防衛省の「日報」問題に過去の亡霊を見る
- 2017年 7月 30日
- 評論・紹介・意見
- 官僚日本軍野上俊明
フリージャーナリストから情報公開請求のあった自衛隊PKO派遣の「日報」について、はじめ「廃棄済み」としていたものが陸自に電子データで残されてことについて、その事実関係を公表するかどうか対応を協議する「緊急会議」が本年2月15日にもたれた。防衛省の制服組・背広組が揃うトップ会談だったが、大臣が明確な意思表示をしなかったので非公開を了承したものと解し、公表しなかったという―おそらく会議の流れは、最初から隠ぺいの方向に動いていたのであろう、だから沈黙は了承を意味していた。
重大な案件であるにも関わらず、最高責任者が明確な意思を表明せず、部下の方もそれを訊き質すこともなく勝手に忖度して了解したとする、この既視感のある日本式官僚主義。
我々はアジア太平洋戦争時、3万人以上の戦死者を出したインパール作戦で同じような光景を目にしていた。昭和19年3月に発動したインパール作戦は補給兵站の裏付けのない無謀な戦いで、すでに開始後2カ月で勝利の見込みは万に一つもなくなっていた。6月5日、インパール作戦の最高責任者牟田口第15軍司令官と河辺ビルマ方面軍司令官が会談、客観的には作戦中止以外取るべき道はなかったが、お互いに相手が作戦中止を言い出すのを待つばかりで、結局責任をとるのが嫌でどちらからも言い出せず、作戦続行となって7月以降にようやく中止になる。こうしてインパール作戦はアジア太平洋戦争中もっとも悲惨、凄惨な戦いとなるのである。―ジャワの極楽、ビルマの地獄、生きて帰れぬニューギニア。(第15軍司令部のあったメイミョウはイギリス人が開拓した高原避暑地で、戦死者続出の戦場から400キロ以上離れ、高級将校たちは毎晩浴衣に着替えて芸者(日本人慰安婦)を侍らせて酒池肉林に溺れたという。肴にはマグロの刺身すらあったという。メイミョウの野戦病院にいたある将校は、私にメイミョウ時代は大変楽しかったとの賜った)
牟田口廉也中将はインパール作戦後帰国するも、一切責任を問われることなく陸軍士官学校の校長に栄転する。また河辺司令官はラングーン陥落前に自分たちだけ飛行機で南ビルマのモールメインに脱出。そのくせ残存部隊にはラングーン死守と陥落後は奪回を怒号したという破廉恥振りであった。
日本式官僚主義―誰が決定者かもあいまいで、上級者が徹底して責任回避する無責任の体系―は、70年経ってもあまり変わっていないようである。これらを「美しい日本」と懐かしみ憧れる安倍首相の感覚とは一体いかなるものであろうか。
2017年7月28日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion6838:170730〕
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