903~1983)が主筆を兼ね、一九三七年一月、實業之日本社から創刊され、当時としては、若い女性向きの斬新な雑誌であり、敗戦をはさんで一九五九年まで刊行された。「創刊のことば」によれば「若き女性の静かにして内に燃える教養の伴侶」「少女雑誌と婦人雑誌の中間的存在」を目指した雑誌であった。当時の主婦向けの実用雑誌『主婦の友』『婦人倶楽部』などとは一線を画し、働く女性たちをもターゲットにした女性雑誌であった。吉屋信子ら著名作家による小説、グラビア、エッセイ、手記、座談会などに加え、翻訳文学、海外事情などにも及び、各分野の時評欄を充実させるなど編集に工夫が見える。平塚らいてう・宮本百合子・山川菊栄・金子しげり・奥むめお・高良富子ら女性の論客たちもしきりに登場していた。そうした編集方針を背景にしている「読者文芸」の一つ、「短歌」欄における選歌の動向や入賞作品の推移を見てみよう。
『新女苑』の研究として、入江寿賀子「『新女苑』考」(『戦争と女性雑誌』二〇〇一年)と石田あゆう「<若い女性>雑誌に見る戦時と戦後―『新女苑』を中心に」(『マス・コミュニケ―ション研究』二〇一〇年)があるが、歌人や短歌についての言及はない。内山基については、ともに二〇〇四年刊の遠藤寛子『《少女の友》とその時代』(本の泉社)、佐藤卓己「実業之日本社の場合―内山基の恨み」『言論統制』(中央公論新社)がある。
窪田空穂が選ぶ「短歌」欄
一九三七年三月号からスタートした「読者文芸」の「短歌」欄の選者は窪田空穂(1877~1967)であった。
・いねし子の口は静かにほころべり夢みつるらしほほゑみのうく
(一九三七年三月 大分 黄金眞弓)
・此の襖へだてヽ未だ寝ぬ人のありと思へばお落ちつかぬかも
(同上 奈良 松谷千鶴子)
入賞作品は、家庭の日常、相聞や働く女性の歌も多く、毎月三頁にわたる一〇〇首以上の作品が掲載された。いわゆる戦時詠、銃後詠などは、他誌の読者歌壇に比べてかなり少ない。つぎに、一九四〇年二月号をのぞいてみると、四首目のような作品は極めて稀であった。
・つきつめし思ひにふれてこほろぎは一直線の聲透すなり
(西宮 徳山くら)
・務終へ心つかれし吾が目には時雨にぬれし舗道は美し
(京城 丘志津)
・つつがなく今日も終りて安らかに我が事務机ふき清めたり
(東京 浜田彰子)
・やうやくに召さされし兄は胸張りて秋の大空にこヽろよげなり
(鹿児島 立山成子)
一般的に、新聞・雑誌が読者歌壇を設けるのは、まず、短歌愛好者の読者獲得という営業目的のためと同時に、「短歌」は、比較的気軽に嗜むことができる文芸の一つであり、作歌をしない読者にとっても、教養・実用記事が続くなかで、ほっとできるオアシス的な存在であったのではないか。さらに、短歌愛好者、投稿者にとっては、読者層やテーマも限定的で、より親しみやすく、入選頻度が高く、満足度も高かったにちがいない。投稿される短歌も表現技術や公式的な戦意高揚を競うものではなく、心情を吐露する素直な作品が多かったことが垣間見られるのである。
『新女苑』「短歌」欄の選者は、通して窪田空穂が務めていた。『主婦之友』『婦人之友』の二誌では若山喜志子が長く、『主婦之友』では太田水穂も長かった。『婦人朝日』は今井邦子、『婦人倶楽部』は、交代ながら選者はすべて女性歌人であった。『婦女界』の佐佐木信綱も長い。『婦人画報』『婦人公論』は読者歌壇を持たなかったが、『婦人公論』は、一九四二年、「愛国の歌」を募集、土屋文明、北原白秋、佐佐木信綱が交代で選者を務めたことがある。
一九三七年七月七日中戦争開始を受けて、出版統制はますます厳しい時代に入った。翌年四月国家総動員法が成立、五月内務省警保局から「婦人雑誌ニ対スル取締方針」が発表され、九月内務省図書課から雑誌社代表に貞操軽視の小説は不可の指示が、一一月内務省から婦人雑誌編集者へは健全な母親教育・用紙節約の要請が、一二月厚生省からは婦人雑誌編集者に戦没者出征遺家族精神援護の要請が出された。一九四〇年一二月大政翼賛会は婦人雑誌編集者に対して母たる自覚の鼓吹を要請した。「要請」という名の弾圧は、さらに具体的になっていった。一方、女性執筆者に向けても、一九三八年一二月企画院は婦人団体への時局対策協力要請、一九四〇年一一月女流文学者会議発足、一九四一年五月内閣情報局の女性指導者らの時局懇談会召集などによって、統制と自主規制の両面から強化されてゆく。それは、一九四一年七月の警視庁による家庭婦人雑誌の整理統合要請につながり、八〇誌発行されていたものが一七誌に絞られ、一九四四年三月には、中央公論社解散により『婦人公論』は終刊、一九四四年末には、「婦人雑誌」として『主婦の友』『婦人倶楽部』『新女苑』、「生活雑誌」として『婦人之友』が残るのみとなった。
一九四四年、『新女苑』の「短歌」欄も、たった一頁に圧縮されてしまい、三四~五首のうち、三〇首近くが戦局・銃後詠であって、かかわらない作品は五首にも満たないという、当初との逆転現象が起きていた。選後評はなくなり、末尾に選者詠が二首だけ記されるようになった。
・引く線の機となり銃となる日の日に近し吾等励まむ
(東京 中越愛子 一九四四年九月)
・待ちしもの今し皇土に来向ふと配置に在りて人等臆せず
(島根 森蔦子 同上)
・この大事決せむ前の静けさの相見て笑めど言に出ださず
(窪田空穂 同上)
・民族の命は長し吉き事のかぎりあらぬをのちに譲らむ
(同上)
さらに、雑誌自体の頁数も激減し、「短歌」欄が見当たらない月もあって、一九四五年三月をもって、その灯は消える。三五首の入賞作から二首と選者詠二首を記しておこう。その後は、二冊の合併号を刊行して敗戦を迎える。
・わが包むこの菓子はもよ神兵の糧となるものぞ思ひ清しも
(山形 結城ひとみ 一九四五年三月)
・子の寝顔あどけなくしてゆり起すことをためらふサイレン聞きつつ
(三重 室井きよか 同上)
・言にして怒りをいはむ時は過ぎ憎み極まる憎みを遂げむ
(窪田空穂 同上)
・奇しき火の見えぬ炎の揺らぎつつ国内をおほふこの神力
(同上)
『新女苑』1945年3月号の表紙、目次と1頁だけになった「短歌欄」
選者、窪田空穂にとっての敗戦
ところで、選者の空穂は、与謝野鉄幹の『文庫』をスタートとして、短歌を中心とする文学活動に入り、ジャーナリストを経て、早稲田大学を根拠地とする古典の研究者となり、『槻の木』を主宰、十数冊の歌集を出版している。一九四一年には、歌人として、斎藤茂吉、佐佐木信綱らに続いて、北原白秋と前後して帝国芸術院会員となっている。この間の作品は第一四歌集『冬日ざし』(収録一九三七~一九四〇年。一九四一年六月刊)、第一五歌集『明闇(あけぐれ)』(収録一九四一~一九四三年。一九四五年二月刊)がある。これらは、いま手元にある『窪田空穂全歌集』(短歌新聞社 一九七六年一二月)には収録されているが、『明闇』の改装版としての「戦時下の詠を除いた」『茜雲』(西郊書房 一九四六年二月)だけを収録する「全歌集」や「選集」があることがわかった。『明闇』は、刊行直後の空襲により大部分が出版元で焼失したという。『茜雲』の「後記」に、つぎのように記す。「内容の点からも見ても、再版は不可能なものである。それは戦時下の著者の感慨は、新聞ラヂオの報ずるところをそのままに受け入れ、国民の一人として発しさせられたもので、その他の何物でもなかつたのである。その間の詠は終戦後の今日、戦役その物に対しての認識を改めさせられた心よりしては、再び見るに忍びないものである。」
なお、一九五三年七月刊行の選集『窪田空穂歌集』(新潮文庫)の『茜雲』末尾の自筆メモでは、「(茜雲は)長歌三首、短歌六二八首より成つてゐる。戦局の明らかに険悪となつて来た期間の作で、その方面のものが相應にあつたが、出版は占領下の検閲の厳しい際であつた」と記されている。
そして、第一七歌集『冬木原』(一九五一年七月)に到る
のだが、戦時末期一九四四年から、病弱の次男茂二郎がシベリアの捕虜収容所で病死していたことを知る一九四七年までを収め、その「後記」にも、つぎのように記す。「選をするに当たつては戦局そのものを対象としたものはすべて捨てることとした。その当時にあつては、それらが感傷の主体をなしてゐたのであるが、既に敗色の歴然たる段階であり、新聞ラヂオ刺激としての長太息に過ぎないもので、時の距離を置いて読みかへすと、きわめて空疎なもののみで、とるにたりないものばかりだつたからである。」
『冬木原』は、「慟哭の歌集」「反戦の歌集」として、評価の高い歌集である。敗戦直後に刊行された『茜雲』『冬木原』の「後記」、後年のメモなどにおける解説をどう読むべきなのか。「戦時詠」「戦局詠」を除いたのは、占領軍の検閲の故なのか、戦時報道を受け入れただけの作歌が取る足りない故だったのか、判然としない。たしかに空疎な作品が多いのは事実であろう。しかし、その時代に、多くのメディアに発表し、それを歌集となし、多くの読者を得て、さらには、結社や読者歌壇欄などで、翼賛的な作品を選んだ指導者としての責任はどうなるのだろうか。もちろん、窪田空穂だけではない多くの歌人たちが遭遇した問題であった。すなわち、敗戦後、戦時下の作品をいかに「処理」したのかは、現代にいたるまで戦争責任、戦後責任の課題を提示しているはずである。
『新女苑』に登場した女性歌人たち
女性歌人は、短歌作品に限らず、エッセイなどでも、柳原白蓮、今井邦子、若山喜志子、茅野雅子、四賀光子らのベテランが起用されるなかで、中堅や新進も登場した。一九三六年『暖流』を刊行、一九四〇年『新風十人』に参加した五島美代子(1898~1978)は、『暖流』の序文で川田順に「母性愛の歌人」と称揚され、胎動を詠んだ初めての歌人とも言われている。夫のイギリス留学に伴い、海外体験のある美代子は、空襲下のロンドンの惨状にも思いをはせるが、日米開戦前後は、二首目のような変化を見せる。
・ロンドン空襲の記事なまなましく胸にありていはけなき子のしぐさ見てゐる
(五島美代子 一九四一年三月)
・ますらをが建てやまぬ天の柱のもと踏みてかひある女の道見ゆ
(五島美代子 一九四二年一一月)
また、大正末期以降、働く女の母性、愛児の歌を詠み続けた中河幹子(1895~1980)もつぎのような歌を寄せる。
・ますらをの北に南にいのち死に國ぬち安けきに涙ぐましき日々
(中河幹子 一九四三年七月)
・警戒警報の笛なりわたるうす月夜子をかかへ強き女を感ず
(同上)
五島とともに、『新風十人』に参加、二・二六事件にかかわった父斎藤瀏、反乱軍として刑死した幼馴染を詠んで注目された斎藤史(1909~2002)も、短歌をたびたび寄稿する。
・街の果に冬雲垂りてにごりつつ我にとよもすたたかひの歌
(斎藤史 一九四一年三月)
・微少なるわれらが生を思へらくいのちはいよよしろじろと燃ゆ
(斎藤史 一九四二年九月)
しかし、こうした女性歌人の作品すらも、一九四三年後半から登場することがなくなり、一九四四年に入ると、男性歌人のストレートな戦意高揚歌やエッセイが毎号登場するようになる。その実態と背景については別稿に譲りたい。
(『ポトナム』2017年4月所収)(画像は、ブログ再録に際して掲載した)
<参考>
いずれも『新女苑』の短歌のコラムで、1942年頃から、女性歌人に代わって男性歌人が起用され、ほかに、浅野晃、会津八一、半田良平、影山正治、逗子八郎(=井上司朗、吉井勇らの作品が登場する。
初出:「内野光子のブログ」2017.06.19より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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