『“目覚めよ”と呼ぶ声が聞こえる』片山郷子・著 鳥影社・刊
- 2017年 7月 4日
- カルチャー
- 書評片山郷子阿部浪子
現代人は不安を背負っているという。とりわけ、老後の不安とはどのようなものか。片山郷子の第6作品集には、その心情がこまやかに描かれている。胸に染みいる、詩1編と小説5編だ。老若男女を問わず、自分のこととして多くの人に読んでもらいたい。生と死についても、著者は問いかけてくる。
短編「柿の木」で第2回・小諸藤村文学賞を受賞したのは、片山郷子58歳のときである。以来、詩、小説、エッセイを発表してきた。65歳のころ、視覚障害者になり、執筆は音声入りパソコンを用いるようになる。
わたしは1昨年、インターネットのサイト・ちきゅう座に「片山郷子―わたしの気になる人④」を掲載した。片山郷子の、文学と人の一端に触れえたと思っている。
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「わたし」は、「望んで障害者になったわけではない」。収録作品「ベンチのある散歩道」のなかに書く。作中の「わたし」は、著者と等身大の女性であろう。1軒家を離れて公団住宅にひとり暮らしをする。70歳代後半で、夫はすでにない。子どもと孫がいる。彼女は、日々とりとめのない不安に襲われるという。白杖をたよりに、公園のベンチへ向かう。腰をおろして、とりとめのないことを考える。と、見知らぬ人が言葉をかけてきた。「お歳を召してから目がご不自由になって、さぞ不便でございましょう」と。その帰り道に迷っていると、自宅まで案内してくれた人もいる。また、団地内の老女は、電話とメール、おいしい物をとどけてくれる。
他人との会話や交流が、彼女の不安な日々によろこびをもたらすのであろうか。
彼女は人生最後のつもりで、大学病院眼科の診察をうけた。病状はとまらず悪化していく、という医者の「ご託宣」に絶望する。付き添いの長女は、ショックのあまり目に涙をあふれさせる。その涙に、彼女は「愛の泉」を感じるのである。この短編のもっとも感銘深いくだりだ。血縁をこえる愛、ととらえられるかもしれない。
「決まるまで」は、著者のはげしい感情がぶつけられた作品である。読んでいて悲哀がこみあげてくる。夫が生きているあいだは、嫁との関係は深刻なものではなかった。しかし、独り身になって考えは変わっていると、姑はいう。「どこの母親も命がけで息子を育てたのである。見返りを期待しないで。だが老いがこころを弱くして見返りを欲するようになる」と。
嫁は作中に直接、登場しない。かたくなな人かもしれない。姑に相談なく、住まいを実家近くのマンションに決めてしまう。無視する嫁の冷酷さを「わたし」は感じた。きり捨てられたとまでは思わないけれど、息子1家との同居の望みはたたれた。自分のことは自分で決めるしかない。彼女は、視覚障害者専門の老人ホームを見学に行くのだ。
彼女の老いと障害の不安は、読者の心をつよく揺さぶってくる。たんに姑と嫁の問題ではない。たしかに、姑にとって嫁は他人だ。しかし、血縁を超える愛と、他人にたいする想像力がもとめられているのではないか。
「決まるまで」の重苦しい気分をふっきるのが、「時のさかい」である。著者はここで、ひとつの愛のかたちを提起する。彼女の目をとおして、彼の外見は描かれていないが、彼女との対話をとおして、彼の人となりはあざやかになってくる。
「わたし」より6歳上の彼が、ひさしぶりに訪ねてきた。「君をひとりにしないって決心したんだ」「君の目となれる。きっとなる」と、彼は言う。現役の弁護士である。その妻は病死している。むかし彼女の弟の家庭教師だった。彼女が17歳のとき、司法修習生として地方へとびたった。彼女は待つことができず、べつの男性と結婚する。しかし、ふたりはその後も会っていた。
いま、彼女の心に陽光のようなものが満ちている。彼の好物のうなぎの特上を出前にとる。ふたりのうれしそうな様子が、生き生きと伝わってくる。彼の求婚をことわっても、彼女は、これからも、彼の愛をうけいれていくであろう。
姉と弟のことを回想ふうに描いた「魂よ われに戻れ」「姉妹」も、印象深い作品だ。
収録小説5編は、いずれも、著者の体験を丹念に描いている。とりわけ、著者とかさなる彼女の心情が、読者の胸にしみじみと伝わってくるのである。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture0502:170704〕
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