「政治とは大衆を欺くことである」ー憲法改正の決意を語ろう。
- 2017年 8月 5日
- 時代をみる
- 澤藤統一郎
恥ずかしながら私が、政権与党の総裁であり、この国の総理大臣だ。
この欄を借りて政治の要諦を語りたい。常々私が思っていることで新味はない。しかし、今の政局において私の考えを確認しておくことは無意味ではない。とりわけ、今次の内閣改造の意図をご理解いただくために有益ではなかろうか。
誤解を恐れずに結論からはっきり申しあげておこう。政治とは大衆を欺くことである。そう割り切れることが政治家としての資質であり、欺しのテクニックこそが政治家に求められている技術なのだ。
大衆の望むところを把握して、大衆の望むとおりに国政を運用する。それは唾棄すべき大衆迎合政治以外のなにものでもない。それでは、国家かくあるべし、民族かくあらねばならないという、理想や理念が欠けることになる。政治家たるものは、大理想、大理念を抱いて、その実現のために邁進しなければならない。大衆の意思実現のために政治家がいるのではない。政治家たるものは、自分の理想・理念をもって大衆を動かすのだ。必ずしも、理性的な共感を得る必要はない。感性のレベルでも、利益誘導でもなんでもよい。発揮されるべきは欺しのテクニックなのだ。
政治はリアリズムである。理想・理念を語って大衆の支持を得られるとは限らない。むしろ理想・理念に反発するのが大衆の常と言ってよい。政治の究極の目的は、最大多数の大衆の幸福だ。しかし、大衆は多様であり盲目でもある。大衆自らに幸福への道筋を切り開く能力はない。だから、大衆を善導する政治家が必要であり、その善導こそが欺しなのだ。
今、パターナリズムは評判が悪い。しかし、子が自らの人生を決定する能力を欠く以上、親が子のためを思って、その人生に介入することに何の不都合があろうか。政治家と大衆とは、まさしくこの関係にある。
厄介なのは、民主主義という枷だ。天皇の権威、国体の権威、国防保安法や治安維持法の時代であれば、親が子に対する体罰同然の実力の行使が可能だった。今、それができない。とすれば、政治家は大衆を欺すしか方法がない。
最も望ましいのは、大衆の洗脳だ。大衆が、政治家の思想や理念をあたかも自らが望んだごとくに仕向けることだ。それができなくても、消極的な支持が獲得できればよい。アベにまかせていれば、経済も外交も国防もそんなにひどいことにはならないだろうと、是認していただけたら、それで十分。そこまで大衆を欺して、私の理念にしたがってこの国を経営すること。それが、政治というものであり、政治家の役割なのだ。
羊頭を掲げて狗肉を売るのは、商道徳としては許されないことかも知れない。しかし、政治家は大衆に狗肉が必要だと考えれば、信念をもって狗肉を売らねばならない。狗肉を狗肉として売ることが難しければ、積極的に羊頭を掲げるべきなのだ。
話を具体化しよう。私が目指す政治の理想は二つある。一つは、戦後レジームを否定してあるべき日本を取り戻すことだ。かつては、個の尊重だの、個人の尊厳だのという浮ついた観念はなかった。一億の日本民族が大日本帝国に結集して、富国強兵を誇っていたではないか。あの教育勅語が醸しだす美しくも強い輝ける時代にまで時間軸を巻き戻さねばならない。そして、国防に心配のない国家を建設するのだ。
もう一つは、岩盤規制を打ち砕いて、徹底した企業活動の自由を保障することによる豊かな社会の創出だ。世の中を徹底した競争社会とし、厳しい優勝劣敗の結果としての格差を是認して、一億総活躍国家を実現するのだ。
どちらの理想にも反対者が多い。個人の尊重こそが公理だとか。平等こそが美徳だとか。成長よりも分配だ。自助原理よりは福祉国家だ、という類。要するに、国家主義や民族主義を嫌っての利己主義なのだ。
これを克服しねじ伏せるには、個人主義・自由主義を立脚点としている現行の日本国憲法を変えるしかない。個人よりも家庭が大切で、家庭よりは地域、そして地域よりは国家が最も大切だと根本的な価値観の大転換をしなければならない。そのための憲法改正が私の悲願なのだ。
ようやくにして、両議院の議席の3分の2を改憲派で占めるところまできた。内閣の高支持率も維持してきた。欺しのテクニックが功を奏したのだ。もう一息で、憲法改正が実現できる。そんなところで、焦りと緩みが出た。
これまで、長く続いていた内閣の高支持率が急落した。たった8億円程度の国有地払い下げの価格値引きの不透明。そして、私の友人が経営する学校法人の希望に添った新学部設立認可の件だ。これを機に、私への不満が噴出した。実は、共謀罪や集団的自衛権行使容認に対する国民的批判がもっと深い底にある。そして内閣の不人気は、直近の選挙結果にも表れている。
しかし、もう一歩の憲法改正を失敗に終わらせるわけにはいかない。こういうときにこそ、政治家のホンモノ度が試される。「頭が高い」といわれれば、いくらでも頭を下げよう。一回で足りなければ3回でも5回でも。8秒では短ければ1分頭を下げてもよい。説明が足りないと言われれば、何度でも繰り返し説明をしよう。大切なのは、政治家が理念を捨ててはならないことだ。私は、リアリズムに徹して、それが有効であることを計算して、頭を下げる。説明を繰り返す。
もっとも、低姿勢で反省するとは繰り返すが、反省は「丁寧な説明の不足」の限り。けっしてそれ以上には言及しない。だから、大阪航空局や近畿財務局の行為を解明して責任を明らかにすることはけっしてしないし、加計学園の国家戦略特区指定取り消しもけっしてしない。もちろん、絶対に憲法改正を撤回するとは言わない。この課題は継続するのだ。これを撤回したら、いったい何のための隠忍自重か、わけの分からぬことになる。
「アベ一強」が評判悪いようだから、私に批判的な人物も閣内に取り込む。こうして、低姿勢で経済優先の仕事人内閣の組閣は、すべて憲法改正のためなのだ。すべては、私流のやり方で究極的に大衆を幸福にするために、豊かで強い経済と国家を作るための方便なのだ。私の政治的理想と憲法改正の悲願実現のために、いま私は、「大衆を欺く技術」を最大限発揮しているのだ。
臥薪嘗胆という言葉は今の私のためにある。いまに、呉王夫差はやがて越王勾践を破ったが、私は日本国憲法を改正するのだ。そういうことなのだから、私にお力添えをお願いしたい。
(2017年8月4日)
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2017.08.04より許可を得て転載
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