虚妄の日々2
- 2017年 8月 18日
- 交流の広場
- 山端伸英
世紀の大知識人A君のように紀行文でも書こうと思ったが、写真をのっけてくれるほどの好待遇は受けていないのでなんとなく画面を見てたら「メキシコ学」なんちゅうのも日本にはあるのかと思って安心して寝ようと思っている。
すこしまえの重国籍問題も今や跡形もなく忘却の道に転がってもなく、相変わらずの日本だが、フジモリをグーグルで開くと依然としてペルーおよび日本国籍と書いてあるのでさらに安心。2005年までは僕もフジモリの重国籍に腹を立てたんのだが、ドイツの有力な圧力団体に移民協会があるように、スペイン憲法が公然とわが国は二重国籍国家であると宣言しているように国家はひとつの終着駅を迎え始めている。この10年余り、無責任なくせに弱いものいじめだけは熱心な日本の駐墨大使館にちちくられながら、国籍についても考えてきた。国家武装を専守防衛という言葉で認めた村山政権や取り巻き政治学者たちは、どうしても、これからでも抹殺しなければならない。それが非暴力というものだろう。
で、重国籍について各段階で、国籍よりも武装について考えているのはテロリストとしての職分上、どうしても民間武装にたいする市場の公開が期待されるのだが、アメリカ風にスーパーマーケットで銃器が買えるのもいいが、非暴力抵抗や性犯罪などへの取り組みも民間武装だと僕は思うのだ。
三島以来、きちんと民間武装で戦おうとしない右翼は右翼思想を腐らしているのだが、これは左翼にも言えることだ。
日本の政治風景が第三世界風になってきているのは、たぶん、A君のような有能な知識人が外遊しているためだろうけど、日本の円高がユーロを安くみなしている時代において左翼も結構裕福に生きているようだ。
あちこちの自治体が保有している放射能汚染ゴミの安全管理については、だから貧乏人が担当しているのだろうけど、今後のプロレタリアートはまさに放射能まみれになってゾンビ化の一途をたどるのだろう。悲惨だ、悲惨だ。
さて、重国籍についてのエッセーを書いて、どこかに投稿したいのだけど、日本国民は、日本国民であることをどこでも自慢して歩いているのだから、もう興味もないだろうなあ。
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