2017年ドイツ紀行(7) Rottenburg am NeckarとUlmへの旅
- 2017年 7月 31日
- カルチャー
- 合澤清
Stuttgart, Rottenburg am Neckar
Hardegsenを出発する時は、朝から雨で、しかもかなりな寒さ。つい最近、こんな時用に安売り衣料店で子供が着るようなフードつきの長袖のヤッケを5ユーロという破格の値段で買った(おそらく、身体の大きなドイツ人には別格の小さなサイズxsなので、買い手がなかったのではないだろうか)。早速それを着こんだ。ペトラに「アメリカ人の様だ」と冷やかされた。
ゲッティンゲン駅までは、親切なペトラが車で送ってくれた。プラットホームで寒さに震えながら、フランクフルト行きのIC(急行)に乗り込む。座席もまだかなりゆとりがあり、4人がけに2人でゆっくり座る。ICEよりもこちらの方がよっぽどましだ。時間もかなり正確だ。
フランクフルトでICEに乗り換え、シュツットガルトまで行く。天候は途中のフルダを過ぎたあたりから晴れて来て、暑い。ヤッケを脱ぐ。シュツットガルトはメルセデス・ベンツ、ポルシェ、ボッシュなどの本社がある大都会で、以前に来た時の印象ではフランクフルトに比べてずっと気取った印象を受けた。フランクフルトが新宿だとすれば、こちらは丸の内辺のオフィス街で、ネクタイ族が多いというイメージである。
この印象は変わらないが、それでも少々新宿のイメージが混じってきたかな、と思った。おそらくここに着いたのが昼休み時だったこと、今が夏休み時期で若い人たちが多かったこと、またアジア系をはじめとする外国人の姿を多く目にしたためかもしれない。
駅は改装中で、駅前は雑然としていた。たしか、Schlosspark(宮殿付属公園)の前の大きな建物は、以前は取引所(Börse)だったが…?今はなんだかいろんな店が入っているようだ。
公園脇のベンチでしばらく憩う。ブラブラと商店街を歩き、街路樹の下の涼しそうな日除けテントの陰の椅子に腰かけ、コーヒーと軽食を頼む。
確かこの近くにヘーゲルハウスがあったはずだがと、食後、周辺を少し歩いたが、見つけ出さないまま(こちらもあまり熱心に探したわけではないのだが)、駅の方向へと戻る。途中でシラーの大きな像を眺め、写真を取る。(下はシラーの像とパネル)
シラーは細面で、鼻筋の通った大変な美男子で、多くの女性のあこがれの的であるようだ。この写真では残念ながら顔の部分が逆光線になっていてうまく写っていない。服装もなんだか牧師が着るような長い上着を羽織っているため、連れ合いなどは、シラーではなくて、どこかの僧侶ではないかと疑ったぐらいだ。そのため、像の台座にはめ込まれたパネルを写して証拠とした。
今回の旅は、シュツットガルトからチュービンゲンに行こうという予定のものであった。しかし、予めネットでチュービンゲンのホテルを予約しようと調べてみたら、なぜだかすべて満員だった。以前は8月になってからの予約は難しいと言われていたはずだが、どうしてこんなに早く埋まってしまったのだろうか。まさかヘーゲル詣ででもあるまい。
因みに、このチュービンゲンでは駅前の少し広い幹線道路の名前が「ヘーゲル・シュトラーセ」である。イエナでよりは有名なのか?
シュツットガルトからの各駅の電車は、チュービンゲン止まりであった。ここで途中下車しようかどうか、一瞬の逡巡の挙げ句、暑さとビールの魅力に負けて、予約したホテルのあるロッテンブルクまで行くことにした。乗り換えて9分で着く。駅の表示はRottenburg (Neckar)となっていた。小さなカトリックの町で、保守の地盤であるようだ。冬のフェストが有名だとは後から聞いた話。これも後から知ったのだが、ここから更に10分ほど電車で行くと「チュービンゲンの奥座敷」とも言われるBebenhausenという村(?)があるそうで、そこが実に素晴らしいという。これは若い頃チュービンゲン大学に2年位留学されていた、元明治大学の生方卓先生から帰宅後のネット交信で初めて教えられたことだが、すぐそばまで行きながらおしいことをした。
また、友人のラルフの話では、ロッテンブルクは有名なワインの産地で、ここのワインは大変おいしいとのこと、これも帰って来てから聞かされた。後の祭りであるが、来年の楽しみでもある。
宿に落ち着いてから、街を散歩した。確かに美しい町である。特に気にいったのはネッカー川の畔の散歩道で、柳が垂れる風情はなかなかのものだ。チュービンゲンのヘーゲルが学んでいた神学校[チュービンゲン大学神学部]の脇の、ネッカー川に沿った散歩道と同じものを感じる。この様な道を若いヘーゲルたち(ヘルダーリンやシェリングなど)が口角泡を飛ばせて議論しながら、あるいは一人静かに思考を巡らせながら散歩したのかもしれない。
ネッカー川 ロッテンブルク
Ulmを散策する
ウルムで有名なのは、まずこの地のミュンスター教会の巨大な塔であり、次にここがかのアルバート・アインシュタイン( Albert Einstein)の生誕地であることである。
実際にはもっといろいろ興味深いことがあるであろうが、今回、われわれはこの二つをキーワードとしてこの地を歩いて見た。
商店街を抜けてすぐ右手にユダヤ人通りとかユダヤ人館とかと書かれた標識があった。ここに多くのユダヤ系の人々が住んでいた(あるいは現に住んでいる)ことが判る。そういえば、アインシュタインの一家もユダヤ系であり、それ故にスイスやアメリカに逃れざるを得なかったことはよく知られている。
この辺まで来るとすぐ側、左手に巨大な教会の尖塔(何でも、教会の塔としては世界一の高さだという。およそ東京タワーに匹敵するほどの高さだそうだ)を見上げるようになる。
ミュンスター教会の尖塔と市庁舎(右上)
ある歴史家が書いていたが、ヨーロッパの文化はその根源に太古の森と巨岩があり、それの発達した形態が塔(尖塔)になり、また石造りの家になったという。確かに、色々な街を歩いていて、この指摘は十分うなづける。ドイツでは今でも、街の周囲には巨大な森が延々と続き、また森に続く丘はごつごつとした巨岩がむき出しの状態である。ここには太古の残像があるように思う。古代ヨーロッパ人が、大変な苦労をしてこの岩だらけの土地を開拓し、畑に変え、また家畜を養った事に今更ながら畏敬の念を感ずる。ドイツのこの美しい自然環境も、こうして再生されたものであろう。
ミュンスター教会を一周しながら、市庁舎を眺め、少し路地裏などにも足を延ばしてみたが、なかなか乙な雰囲気を持つ魅惑的な通りが多かった。
この町はかつての大戦で、街の80%近くを破壊されたそうである(奇跡的にミュンスター教会の尖塔は無事だったそうだ)が、見事に再建されていて、多くの古めかしい建物が目についた。
さてもう一つのアインシュタインに関するインフォメーションであるが、これがどうも見つからない。しかも、どの町にも必ずあるはずの公設の「インフォメーション」がどこを探してもないのである。
その内、帰りの時刻が迫って来たため、やむなく駅の方に引き返しながら、街角のところどころに立てられている「インフォ」標識を覗いて見たら、駅のすぐ近くにモニュメントがあることが判った。
そういえば、若いころに読んだ『チューリヒのレーニン』という本の中で書かれていたと思うのだが、アインシュタインはかなり早い時期にスイスのチューリヒに引っ越して、確かそこのギムナージウムを出たのではなかったか…、かすかな記憶を呼び覚ましながら、駅に向けて歩いた。駅前は再開発かと思えるほど、大々的な工事が行われている。その工事現場のすぐ横に、なんともさえない形で、しかも近づいてその刻印された文字を丁寧に探さなければ見落としかねない程度の大きさで「アルバート・アインシュタイン」と書かれているのを見つけだした。このモニュメントのある場所が彼にとっていかなる場所であったか、実家があった場所なのかどうか、などはわからないまま、それを探し当てたことで一応満足して帰途に就いた。
アインシュタイン・モニュメント
思いだしついでの余談だが、この『チューリヒのレーニン』(著者が誰かは思い出せない)によれば、若きアインシュタインと、亡命中のレーニンと、パブロ・ピカソが同時期にチューリヒで生活していたという。しかも、当時の官憲が一番眼をつけていたのは、レーニンではなく、パブロ・ピカソたち「過激な(アナーキーな)芸術家集団」であったというから面白い。彼らはしばしばキャバレー「ヴォルテール」に集まり、時に拳銃をぶっ放して気勢をあげていたそうである。
一方、亡命ロシア人の方は、毎日勤勉に図書館に通い、熱心に読書し、またノートを取り続ける「ノーマーク」の人だったという。 (2017.07.24記)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture0513:170731〕
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